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□ 今津 修平 (2000年3月 卒業)
  株式会社MuFF

□ 梶川 浩助 (2002年3月 修士課程修了)
  有限会社MuFF

□ 東端 秀典 (2003年3月 卒業)
  地方の車窓から

□ 村山 徹 (2004年3月 修士課程修了)
  青木淳建築計画事務所勤務 qkzd


□ 山下 孝典(2009年3月 修士課程修了)
  ROOM

※ 花田研究室OB.OGでホームページをお持ちの方は花田までご連絡ください
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# by yoshiaki-hanada | 2008-04-07 13:15 | ●花田研OB.OGのHP

環境デザインのトップランナー 第1回 安部良「建築はうたうたう」

今年も、神戸芸術工科大学環境・建築デザイン学科では、第一線で活躍する若手デザイナーを招いた連続講演会を開きます。
入場無料。どなたでも参加していただけます。ぜひお越し下さい。
(本企画は鹿島建設株式会社の助成を受けて開催されています。)

お問い合わせ:
環境・建築デザイン学科事務室
078-794-5031 

■神戸芸術工科大学 環境・建築デザイン学科 トークセッション2008■
環境デザインのトップランナー 第1回
安部良「建築はうたうたう」
2008年5月20日(火)18:00−20:00
神戸芸術工科大学 環境・建築デザイン学科 5201号室

安部良(あべ・りょう)

1966 年 広島県生まれ
1990 年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
1992 年 同大学院修士課程修了/石山修武研究室
1995 年 architects atelier ryo abe 主宰
2001 年〜東海大学理工学部建築学科非常勤講師
2005年 GOOD DESIGN受賞

著書:
『建築依存症/ARCHIHOLIC』(ラトルズ、2006)
作品:
『parajarita』(2006)、『calacola』(2004)『pecosa』(2003)
『井の頭御殿』(2002)、『うつくしま未来博水産展示館』(2001)
『うつくしま未来博国際交流ビレッジ』(2001)、『demagogo』(1999)
『solamente』(1997)他
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# by yoshiaki-hanada | 2008-04-01 18:31 | ●イベントのお知らせ

過去の花田の日記

過去の花田の日記はこちらにあります。
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# by yoshiaki-hanada | 2008-04-01 00:00 |  - 過去の花田の日記

愛媛新聞「道標」欄のコラム

今年、愛媛新聞に連載している原稿です。毎週日曜日の1面にある「道標 ふるさと伝言」というコラム欄で、毎年5人の愛媛県出身(あるいは住んだことがある)のひとによって書き継がれています。今年のラインナップは以下の通り。5週に一度まわってきます。愛媛新聞社の了解をいただいたので、私の担当分を掲載します。ちなみに私は、愛媛県東宇和郡野村町(現在の西予市野村町)で生まれて、小学校3年生の2学期の途中までそこで過ごし、その後、高知市へ引っ越しました。

 スポーツジャーナリスト          二宮清純
 浜松医科大名誉教授・写真家        山下 昭
 NGOピースウィンズ・ジャパン尾道事務所長 國田博史
 富山大人間発達科学部教授         村上宣寛
 神戸芸術工科大教授            花田佳明
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# by yoshiaki-hanada | 2002-06-25 22:39 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年2月3日) 連載1回目

大震災の教訓
—建物消え「記憶」失う—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 神戸で暮らしていると一月はつらい。阪神・淡路大震災を思い出すからだ。私は当時も今も東灘区に住んでいる。激震地だったが、幸いなことに家も家族も無事だった。しかし今年も一月十七日が近づくと、深い穴に落ちるような不安感が甦った。
 あの日、多くの命や建物が消えた。そして、生き残った人や街も、かけがえのないものを失ってしまった。それは「記憶」だ。
 神戸の中心部、三宮の阪急電車の駅ビル解体現場の光景が印象的だった。昭和十一年に完成したその建物は、コンクリート工学の専門家・阿部美樹志が設計し、アーチ型の進入路や円形の塔をもつ優雅な近代建築だった。上階には国内外の名作を上映した映画館があり、多くの人々に愛された。阪神間にゆかりの深い作家・村上春樹や映画監督・大森一樹も雑誌で思い出を語っている。いわば、神戸の青春が詰まったような空間だった。その建物が壊滅的な被害を受け、解体を余儀なくされたのだ。
 忘れられないのは、解体工事の期間中、多くの人々が立ち止まり、その作業をじっと見つめていた光景である。重機がコンクリートを砕き、日ごとに建物は小さくなる。人々は佇み、その様子を最後まで見守り続けた。
 彼らは何を思っていたのだろう。消えゆく駅ビル自体を惜しんでいたことは間違いない。しかしそれ以上に、駅ビルとともにあった何かに別れを告げていたのではないか。建物さえあれば、そこに身を置くことで出会えたはずの過去の自分とさまざまな出来事。それらが建物とともに消えていく。人々はこのことに気づき、過去の記憶との別れの儀式をおこなったのだ。
 復興した街も同じような記憶喪失に陥った。特に、震災前は路地をはさんで木造住宅が並んでいた下町だ。そこが区画整理事業によって高層マンションと空虚な広場に姿を変え、かつての穏やかな風景と親密なコミュニティの暮らしぶりは忘れ去られた。
 歩き慣れた道端に突然更地が現れる。しかし、そこに何があったのかを思い出せない。すると、その横を毎日通っていたはずの自分が不確かなものに思えてくる。そんな経験は多いだろう。「形あるものはいつか消える、残るのは記憶だけだ」という言い方があるが、わたしたちが暮らす街や村に関しては、「形あるものが消えると、記憶も消える」というべきなのだ。
 高度成長期以降、この国のまちづくりは、いわば人工的な阪神大震災、つまり古い建物や空間の破壊による記憶の抹殺行為であったといえるだろう。無味乾燥な住宅団地、どこにでもあるショッピングセンター、そして経済優先の再開発。そんなものばかりが国中にはびこり、人々は、手がかりのないのっぺりとした場所と暮らしを当然のことと思うようになった。
 もちろん、過去をすべて残すことなどできはしない。新たな暮らしにふさわしい建物や空間へと変身させ、ときには破壊してつくり直す必要もあるだろう。しかしそこには、人々を支える記憶の保持や歴史の継承についての明晰な判断と、それに基づく優れたデザインが必要なのである。この一年、そんな空間デザインの可能性や面白さについて考えていきたい。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-12-25 22:29 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年3月9日) 連載2回目

これからの建築
—環境の「下町」化図れ—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 今回は、生意気を承知で、これからの建築を設計するためのヒントと心構えを提案したい。手がかりは下町。人情、伝統、寅さん…。情緒的な人間関係に支配された共同体のイメージが浮かぶ言葉だ。
 ところが、東京の下町と郊外の団地に暮らす人々との生活行動を比較した研究(大阪大学准教授・鈴木毅さん他)によれば、もう少し抽象的な言葉が導き出されている。下町の生活感溢れる空間の秘密とは、好きなときに自由に立ち寄ることのできる場所(=アクセスポイント)が町のいたる所にあり、そこへ行けば、次の判断や行動の手がかりとなる情報をもった人やモノ(=ナビゲーター)に出会えることだというのである。
 たしかに下町には、自宅からの徒歩圏内に喫茶店や本屋がある。銭湯や商店、馴染みの飲み屋もある。そこへの出入りに特別な許可は必要ない。ぶらりとはいれば自分の居場所があり、他者との会話も生まれてくる。その中には、各自が抱える問題への答えも潜む。そういった場所や人や情報のネットワークが下町の空間を満たしており、人々はそれに接続することで、日々の暮らしを豊かなものにしているのだ。
 一方、まさに人々の交流を目的に作られたのが団地の集会所だ。しかし、そこで開かれるさまざまな講座や教室は、決まった曜日と時間にしか住民の居場所にはならないから、各住戸と集会所とを結ぶ単純な往復運動しか生まれない。下町のアクセスポイントとは似て非なる存在なのだ。
 予約型施設は、結局のところ閉じた空間にしかならないが、誰もが自由に出入りし、ひとりで過ごしても他者と接してもよい場所は、開かれた公共的空間となる。さらにそれらが点在すれば、互いを結ぶ人の動きが発生し、環境全体のアクティビティも向上する。私たちが下町と呼んでいるのは、そのような状態の空間のことだ。
 私には、このように定義された「下町」こそ、これからの建築が作り出すべき町の姿を示していると思われる。さまざまな建築を、「下町の飲み屋」のように、そこへアクセスすること自体が目的になるほど魅力的にデザインし、さらにそこで提供するサービスによって新しい生活像へとナビゲートして、町を「下町」化するのである。
 お手本として、二〇〇四年に開館した金沢21世紀美術館を挙げたい。この建物は、都市の街路のような画期的な空間構成と、ワークショップなどのソフト面の充実により、子供から大人まで、年間百三十万もの人にとってのアクセスポイントとなり、現代美術を通した世界理解へのナビゲーションに成功した。そして、金沢市の町づくりと世界的なアートシーンのネットワークに、新たな点と線をつけ加えたのだ。町もアートも「下町」の賑やかさを具体化したのである。
 文字通り飲み屋を始めようと思っている方から、公共建築を企画している行政マン、そしてそれらに具体的な空間を与える設計者の皆さん。自分の掌の上にある構想やデザインを見直してほしい。果たして人々に新しい世界像を提供できているかと。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-11-25 22:30 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年4月13日) 連載3回目

社会の新人たちへ
—「雪かき仕事」大切に—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 勤務先の大学で学科主任をしているので、三月から四月にかけては、卒業式、入学式、学年ごとのオリエンテーションなど、学生向けにスピーチをする機会が多い。自分が大学生の頃のことを考えれば、教師が何を話そうが大差ないと思うものの、立場がかわると、前日の夜、学生に偉そうなことを言えるのかと自問しつつ、必死で下書きをしていたりする。
 私は環境・建築デザイン学科で教えている。学科卒業式では、「雪かき仕事の大切さを忘れずに社会で活躍してほしい」という話をした。
   □   □   □
「雪かき」とはいうまでもなく、降り積もった雪を除去する作業。それを作家の村上春樹が、小説『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、「文化的雪かき」という表現で使い、有名になった。
 主人公のしがないライターは、仕事をより好みできず、女性誌で食べ物屋を紹介するといった平凡な記事を淡々と書く毎日。彼はそんな仕事を「文化的雪かき」と呼び、「好むと好まざるとにかかわらず、誰かがやらなくてはいけない仕事」と説明する。
 雪国では、「雪かき」をさぼると、道は閉ざされ交通が途絶え、屋根につもった雪の重みでやがて家は崩壊する。しかし、誰かが雪を取り除けば、外出もでき、事故も避けられる。けれどその便利さや安全は、「雪かき」をしない人にとっては自明のこと。「雪かき」をした人の存在は意識されず、特別な対価も支払われない。「雪かき」とはそういうタイプの仕事なのだ。
 しかも、機械的にやればいいというものではない。屋根から落とした雪が歩行者を潰し、放り投げた雪が家の入口を塞ぐことだってあるからだ。
 つまり「雪かき」とは、従順で受動的な職業観の対極に位置する仕事であり、状況と方法に対する繊細な判断に支えられた、静かでしかし確実な革命ともいえるのだ。おそらく村上は、しがないライターの仕事に、そういう意味を込めたのだろうし、村上の仕事自体が、文学における「雪かき」だという村上論も存在する。
 たとえば、日本はこれから超高齢化社会に突入する。それに対し、社会の仕組みを全面的に変えるのではなく、欠陥を補修していくやり方を選ばざるを得ないだろう。建築やまちのあり方も大いに改造の余地がある。そこで求められる優れた仕事は、まさに、単調な「雪かき」の先に生まれてくるに違いない。だから、各自の持ち場で、既に積もった、あるいはこれから積もる「雪」を見つけ、それと戦ってほしい。自分の仕事に不安を覚えたら、「雪かき」と呼べるかどうかで判断しよう。
   □   □   □
 そんなことを、いささか熱い調子で学生に喋った。
 式が終わりホッとしたのも束の間、秋田県出身の同僚から、屋根の雪を取り除くのは「雪かき」じゃなくて「雪下ろし」だと冷静な指摘。夜の謝恩会で再度回ってきた学科主任挨拶の機会にそのことを言い、「一夜漬けはだめ。仕事で書いた書類は必ず一日寝かそうね」と付け加えた次第である。新社会人の皆さんの、果敢でしかも慎重な雪かき仕事を心から期待している。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-10-25 22:34 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年5月18日) 連載4回目

国立移民収容所
—記憶継承へ空間残す—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 今年は日本からのブラジル移民百周年。明治四十一年に最初のブラジル移住船「笠戸丸」が神戸港を出て以来、神戸はブラジル移民と関係が深く、四月には多くの行事がおこなわれた。
 そのひとつが、「旧神戸移住センター」保存・再整備工事の着工宣言式である。昭和三年、現在の神戸市中央区の山の手に「国立移民収容所」として建設され、同七年に「神戸移住教養所」、同三十九年に「神戸移住センター」と改称された建物の保存改修工事が始まったのだ。
 移住希望者たちは、ここで一週間ほど研修や健康診断などを受け、神戸港から船に乗った。昭和十年に芥川賞を受賞した石川達三の『蒼氓』は、日本での最後の日々をこの施設で過ごす人々の葛藤を描いた名作だ。「一九三〇年三月八日。神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い」という書き出しは、日本を離れる不安を暗示した切ない描写だ。
 昭和四十六年に閉鎖されるまで、この施設から約二十五万人の人々が、南米、特にブラジルへ旅立った。その後は神戸市の所有となり、看護学校として、最近では芸術活動の拠点や移住資料展示室として使われてきた。
 一方、この建物に対する移住者やその子孫の方々の思いは深く、百周年を機に再整備事業が決定された。
 改修方針の策定においては、移住史の専門家や在住ブラジル人関係者等による委員会がつくられ、私も建築の分野から委員の一人として参加した。
 『蒼氓』の中で「黄色い無装飾の大きなビルディング」と書かれた収容所は、当時の兵庫県営繕課長・置塩章が設計した鉄筋コンクリート造五階建て、床面積三千六百平方メートルの建物だ。様式建築全盛時代にあって、モダニズムの香りが漂う興味深いデザインである。約六百人を収容し、寝台、食堂、浴室等を備え、当時としては近代的なホテルの観もあった。しかし、「家も売った畑も売った。家財残らず人手に渡して了った」という『蒼氓』の登場人物のような人たちにとって、そこは、言いようのない不安に満ちた場所でしかなかっただろう。
 再整備計画の策定は順調に進み、改修後は、移住ミュージアム、在外外国人支援、国際芸術交流という三つのゾーンで構成し、全体を「建物の記憶を継承する」というコンセプトでまとめることを確認した。つまり、この建物の現在の空間そのものに、最も重要な位置づけを与えたのだ。委員の誰もが、当時の状態をよく保持した空間こそが、移住者たちの夢や不安を伝える最良の媒体であることを認めたのだ。
 この建物から坂を下れば、人々が「荷物の重みに腰をかがめた群れになって」(『蒼氓』)、港へと歩いた道が確認できる。彼らが最後に見た元町の繁華街や海岸通沿いの近代建築群も特定できる。核となる建物が残っていればこそ、神戸という街に潜む移住の物語が浮かび上がるのだ。歴史的記憶は、それ自体がミュージアムと呼べるような都市や地域の空間の中でこそ、より確実に継承されるだろう。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-09-25 22:35 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年6月22日) 連載5回目

社会で学ぶ学生たち
—自分の役割知り成長—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 ここしばらく、私の研究室の3人の男子学生の姿を見かけない。優秀な4年生。期待の星なのに・・。
 といっても、物騒な事件などではない。神戸市内の湊川地区にある商店街に通いつめているのだ。同じような学生が、他の研究室や下級生の中にもかなりいる。
 彼らは、現地と大学で集めた数千本のペットボトルで、商店街の中の空きスペースに「図書館」をつくっている。ペットボトルを縦につなぎ、それを何列も並べてできる半透明の壁で空間を囲い、そこに手作りの木の棚や椅子を置く。そして、町の人々や学生たちが持ち寄ったいろんな本を並べるのだ。学生たちはそこを「まちとしょ」と名づけ、子どもたちから大人までの居場所にしようと考えている。
 この町と学生たちのつきあいは長い。商店街の組合からの依頼に端を発し、先輩から後輩へと引き継ぎながら、彼らはイベントを仕掛け、商店街のホームページを立ち上げ、空きスペースにパソコン教室をつくり、町の歴史を調べ、数年かけて地域との信頼関係を築いてきた。そういった背景のもとに生まれる今回の「まちとしょ」も、楽しい場所へと育っていくに違いない。
 学生が主体的に社会と関わるこのような活動が、私の大学ではたいへんに盛んだ。建築や町づくりから、ビジュアル、ファッション、プロダクト、漫画、映像、工芸など、あらゆるデザイン領域を扱う大学なので、社会との接点はいくらでもある。
 神戸の下町商店街の中の空き家を低家賃で借りて改装し、そこに住みながら町づくり活動で恩返しをする「住みコミュニケーションプロジェクト」。古い織物工場を、播州織りの展示・販売スペースとして再生させた西脇の「播州織工房館」。西宮の貴重な自然海浜を地域づくりに生かす「御前浜周辺整備計画」への参加。知的障害をもつ方々と共同で立ち上げた「みっくすさいだー」というデザインブランド。挙げ始めるときりがない(「 」内の言葉で検索すると詳しいホームページが見つかります)。
 教員の関わる度合いはプロジェクトによってさまざまだ。体制も、受託研究として活動資金を確保したり、行政から助成金をもらったり、授業の一部にして大学から経費を出すこともある。学生の熱意と行動力を信じ、大学は可能な限りのサポートをする。
 こういった活動は、民間のビジネスとも行政主導の事業とも違う。もちろん、企業での研修のような訓練の場でもない。大げさにいえば、これからの社会に求められる新しい「仕事」や「空間」の輪郭を探る実験なのだ。
 社会の中に出て行くことで、学生たちは確実に成長する。なぜならば、彼らは社会との自分なりの距離感をつかむからだ。果てしない「自分探し」や自分勝手な「格差社会批判」ではなく、そこでの自分の位置と役割を肯定的にとらえる技術を会得するのだ。私は、そのような機会の提供こそ、これからの大学の重要なカリキュラムのひとつだと信じている。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-08-25 22:37 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年7月27日) 連載6回目

卒業論文と卒業制作
—言葉と空間 関係問う—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 先日、四年生の卒業論文の中間発表会をおこなった。え、もう卒論? しかもデザインの大学なのに卒論があるの?と不思議に思われるかもしれないが、私の学科では、卒業論文と卒業制作の両方が必修なのだ。全員が十月末に前者を、一月末に後者を提出する。どちらか一方という大学が多い中、このやり方を開学以来続けており、その教育効果は非常に大きいと自負している。
 卒業論文も卒業制作もテーマはさまざま。卒業論文は、建築・公園等の使われ方の調査分析、町や地域づくりの事例研究、建築作品論・建築家論、歴史的町並みの保存論、小説や映画の空間分析などもある。卒業制作も、建築設計から都市や地域へのソフト的提案まで幅広く、空間をテーマにした映像作品が提出されたこともある。
 その指導や評価の過程で私が最も重視するのは、言葉と空間の関係に対する誠実な思考の有無である。
 たとえば卒論。大阪の下町を「都市の裏側」という視点で分析したいと学生が言う。裏側なんて相対的な言葉だから定義できない、裏は必ず何かの表だ、まずは裏側という言葉を使うのをやめて現実の空間を丹念に観察しよう、その中から君の実感に近い別の言葉を発見すべきだ、と私。
 卒業制作で、学生がある町に美術館を設計すると言う。何の美術館?と私。アートです、とすごい答え。中身を決めずに容器を考えている。なぜその場所なのかと私。故郷だからと学生。それは建築をつくる根拠ではないと私。
 そんなやりとりを繰り返す。学生の言葉が建築や町という空間の本質を覆い隠している場合、あるいは、その根拠を示す言葉なしに空間を作ろうとしている場合に、それらの言葉と空間は間違っていると指摘する。そして、世界をもっとクリアに見通す力をもった新しい言葉と空間を探せと激励する。卒業論文と卒業制作の両方をやる意味はまさにここにある。学生たちは、二つの仕事を関連づけながらやり通すことで、世界の二大構成要素としての言葉と空間の存在と、それらの相補関係の大切さを実感するのだ。
 学生たちの頼りなさをお笑いだろうか。しかし、現実の社会も奇妙な言葉と空間で満ちている。
 たとえば「ふれあい広場」。市役所の玄関ロビー、公園の一角、盆踊り大会、そういった場所や催しの呼び名の定番だ。しかし「ふれあい」という曖昧な言葉は、何と何のどのような関係の発生を期待するのかを不問にし、「ふれあい」の舞台としての空間についても、新しいイメージを喚起することはできなかった。
 コミュニティ、ふるさと、居場所、○○広場、出会いの場、癒しの空間などの言葉も同じ。どれも別の言葉で説明ができ、しかも説明してしまうとそのつまらなさが明らかになる。つまり、問題の本質を隠蔽する危険な言葉たちなのである。
 いよいよ夏休み。学生たちは、言葉と空間のあるべき姿についての考察を本格化させる。大人も、誠実な実践と勉強をしないと格好がつかない。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-07-26 00:53 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年8月31日) 連載7回目

故郷がくれた原風景
—価値判断の物差しに—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 原風景という言葉がある。人や町の基底を形づくる映像的なイメージとでもいえばよいか。かつて奥野健男が『文学における原風景』という本で用いて一般化し、建築や都市を語るときにもよく使われる。戦争で廃墟となった都市、下町の路地、旅した国、深い森・・、さまざまな原風景を手がかりとして、小説や建築や芸術作品が生み出されてきた。
 一歩間違うと「国民共通の原風景」といった具合に、ナショナリズム高揚に利用されかねない言葉なので要注意だが、自分の中に原風景としか呼びようのない何かがあるのも事実だ。
 私にとってそれは、生まれ故郷・愛媛の山村が喚起するイメージである。
 私は昭和三十一年に野村町(現在の西予市)に生まれ、小学校三年生の秋までそこで暮らした。
 記憶があるのはわずか四、五年のことなのに、気がつくと当時のさまざまな風景の中を歩いている自分がいる。
 霧に包まれた通学路、野村小学校の木造校舎の靴ぬぎ場、大きな銀杏のある校庭、週末通った病院の帰りに乗る夜のバス、住んでいた家の台所の土間、農薬を食べて死んだ愛犬・・。断片的な映像が次々に浮かんでは消え、その中にいる自分を見ている自分がいる。
 しかしそれが原風景かというと少し違う。私の中には、これらの断片を束ねるもうひとつ別のイメージがある。それは、今書いたような映像が野村町の盆地の底で物語を編む様子を上空から眺めた鳥瞰図だ。
 都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア。大袈裟と笑われるかもしれないが、野村町の空間と生活をそんな言葉に抽象化すると、それが自分の原風景だと納得がいく。そしてこのイメージが、私の価値判断の物差しとして、長く機能してきたと思えてならない。
 そのことを強く意識したのは、十四年前に四国の公共建築を見て回ったときだ。内子町から車で八幡浜市に向かっていた。目的は八幡浜市役所で活躍した建築家・松村正恒が設計した日土小学校などを見ることだった。
 両側を山にはさまれた谷筋の集落を車で走るうち、身体の中に不思議な感覚がわき上がるのを意識した。そして日土小学校の校庭に立った瞬間に、「ああ、懐かしい」と思ったのだ。もちろん初めて訪れた場所である。しかし、谷筋を流れる川に沿って建つ日土小学校の静謐な空間の中を歩き回るうち、私は私の原風景の中にいた。そこはまさに、谷の底にあるユートピアだった。東京から遠く離れた場所でひとり傑作を設計し続けた松村という人物も、似た原風景の持ち主だったのではないかと直感した。
 振り返ってみると、私が憧れ、敬意を払ってきた人や建築は、すべて中央から距離をおいた批評性をもっている。そして、自分が憧れ、敬意を払うに値する相手かどうかを考えるとき、あの原風景が甦り、それとの整合性を確かめてきたように思えてならない。自分の中にそういう核を植えつけてくれた故郷に、私は心から感謝している
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# by yoshiaki-hanada | 2001-06-27 22:29 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年10月5日) 連載8回目

日土小の保存・改修
—過去と最先端共存へ—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 八幡浜市立日土小学校では、この夏から、現在の校舎の全面的な保存・改修工事と、四つの教室をもつ新校舎の建設が始まった。
 愛媛県の皆さんならご存知の方も多いだろう。この校舎は、かつて八幡浜市役所に勤務し、多くの優れた学校や病院関連施設などをつくった松村正恒という建築家が設計し、一九五六年から五八年にかけて完成したものである。当時から高い評価を受け、近年さらに、日本のモダニズム建築の二十選に選ばれるなど、再び注目を集めてきた。
 竣工後約五十年が経ち、その去就についてはさまざまな議論があったが、現在の校舎は基本的に当初の状態にきちんと戻し、職員室等には必要な改修を大胆におこない、建物としての性能を上げ、さらに普通教室棟を一棟増築するという結論に落ち着いた。
 私もこの保存活動に関わってきた。その過程で、なぜこの校舎の存続にこだわるのか何度も自問したが、建築に関わる専門家として、以下の三点への確信は揺らがなかった。
 まずは、日土小学校の校舎は歴史的に大きな価値をもつということだ。あの建物がなくなると、日本の建築の歴史の中に、二度と取り戻せない空白ができる。それは、戦前まであった大型の木造建築の流れを戦後にも継承し、さらに新たな可能性を示した数少ない貴重な事例だからである。
 二つ目はこの校舎の設計の素晴らしさだ。廊下と教室を分離して中庭をとり、落ち着いた学習環境を確保したクラスター型の教室配置、自然の光や風をうまく制御する外装の工夫、自然との一体感を味わえる快適なテラス、子どもたちの居場所にもなる廊下や階段。現代建築としても全く遜色がないこの校舎は、当時の最先端の学校観を具体化していた。
 そして最も重要だと思ったのは、保存し改修することにより、「優れた過去」と「最新の現在」が共存する空間になり、そういう場所で子どもたちに勉強してもらえるという点だった。
 既存の空間的資源の価値を正しく評価し、それを賢く活用していくことこそが、これからの時代に求められる建築分野での最大のテーマのひとつであるが、改修後に蘇る校舎は、現在の校舎がかつてそうであったように、時代の最先端の世界観を具体化した空間になる。
 学校とはどのような場であるべきかを考えるなら、私は、次の時代を担う子どもたちに対し、現在の大人が、次の時代にとって重要だと考える価値観を、授業内容はもちろんのこと、あらゆる点で示す場でなくてはいけないと思う。したがって校舎も、その価値観を体現した空間として設計される必要がある。日土小学校の新しい空間は、まさにそういう場になるのである。更地に安易なコンクリート校舎では、子どもたちに大人の無知と無責任を教えることでしかないだろう。
 来年には、最新の学習環境と文化財としての価値をもつ空間が共存した、全国でも希有な学校として蘇る予定だ。大いに期待していただきたい。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-05-28 01:24 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年11月9日) 連載9回目

学生による団地改修
—「使える素材」再利用—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 この夏、学生たちが団地の改修実験に挑戦した。
 場所は、兵庫県西宮市の浜甲子園団地。日本住宅公団(現在の都市再生機構)が昭和三十七年から三九年にかけてつくった中層・一五〇棟から成る団地である。しかし完成から四十数年が経ち、建物の老朽化や住民の高齢化も進み、建て替え事業が始まっている。
 その中の、既に解体が決まり無人化した住棟の住戸を、関西の六つの大学の建築や住居系学科の学生たちに自由な発想で改修してもらった。都市住宅学会他の主催による企画である。
 各大学に、いわゆる2DKの住戸がひとつずつ与えられた。和室が二つと台所等の水回りがついた小さな空間である。学生たちは夏休みを返上し、改修設計、既存部の解体、そして新しい空間の施工に取り組み、九月末に完成させた。同時に一般公開とシンポジウムもおこなわれ、好評を博した。
 床も壁も天井も真っ白に仕上げ、植物を配して抽象的な雰囲気を演出した大阪大。和風の意匠に徹し室内に路地まで設けた京都工芸繊維大。一階の床はコンクリートではなく木造であることに注目してその一部を下げ、ロフトを実現した大阪市立大。大きな建具で空間の自由度を生み出した武庫川女子大。床の段差を手がかりにして空間を構成した関西大。どれも力作ぞろいで、「え、あれがこんなに変わるの!」という驚きの連続だった。
 私の勤める神戸芸術工科大の学生たちは、間仕切りを撤去して住戸をひとつの空間にし、その中心に、四・五×二・七三メートルもの大きなテーブル(高さは三八センチ)を据え付けた。一部に四角い穴があいていて、テーブルの「中」にも坐れる仕掛けである。大勢でのパーティー、映画会、一日限りの駄菓子屋さん、そして隅っこでのお喋りまで、この大きな家具は実にさまざまな行為や出来事を誘発した。
 私の大学の学生たちのブログ(http://kduhamako.exblog.jp/)には、工事の様子や各大学の完成写真が載っている。ぜひ御覧いただきたい。
 学生たちの作り出した空間は、どれも魅力的なものだった。多くは間仕切りを取り払い、空間を家具や建具で設えていた。昔は、この小さな住戸に四人も五人もの家族が暮らしたのだ。学生案は、そういう条件には向いていない。しかし、独身者、若い夫婦、学生のルームシェア、団地の集会所などには、ぴったりなデザインばかりである。
 つまり彼らの提案が投げかけたものは、間もなく壊される建物がまだ立派に使えるという事実であり、しかも、もしそれをこんなふうに改修すれば、団地内に若い世代が住み、楽しい共有スペースも生まれるかもしれないというヴィジョンなのだ。
 学生たちの目には、団地は単なるノスタルジーの対象ではなく、「使える素材」として映ったはずだ。現代の日本には、団地以外にも、学校の空き教室や下町の空き店舗など、同様の「素材」がたくさんある。それらの再利用は、これからの社会のあるべき姿へと続く確実な道のひとつだろう。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-04-29 23:32 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年12月14日) 連載10回目

卒業制作という実験
—空間で社会を変える—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 卒業制作のシーズンとなった。私が勤めているようなデザイン系大学の学生はもちろんのこと、美術や建築などを専攻する諸君は、自らの作品の完成に向け、苦悩と不安、そして不眠不休の日々を送っているに違いない。
 私の学科でも中間講評会を開き、建築や町や都市などをテーマとする学生たちの作品について、今後の進め方へのアドバイスをおこなった。やり取りの一部をご紹介したい。[ ]内が教員からの意見である。
・故郷である地方都市の停滞した商店街の活性化のために、娯楽施設や足湯などを計画する。[そんな提案は安易すぎる。君がそこに戻り、暮らそうと思える地方都市とはどんな場所か。ひとつでいいから、自分自身のリアルな感覚を空間化せよ]
・小学生の放課後の過ごし方を充実させるような居場所を計画する。[それだけを考えていても、結局は子ども用の「カルチャーセンター」になる。むしろ学校の教育課程にまで踏み込む大胆な提案を考えてほしい]
・郊外の緑豊かな敷地に高齢者のケアハウスを計画する。[町から切り離された環境の中で、高齢者は果たして幸福だろうか。商店街や学校や住宅地の近くに置き、高齢者が町を散歩したり、市民が施設運営に関われるような案も検討すべきだ。それは施設だけでなく、地域をも変えるだろうから]
・人生最後の三日間を過ごすカプセルを海上に計画する。好きな音楽を聴き、好きな本を読み、最後は海に沈んでいく。[荒削りな内容だが、現代の「死」を巡るさまざまな問題を逆照射する装置としての表現を探れば面白い]
・ニューヨークのセントラルパークを敷地とし、直径二百メートルの円形の大空間をつくり、ホールやギャラリーを緩やかに配置する。[ありきたりの文化施設とは異なる空間性をもっており、期待できる。しかし、屋根が柱なしで浮いているように見える新しい構造形式の探求が必要]
 このほか、夏目漱石の『夢十夜』を手がかりにして自己の内面を空間化するとか、ツリーハウスを実際につくるとか、学生の発想は実に多様だ。
 いかがだろう。もちろん卒業制作は、設計条件をすべて学生が決める仮想の計画だ。しかも、現実的提案から現代アートと呼べそうなものまで幅も広い。しかしそこには、現代社会を考え直す手がかりを、少しは見出していただけるのではないだろうか。
 卒業制作は、自らが思い描く社会の建築や風景を、学生が図面や模型を使って生み出す思考実験と言ってよい。教員も、その提案が現代社会の空間をどう批評し、変革しようとするのかを、彼らに繰り返し問いかける。
 この連載で書きたかったのは、まさにそういう姿勢の必要性、つまり政治や経済だけではなく、空間が社会を変える可能性を信じることの大切さだ。どのような場所で僕らは暮らしたいのか、そのために何をなすべきか。そんな問いに、あらゆる領域の人々が敏感であり続けるなら、まだまだ世界は捨てたものではないだろう。一年間、ありがとうございました。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-03-30 12:44 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

組織とリアルな物語 —日建設計100周年からの10年とこれから— (『建築と社会』2010年1月号)

組織とリアルな物語
—日建設計100周年からの10年とこれから—
(『建築と社会』2010年1月号)

花田佳明(神戸芸術工科大学教授)

はじめに

 日建設計の創業は、1900年6月に住友本店に設置された臨時建築部とされており、そこから数えると2010年で110周年を迎えることになる。100周年に際しては、本誌2000年8月号で特集が組まれ、『北浜五丁目十三番地まで』に続く社史の後編『北浜五丁目十三番地から』(橋本喬行、創元社、1999年3月)が出版され、さらに『設計の技術 — 日建設計の100年』(2001年4月)という、主に技術面からの社史といえる大著がまとめられるなど、さまざまな動きがあった。
 それから10年。110周年記念の本特集号において、この間の変化について考察せよという宿題を日建設計からいただいた。
 しかし、この巨大組織を一朝一夕に語れるはずはない。にわか仕立てのインタビューや資料収集では、正確な描写など不可能だろう。それでも意を決して引受けたのは、まさにこの10年の間に、「日建設計が変わってきている」と感じる機会が少なからずあり、私はそのことが気になっていたからである。また私事で誠に恐縮だが、私自身も、1982年から92年までの10年間、日建設計に勤務した。そして現在、私と同期入社、あるいは近い世代の皆さんが働き盛りの主力メンバーになっており、自分の中の残像のようなものに輪郭を与えてみたいという気持ちも後押しをした。

日建設計らしくない建築
 さて、「日建設計が変わってきている」と感じた機会はいろいろあるが、最も印象的なことは、建築雑誌に発表された作品を見て、それまでは「日建設計の作品だ」とほぼわかったのに、ここ10年ほどの間には、言い当てられない建物がいくつかあったという事実である。
 それは、たとえば「瀬戸市立品野台小学校」(1999年)、「パシフィックセンチュリープレイス丸の内」(2001年)、「京都大学医学部百周年記念施設 芝蘭会館」(2004年)、「桐朋学園大学アネックス」(2005年)、「大阪弁護士会館」(2006年)といった建物だ。
 それぞれ、初めて建築雑誌の写真や実物を見たときに、実に特徴的なデザインだと目を引かれ、有名個人建築家、大手ゼネコン設計部などの名前を頭の中で反芻したが、いずれとも判じ難く、しかし日建設計の名前も浮かばなかった。
 私の眼が曇っているからだといえばそれまでだ。しかし、一応10年間そこに勤め、退社後もその新作を気にしてきたつもりの私としては、これらの作品の中に、過去との連続性よりも何らかの変化を読み取らざるを得なかった。
 以下、そのような個人的記憶を出発点として、日建設計のこの10年間の変化について思うところを記してみたい。ただし、私にわかるのはそのごく一部、すなわち建築設計に関する部分だけであることはお断りしておく。

距離の測定
 前節で述べた5つの建物の印象をもう少し詳しく書くと次のようになる。
・瀬戸市立品野台小学校:思い切ったオープン形式の平面構成が、その大胆さとは対照的な安定したディテールや技術で守られている様子が新鮮だった。そのことは、建築計画学的先鋭さの目立つ近年の学校建築の話題作に対する批評とも思われた。
・パシフィックセンチュリープレイス丸の内:東京駅前のシンボルを意識したデザインだろうが、コア部分に聳える黒々とした壁面とそれ以外のガラス面との強烈な対比が印象的で、これまでの超高層ビルにはない立面構成だと思われた。
・京都大学医学部百周年記念施設 芝蘭会館:細い肉厚鋼管と重量感のある水平連続窓、そしてコーナーの曲面という異色の組み合わせが、近代建築の語彙を使った知的なゲームにも見え、しかもその結果が、日本的ともいえる質の空間を獲得していることに驚いた。
・桐朋学園大学アネックス:音響や周辺環境との関係などの条件から生まれた四角錐台のブロックの集合は、都市の街路パターンを縮小して建築化したかのような構成にも見え、その機能性と抽象性の見事な両立に驚いた。
・大阪弁護士会館:高層ビルの一般的スケールとは全く異なる感覚のフレームだけで、あたかも無限に空間を生み出そうとするかのような建築的実験に、近代建築という概念への知的な挑戦すら感じた。

 以上の印象に共通するものを私なりの言葉でいえば、これらの建物の背後には、現代建築という分野が抱える問題や枠組みや文脈とリンクした建築的思考が存在している、ということである。
 もちろん、日建設計のすべての作品は「現代の」建築であり「現代に」関わっている。しかしそれらが同時に、現代の建築的思考の最前線につながっているかどうかは別の問題だ。
 少し昔を振り返るなら、日建設計の作品は、その時代の多様な建築表現のマトリックスの中に、たしかに自らの場所をもっていた。
 たとえば、薬袋公明が「百十四銀行本店」(1966年)において、銅板の外装や街区を囲む低層部という構成で試みた一種の古典回帰ともいえるデザインは、同じ町にある丹下健三の「香川県庁舎」(1958年)に代表される現代建築のメインストリームとは異なる、もうひとつのモダニズムの可能性を示す実験だったといえるだろう。また、林昌二が「掛川市庁舎」(1956年)や「パレスサイドビルディング」(1966年)で実践した独自のテクノロジカルなデザインは、建築の決定根拠を上記のメインストリームから解放して現実の社会へと拡張する試みであり、薬袋同様、近代建築のもうひとつの姿を探る挑戦だったということができる。
 つまり薬袋や林は、欧米の近代建築の延長線上でデザインをおこなってきた個人建築家たちとは別の建築的語彙を探るという難問に挑んでいたのである。
 しかし、それがいつの間にか、たとえば「銅板屋根とくり型」といったクリシェ(=紋切り型)の反復や、経済性や社会性を免罪符としたデザイン根拠の曖昧化へと後退してはいなかったか。おそらく意図的に「流行の」建築的語彙から距離を置き、「独自の」建築的語彙を開発するという禁欲を自らに課した日建設計は、ときに「流行の」でも「独自の」でもない、つまり、現代建築の流れとの距離の測りようのない建物を生んだこともあったのではないか。
 ところが先にあげた作品群に対しては、すでに記したように、現代の建築計画学や建築史学、あるいは建築論を基本にしたさまざまな解釈が可能である。つまりそれらの作品においては、クライアントから求められた要望に対しては当然のことだが、現代の建築思潮とリンクした建築的課題に対する解答としても、そのデザインが成り立っているといえるのだ。
 言い換えれば、そこには、薬袋や林が実践したように、現代建築の流れと自らの作品との距離を測定し、現代建築史の中に自らの作品を定位しようとする姿勢がある。おそらくそのことに私は反応した。そしてこの10年間の作品群の中には、同様の傾向をもつ建物は少なからずあり、私は、そういった建物と意識の誕生こそが、日建設計のこの10年間について指摘すべき最初の変化であると思うのである。

新しい言葉
 以上のようなデザイン上の変化に対応するかのように、日建設計の設計者がデザインを語る新たな言葉も生まれてきた。
 これまでの日建設計から発せられる言葉といえば、2種類の、しかも両極端なものばかりが目立っていた。
 ひとつは文字通りのクリシェだ。大きな設計組織に共通することかもしれないが、日建設計の作品とともに建築雑誌に発表される担当者の自注の多くは、与条件の整理と解説、そしてそれらへの対応の結果として生まれた空間の言葉による描写でしかなく、自らの設計手法を語るメタ言語のようなものが記されることはきわめて少なかったといえるだろう。最後の文句は、ほとんどが「願ってやまない」だったのではないかと思うほど、それは定型化していた。
 もうひとつは、これとは全く対照的な批評性を帯びた言葉である。たとえば、林昌二の「建築家先生たちへの弔詞」や「その社会が建築をつくる」など、後に『建築に失敗する方法』(彰国社、1980年)に収められた文章は、いずれも日本の建築界の閉鎖性に対する痛烈な批判だったということができる。また薬袋公明の「牧歌的建築家と組織建築家」(『新建築』1985年10月号)も同じような内容であり、個人建築家からの反発すら引き出す強烈さだった。
 しかし今の時点で振り返るなら、林と薬袋の文章は、大組織による設計の論理を確立するための、やや無理をした、あるいは役割を強く意識したアジテーションであったといえなくもない。また、その基本は組織論であって、建築のデザインそのものを語る言葉ではなかったともいえるだろう。
 それらに比べるとき、この10年、日建設計の設計者から発せられる言葉は大きく変化した。クリシェでもアジテーションでもなくなったのだ。
 そのことを最初に感じたのは、『GA JAPAN』16号(1995年)の「日本建築の○と×」という記事だった。『GA JAPAN』がコンスタントに日建設計の作品を掲載するようになった最初の号である。
 その記事は、磯崎新、鈴木博之、二川幸夫の3人が、日建設計が設計した「JTビル」を見学し、座談会形式で批評するという企画であったが、全体のトーンは、「で、ぼくの印象は”So what?”」という磯崎の言葉に象徴されるような、批判的ニュアンスに満ちたものだった。
 日建設計側はその座談会には参加せず、記事の最後の「返信」欄に平井堯と亀井忠夫が感想を寄せた。私はその亀井のコメントに目を引かれたのだ。
 それは「幕の内弁当はお嫌いですか?」と題された1200字ほどの短い文章なのだが、亀井はそこで、評者3人による議論の大半が「案の定、組織事務所のあり方について」だったことを指摘し、その中味には不満もあることを述べた上で、高層ビルデザインの歴史についての簡潔な要約と、その中での「JTビル」の位置づけをきちんと主張し、最後に、「JTビル」では複雑なプログラムを解いて「味の良い幕の内弁当を、厳選された素材によりつくったつもりでしたが、お口に合いませんでしたでしょうか」と、さりげない、しかし挑戦的な言葉を返していたのである。
 それは、評者3人の議論の方がむしろ「幕の内弁当」のようにクリシェ化した組織設計事務所論ではないかと批判しているようにも解釈できる言葉であり、臆することなくそのような反論を返した亀井の姿勢とともに、私は「日建設計から発せられる言葉が変わった」と感じたのである。
 同じような言葉の変化は、すでに取り上げた5つの作品を巡る設計者の自注にも読み取ることができる。
 たとえば、「京都大学医学部百周年記念施設 芝蘭会館」を担当した川島克也と大谷弘明は、その設計意図を、「格子窓をつけたり、障子や床の間をつくるのではなく、京都という立地性を表すには日本の美学をプロポーションで表現するしかないと考えていました」とか、「柱を可能な限り細くしたのも、和の気分が底流としてあったからです」と説明している(『NIKKEN SEKKEI Quarterly』(2005年Summer)。
 やや情緒的な言い回しとはいえ、ここに記された建築的操作を説明する語り口の抽象性は、これまでの日建設計の担当者の言葉には珍しい種類のものであると思われる。そして何より、実際の空間が、それらの言葉が示す意図通りの質を獲得していることが驚異的で、これらの言葉と空間の間に成立している関係は、まさに近代建築の日本的解釈としてきわめて完成度の高いものといえるだろう。
 また「桐朋学園大学アネックス」においては、担当者・山梨和彦の言葉はいっそう抽象度を増している。
 彼は、さまざまな条件を調停した結果として街区の中に引いたグリッドを、「バイアスをかけたグリッド」と呼ぶ。そして、それがもつルールを手がかりとして、空間性から素材や色彩計画までを「ある種の合理性、客観性」のもとで決定する作業として設計プロセスを語るのだ(『NIKKEN SEKKEI Quarterly』(2006年Autumn)。これらの言葉がもつ論理性や構築性は、川島や大谷とは別のタイプの、しかし言葉と建築との関係についてのきわめて鋭敏な知性を反映したものといえるだろう。
 他の例をあげる紙幅はないが、この10年間の秀作とともに発表された設計者の言葉は、一種のニヒリズムも漂う林や薬袋のアジテーションとは別の種類の、より建築内部の論理の可能性を引き出すことに賭けた対話のようなものではないかと感じられる。そしておそらく、こういった言葉のしなやかさに、私は変化を感じたのだ。

リアルな共同幻想
 さて、日建設計のような大組織にとって、それをどのような「点」と「線」、つまり人とネットワークで構成するのかという組織論は、作品の質にも大きな影響を及ぼすひときわ重要な課題であるだろう。ただし、それは外の人間には見えにくい。組織改革、人事異動、世代交代などが大きな影響をもつからだ。
 しかし私には、日建設計という組織自体の構成についても、この10年ほどの間に大きな変化があったように思えてならない。ただしそんなことを感じたきっかけは、本稿のような場に書いてよいのかと迷うほど些細な出来事である。
 それは、ROUND ABOUT JOURNALという企画を展開する若手建築家・藤村龍至の「BUILDING M 日記」というブログの中の小さな記事を見つけたときのことだった。彼が設計した「BUILDING K」という建物を、「日建設計 山梨知彦さん率いる山梨チームの皆さん」が見学に訪れたのだ。そして、見学の様子を写した4枚の写真と、「事務所にて。山梨さんが担当された飯田橋ファーストビルとの類似性、ビッグネスvsスモールネス、ジェネリックvsスペシフィック、組織vsアトリエといったキーワードが飛び交い、議論が白熱しました。続きは日建設計で行いましょう、とのこと」という藤村のコメントが掲載されていた。
 私は、その写真の中で楽しそうに議論する「山梨チームの皆さん」の様子を見て、「まるで大学の研究室みたいだなあ」と感じ、「うらやましいなあ」と思ったのだ。
 大学の研究室の先生と院生や学部生で新しい建物を見学に行く。そして先生と設計者を中心にしつつ、皆でその建物を巡る議論をする。先生は自分の研究を理論的根拠とした批評を述べ、設計者もきちんとした反論をする。学生はその様子を見、自分たちの意見も述べる。さらに学生たちは、設計者と丁々発止のやり取りをする先生に対する敬意のようなものを感じるとともに、自分が属する研究室に対するプライドも再認識する・・。
 私はそんな夢のような光景を、ブログに掲載された写真とコメントから勝手に想像し、さらに、「山梨チーム」における人と人の関係や仕事の進め方そのものを、大学の研究室における活動のイメージに重ねてしまったのだ。
 若手個人建築家によるポレミックな作品を、設計チームのボスとスタッフで見学に行き、そこで自由に議論するというようなことは、少なくとも私が日建設計に在職していた頃には思いもしなかった光景である。
 したがって私には、それらの写真とコメントは、「日建設計が変わってきた」と推理するには十分な根拠であり、「うらやましいなあ」と感じるだけの魅力をもつものだった。何しろ、自分の上司に対する敬意と、所属する組織に対するプライドの確認につながる経験なのだ。組織に属する人間にとって、自分の存在意義を確認する手がかりとして、これ以上のものはないだろう。
 さらにそのような目で観察してみると、この10年の間には、日建設計の設計者が自らの組織を語る口調には大きな変化が生まれたことがわかってくる。
 たとえば、100周年記念の本誌(2000年8月号)に掲載された座談会「100年を考える—過去から未来へ—」と、その約6年後に出版された『日建設計 ひと・環境・建築』(『新建築』2006年3月別冊))に掲載された座談会「「日建流」デザインの現場」を読み比べてみるならば、組織を語る言葉の変化に気づかざるを得ない。
 もちろん、出席者や世代構成が異なる座談会だから安易な比較はできないだろう。しかし、明らかに前者においては、日建設計という組織を、その歴史的経緯、生命体との比較、社会・都市・環境といった言葉との関係など、組織の外部にある世界からの視点で語る発言が多いのに対し、後者においては、具体的な設計活動の中での思考や建築デザインの論理といった内部の視点から語る発言が目立つのだ。しかも後者の座談会の出席者は、本稿の冒頭で挙げた「日建設計らしくない建物」の設計者ばかりなのである。彼らは、たとえば以下のような言葉を残している。
・亀井忠夫:その「プラットフォーム」をベースにしていかにジャンプできる個人が存在できるかがわれわれの課題だと思います。
・川島克也:もはや「アトリエと組織」という構図で語る時代は終わろうとしているのではないでしょうか。
・若林 亮:「プラットフォーム」という話がありましたが、さまざまな個性を持った建築家や技術者の集合体である日建設計が、外の一流の人たちと一緒に設計をすることで、個性のメリハリが強く太いものになっていけばいいですね。
・山梨和彦:文化人を生み出せる土壌を日建設計の中に育てないといけないということです。
・大谷弘明:「パレスサイドビルディング」が日建設計の最高の建物だと今だに言われるのは恥ずかしいことで、僕たちはあれを乗り越えないといけない。

 これらの言葉を、日建設計らしい優等生的な個と全体の論理だと切り捨てるのは簡単なことだ。しかし私はそこに、日建設計で働く個人と組織との関係の質の変化を読み取らざるを得ない。なぜならば、クリシェ化したビジネス書的な組織論の反復ではなく、各個人が自分にとって必要な共同幻想のようなものを、自分自身の実感を通して日建設計との間に描こうとしている気配を感じるからだ。
 ところで、これまで日建設計の組織論を最も多く外部に向けて発信したのは、おそらく林昌二だろう。彼が発した言葉のうちのかなりの数は、組織そのもののデザインを語るものだ。『建築に失敗する方法』は3つの章に分かれているが、第3章「建築家先生たちへの弔詞」は、全体が日建設計の組織論である。
 林はその中で、大規模な設計組織の役割や目標についてさまざまなことを指摘しているが、最も強調されるのが、「組織ではなく集団」でありたいという願望である。「組織」と「集団」の差異に関する厳密な説明は林の文章にも見当たらないが、人々が全体の枠組みに縛られず、常に局面に応じた最適のメンバー構成を組み替えることのできる柔軟な状態のようなものを、「集団」という言葉で表していると考えられる。そこには、建築設計という行為を軸にした、林なりの共同幻想がある。
 それは、ある意味では、彼の思い描いた戦後社会の理想像ともいえるだろうと私は思う。
 林の約50年間の文章を集めた著書『建築家 林昌二毒本』(新建築社、2004年)の巻頭に書き下ろされた「設計、その悦楽の世界を求めて」という文章は、そのタイトルのイメージとは裏腹に、彼が経験した戦時下の苦い軍国主義と戦後間もなくの「革命」的雰囲気を詳しく記述した上で、両者に共通して潜む権力志向の心理を徹底的に批判したものである。
 林はこの文章の最後に、「必要に応じて働き、必要に応じて使うという社会が訪れれば素敵ですが、人間の心に潜む卑しさや権力志向が、ことを厄介にしてしまいます。といって、放任の資本主義がどんなに惨めな社会をつくるかについては、今進行中の現実が明らかにしてくれそうです。/いつの日か、新たな社会革命が訪れるものでしょうか」と書いているが、そのシニカルな言葉の裏には、かつて彼が夢見た「集団」と、その集合としての社会に対する希望が込められてもいるように感じられる。
 戦争体験の上に描かれたこのような理念的共同幻想が、その後、日建設計においてどのように具体化されたのか、あるいはされなかったのかという問題についての考察は、本稿の任をはるかに超える。
 しかし私には、すでに引用した5人の設計者の言葉からは、彼らの中に、林が考えた「集団」のイメージと、少なくとも輪郭においては似た共同幻想が形成されていると思われる。
 しかし、その中身には変化がある。つまり、林が戦争や戦後体験を手がかりにしていたのに対し、現在の設計者たちは、より「リアルな」感覚を根拠にしているのだ。
 ここで私は、すでにふれた藤村龍至のブログの中の「山梨チームの皆さん」という言葉を思い出し、空想がさらに広がっていく。「日建設計の方々」ではなく、「山梨チームの皆さん」である。もちろん「山梨さん」も「山梨チームの皆さん」も、「山梨チーム」に属する前に日建設計に所属している。しかし私の中には、その逆、つまり「山梨チームの皆さん」なる人々が、たまたま日建設計にも属しているというイメージがわいてきてしまうのだ。そして、そのような「○○チームの皆さん」の集合として日建設計という組織が存在する・・。
 途方もない空想である。ただ、「○○チームの皆さん」という言葉がもつ暖かな感触は、「組織対個人」「組織対集団」といった大仰な問題設定によるのではない、個人と組織との間の緩やかな共同幻想を保証しているように思えてならない。そこには、「○○チーム」という共同体へ参加することの喜びと、それによって生まれる安心感や自己実現感がある。「リアルな」と書いたのはそのような感覚を支える手触りのようなもののことだ。
 「個人としてジャンプし」、「組織とアトリエという構図を乗り越え」、「個性のメリハリをつけ」、「文化人を生み出し」、そして「パレスサイドビルディングを乗り越える」という5人の設計者の目標は、きわめて具体的かつ実践的だ。私は、日建設計がそのような個々のリアルな感覚に満ちた共同体に変身しつつあるのではないかと感じたのだ。

リアルな物語の共有
 日建設計のこの10年間の変化について、誠に勝手な感想を書き記してきたが、結局のところ私の最大の関心は、人間はなぜ働くのかという問題が、この大きな組織においてどのようなかたちで意識され、それへの答えが、どのような姿で描かれようとしているのかという問いに集約されるような気がしてならない。
 建築の設計という仕事は、さまざまな職場で、しかもさまざまな方法によって実現できる。そのとき、ではなぜこの組織で働くのか、そしてそこで過ごす時間にはどのような意味があるのかという問題は、いうまでもなくきわめて個人的なものであり、むしろ組織とは無関係の、あるいは組織が立ち入るべきではない問題としてとらえられるかもしれない。
 しかし逆に、そのような問いがその組織の中で共有されることによってこそ、個人と組織はつながり、その間に共同幻想が生まれるのではないだろうか。
 そのとき必要となるのが「物語」だ。
 短い生の時間の中で、私たちはきわめて限定的なことしかできないけれど、その限られた行為や成果が、組織外の何らかの流れの中に位置しているということを思い描き、自己の役割を確認する「物語」である。それは、ビジネスや生活の糧としての設計行為が生む現実の世界とは別の、固有の時間と要素から成る可能世界といってよい。
 私の目に、日建設計のこの10年間の最大の変化であり収穫であると映ったのは、このような「物語」を自分の中にもつ設計者が多く登場し、しかもそれぞれの「物語」がきわめて「リアル」だということだった。本稿で延々と書いてきたのは、まさにその一点に集約される。
 現実的な背景としては、前社長・中村光男による「全社一元化」という改革があるのかもしれない。それによって、東京、名古屋、大阪という3つの事務所の壁がなくなり、デザインに関する議論をより大きな枠組の中でおこなうことが可能になった。各設計者は、自らの「物語」にとって、より広い舞台を手にしたのだ。
 また、大組織ならではの世代交代の影響もあるだろう。当然のことながら、大組織は退職者と新入社員によって毎年世代交代を繰り返す。しかし、20年から30年を単位とする大きな世代交代がこの10年の間に完了し、日建設計という組織にとっての螺旋状の上昇運動が、ひとつ上の階層へと大きな移行を完了したのだ。そのことも、より多様でリアルな「物語」を編む自由を、設計者に与えたのではないだろうか。
 いずれにせよ、そのような新しい状況を出発点として、これから日建設計がどのような方向へ進むのか、私は期待を込めた観察を続けたいと思っている。
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# by yoshiaki-hanada | 2001-01-01 00:00 | ○原稿