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100721 予告など

前期も終わりに近づいてきたが、逆にそれで慌ただしい。
おまけにすごい猛暑。

●19日(月):祝日だが、休みの多い月曜日の授業回数を確保すべく大学は通常授業。それを利用して、オープンキャンパスではなかなか見てもらえない授業の様子を受験生に見てもらおうという「KDU LIVE」という企画もおこなわれた。僕らの学科では、実習をこの日の午後におこなったところ、予想を遥かに超える数の高校生が来てびっくり。2年3年とも提出締切直前なのでスタジオの雰囲気も盛り上がっている。やはりこういう雰囲気を見てもらうのが一番いいな。

●20日(火):前期担当分の講義で、レポート課題を出題。建築空間を読むいろいろな理屈を教えているつもりの授業だが、レポートだけだと豆知識が増えないと思い、この2年は試験も併用した。今年もそうしようと思っていたら、受講している学生からシラバスにはレポートとしか書いてないと指摘され(全くその通りだった)、レポートだけにしたのだが、試験をなくす分を加味したところ、学生諸君の間にやや動揺が広がった気配。ま、なにごとも勉強です。
前期修了予定の院生の修論を受理。
夕方帰ろうかと思った瞬間、明日午前中の予定が重なっていることに気づく。今日一日、明日2限目(10時40分〜)の授業の配布資料を作り、その途中で、明日10時から開かれる修論の発表会の段取りのようなことを並行しておこなっておきながら、両者が時間的に重なっていることに気がつかなかった。我ながらひどい。暑さボケか年齢ボケか。自分の担当の院生の発表を聞いた後、11時から授業をやることで調整。

●21日(水):1年生向けのオムニバス式入門授業の最終回。夏休みに行くべきところを紹介。
3年生は集合住宅課題の提出日。担当外だけど、締切間際のスタジオの様子が好きなので、ここ数日うろついてきた。なかなかいいのがありそう。明日が講評会。
# by yoshiaki-hanada | 2010-07-22 10:23 | ●花田の日記

100717 梅雨が明けた

日常の足にしている古いロードスターの幌からの雨漏りとの格闘にくじけかけていたら、梅雨明け。神戸も、ピーカンの青空となった。僕の部屋からの眺め。遠くは神戸の海です。
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こうなると今度は、わが家「渦森台ハウス」の中で一番「暑い」位置にある自分の部屋との格闘の日々がお盆明けまで続く。写真の2階正面です。5つの面が外気にさらされているので夏も冬も厳しいのです(笑)。
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この家も、今年の春でちょうど竣工10年目。先日、僕の部屋で突然の雨漏りがあった。雨漏りは竣工後しばらくして1カ所あったが、原因とおぼしき箇所にシールを打ち直すとすぐに止まり、その後は全くなかったので、かなりびっくり。すぐに、一緒に設計した三澤文子さんと工務店を交えて原因追及をし、立てハゼの締め直しと、外壁側面に顔を出している小さな梁材を見つけてその周囲のコーキングをしたら、すぐに止まった。どうも後者が原因だったのではないかと思っている。その際、三澤さんと暑い寒い問題を相談し、いろいろと対策案を議論。そのうち実験を兼ねて何かしたいと思っている。

大学の方は、前期の後半は担当課題がないので、やや時間に余裕がある。
それを利用して、藤村龍至さんのレクチャーについて考えた記事をもう一本書いた
アップ後も何度か手を入れ、当日の質疑応答や食事会での僕の発言、さらにその後ひとりで考えたことが整理できたと思う。「論理的」じゃない議論、要は話の筋がおかしい議論には身体が反応してしまう。頭にはいらないからだ。「内容」の問題ではなく「論理」が通っているかどうかという単純な話だ。卒論の中間講評会などで学生に言うのもそのことだけ、建築学会等の論文査読を頼まれたときに考えるのもそのことだけである。1回目の記事と合わせて読んできただければ幸いである。
最も信頼するひとりの友人と無理矢理読ませた息子からの、ともに生きる勇気を与えてくれる嬉しい感想以外には何の反応もないが(苦笑)、こういう普通の思考と言葉による落ち着いた議論が建築のジャーナリスティックな世界には一番欠けているように思います。編集者は「研究論文とは違う」と言うかもしれないが、研究との違いが論じられるのは、議論に最低限の論理性が確保されたその先のことだろう。

その他、
● 8日(木):卒論の中間発表会。話の「筋のなさ」がわからない学生の気持ちがわからない。というか、そういう学生は、ほんのちょっとしたことに長い間(小中学生の頃から)つまずいたままなのではないかという気がする。でも、自分のゼミや演習での経験からすれば、丁寧に話せば本当はわかるのだ。『数学でつまずくのはなぜか』(小島寛之、講談社現代新書)の建築版みたいな話である。

●10日(土):卒業生の結婚式に出席。久しぶりに若い人の結婚式に出たら、完全に父親モードでいる自分に気がつき情けなかった。

●11日(日):参院選で民主党が負けた。民主党は「市民」像を自分たちの都合のいいように誤解するミスを犯していると思った。

●13日(火):ゼミ旅行の日程などを学生と相談。今年は、下記の日土小学校と翠小学校の見学会にみんなで行きます。みなさんもぜひ!

●13(火)・14日(水):授業、会議、委員会等。1年生には、建築情報の探し方(入門編)という話をし、チェックすべき雑誌、読むべき本、行くべき本屋、チェックすべきサイトなどを紹介した。紹介した雑誌2誌(『GA JAPAN』『住宅建築』)の編集部と本屋ひとつ(南洋堂)に花田研卒業生がいるという幸福。

●16日(金):大学院希望の他大学の学生さんと面談。

『考える人』(2010年夏号)の村上春樹ロングインタビューはさすがに面白いなあ。建築家もこんなふうに自分の考えを語ればいいのにと思ってすぐ、こんなふうに語れる建築を作ることの難しさに気づく。
# by yoshiaki-hanada | 2010-07-18 12:51 | ●花田の日記

「夏の建築学校 日土小 2010」のお知らせ

再生なった日土小学校(愛媛県八幡浜市)で、8月8日、「夏の建築学校 日土小 2010」という企画(見学会と学習会)をおこないます。
見学は長期の休みだけですし、今回は日土小学校の教室で「リビング・ヘリテージとしての日土小学校」と題した「授業」もおこないます。ぜひご参加ください。

「夏の建築学校 日土小 2010」
主催:八幡浜市教育委員会
共催:社団法人日本建築学会四国支部日土小学校WG
日時:2010年8月8日(日) 9:00~16:30
場所:八幡浜市日土小学校
参加費:無料
<スケジュール>
1)現地見学会(午前の部)   9:00~13:00
2)建築学校学習会     13:00~15:30
   「リビング・ヘリテージとしての日土小学校」
    ①曲田清維(愛媛大学 教授 兼進行係)
    ②山名善之(東京理科大学 准教授)
    ③花田佳明(神戸芸術工科大学教授) 他
3)現地見学会(午後の部)  15:30~16:30

問い合わせ/和田建築設計工房 名本
tel:089-962-6366
mail:hizuchi-nw@wada-archi.com

詳しいことはこのサイトをご覧下さい
「夏の建築学校 日土小 2010」のお知らせ_d0131838_0423740.jpg


なおその前日には、「えひめ 夏の建築学校 翠小 2010」という企画もおこなわれま
す。昭和7年竣工の木造校舎で、エコ改修によって再生したプロジェクトです。ぜひ合わせてご参加ください。
# by yoshiaki-hanada | 2010-07-10 00:42 | ●花田の日記

100709 その後考えたこと

7日(水)、藤村龍至さんをお迎えしてのトークセッションが無事終わった。
この日は一日大忙しで、午前中の授業のあと、午後は、高校の美術の先生方に建築設計の初歩を体験していただくワークショップを学科で開催し、そのお世話係をした。こちらも初めてのことでどうなることかと心配したが、さすが美術の先生はのみ込みが早い。2年生の最初の課題と同じ敷地で、プログラムを簡単にし、ヴォリューム模型と外観スケッチを作ってもらったのだが、面白い案がいっぱいできてこちらも楽しませていただいた。

それが盛り上がり、終了予定時間をいささかオーバー。藤村さんのレクチャーには遅れての参加となった。質疑応答では学生諸君から活発に質問が出た。僕も先日のブログに書いた(1)から(4)の内容を改めて述べた。レクチャー終了後、三宮で食事会をし、さらにいろいろな話を皆でした。その場で話したこと、その後考えた若干のことを前回の続きとして記しておきたい。一緒に読書会をしてきた学生諸君の参考になれば幸いである。また、現在卒論に取り組んでいる4年生に対しては、建築家の言説分析の一例として読んでほしいとも思う。なお、これはあくまでも自分用、教育用のメモのつもりなので、ときどき直す可能性はあります。

(5)「超線形プロセス論」において「線形」という言葉が未定義である問題
(2)で書いたように、「超線形プロセス論」と藤村さんが呼ぶ方法論について何かを語ろうとしても僕は言葉が出なくなる。それは、(2)で書いた理由以前に、そもそも「線形」という言葉の意味がわからないからである。
ごく一般的な意味としては「線のように長い形」とか「まっすぐ進んでいくこと」とでもいうようなことであろうが、ここでは数学用語としての線形(線型)という言葉との関係を無視するわけにはいかないだろう。
数学では、関数f(x)の線形(線型)性は、fについて以下の2つの性質が満たされることとして定義される。

 ・f(x+y)=f(x)+f(y)
 ・f(ax)=af(x)

たとえば、原点を通る1次関数を考えると、この条件を満たしていることがすぐわかる。
もちろん、現実の多くの現象はこういうシンプルな方程式では表現できず、非線形問題を扱う広大な分野が広がっていることは周知の通りだ。
では建築設計における線形性とはどういう意味なのだろう。しかしその定義は藤村さんの文章にはなく、単純な否定形としての非線形という言葉はもちろん、彼が提示する超線形という言葉の意味も確定できない。
もちろん、原因の重ね合わせ(x+yやax、つまり2つの原因を足したり、ひとつの原因をa倍すること)が、結果の重ね合わせ(f(x)+f(y)やaf(x)、つまり2つの結果が足し合わされたり、ひとつの結果がa倍されること)となって反映されること、というような日常的表現への比喩的な言い換えは可能だが、それにしても、建築設計における原因と結果とは何かという説明は必要となる。
こういう指摘は重箱の隅をつついているような印象があるかもしれないが、ひとつの分野で正確に定義されている用語を他分野に曖昧なかたちで導入すると、読者の正確な理解を得られないどころか、書き手の思考も混乱する。さらにいえば、読者を煙に巻いたり、読者に一種の踏み絵を踏むような経験すら強いる。いわゆるソーカル事件を思い出すまでもないだろう。このような未定義の用語の使用が生む論理性の無さが、藤村さんの「超線形プロセス論」を前に僕が言葉を失う最初の要因である。

(6)「超線形プロセス論」への疑問をもう少し別の言い方でいうと
次に、BUILDING Kの設計プロセスを示す表を見て疑問に思うのが、その起点、つまり左上隅の出発点が表の原点から始まっている点だ。いいかえれば、第一手がいきなり始まっている、その前には何もない状態から始まっているように読めるという点である。
しかし僕は、建築の設計においてそのようなこと、つまり設計を無から始めるというようなことは可能だろうかという疑問に包まれる。天文学の啓蒙書によれば、この宇宙は何もない状態でのビッグバンによって始まったそうで、そこにその後の宇宙の全歴史がインプットされていたのかどうか知らないが、少なくとも自然物の誕生に関してはそんな想像をしたりできる。しかし人工物の制作において、それが無から始まるというようなイメージを思い描くことは難しい。
一方、この表を見て僕が思い浮かべたのは、作家性の強い老練の建築家の設計プロセスである。小さなスケッチを紙の端に描く。それを長く付き添ってきたスタッフが読み取り、師との長年の関係によって蓄積された知識や経験によってヴォリュームからディテールにいたるまでを迷うことなくまとめあげる。そこでは、まさに「ジャンプ」も「枝分かれ」も「後戻り」もなく名作ができていく。まさに藤村さんのいう「超線形」なプロセスではないか。
しかし、そこには大きな違いがある。いくら表面上は、BUILDING Kの設計プロセスを示す表のように設計が進んだかに見えても、「作家性の強い老練の建築家の設計プロセス」の背後には、「蓄積された知識や経験」があるだろう。また、もっと一般的な設計の場合でも、敷地観察によって得られる情報や判断などが設計の出発点にあり、しかもそれらは最後まで保持される。
そのような状況は、下図のように、「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」などの厚みを三角形の上に積み重ねた台形のようなかたちで描くこと(=以下、「台形モデル」)ができるだろう。このような表なら、いろいろな設計事例が当てはまる感じがして納得しやすくなるだろう。
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しかし藤村さんの表はこうではなく、あくまでも「三角形」だ。
その理由はよくわからないが、このように考えてみると、少なくとも、藤村さんの「超線形プロセス」と一般的な設計プロセスとのイメージの差は明らかになる。つまり、前者では「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」といったものの排除が意図されていると解釈できる。
もちろん、(5)で書いた数学用語からの連想にこだわるなら、「台形モデル」の輪郭から原点を通らない一次関数を読み取れば、それはまさに「非線形」のグラフになり(原点を通らない一次関数では、f(x+y)=f(x)+f(y)とf(ax)=af(x)は成立しない。つまり非線形)、たしかに「超線形」ではないわなと自分で納得したり、逆に「超線形って非線形のことじゃないの」と思ったりもするが、このような比喩的な言い方こそソーカルが批判したものといえるだろう。

(7)僕なら「超線形性」をこう説明する
では、藤村さんの提示した文章から「超線形プロセス」をどのようなものとして理解すればよいのかなと僕の思考は進む。
碁盤の目の中に点を打った表は、下図のように一方の軸(この図では縦軸)の項目の順序を変えれば、点を対角線上に整列し直すことができる。
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そうすると、BUILDING Kの設計プロセスを示す表も、下図のように見れば、縦軸の決定項目を入れ替えてつくったものともいえるのではないかと疑った。どのような設計においても、縦軸の項目を入れ替えれば、時間の順序を守ったまま(つまり横軸はそのままで)対角線上に点をもってこれるからだ。
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たしかに各行に点がひとつなら、あるいは少ないならそのような作業は可能だろう。
しかし、藤村さんの表は、各点の上方も点で埋め尽くされている。それは、<ひとつ前に決定された要素だけが次の要素の決定根拠になっていること>というルールを反映したものだと解釈できる。突然のひらめきは認めないということである。
ところで、この表の縦軸に並べる項目の内容や順序について、藤村さんはとくに説明をしていない。ただ、BUILDING Kの設計プロセスを示す表を見る限りは、大枠からだんだん細かい部分へという意識は感じられる。
しかし、(6)で述べた「台形モデル」ではなく、あくまでも原点から出発する藤村さんの三角形のモデルを尊重するなら、最初の一手は無根拠に決めざるを得ない。「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」などを採用しないからである。
無根拠でよいのなら、最初に法規制をクリアするヴォリュームを検討しようが、サッシュのディテールを検討しようがかまわないということになる。
そう考えてくると、僕にはやっと「超線形プロセス」のイメージがわいてくる。
つまり、(6)で加えた長方形の部分の存在は認めず、しかも、<ひとつ前に決定された要素だけが次の要素の決定根拠になっていること>というルールだけを厳守する設計方法である。
とにかく出発点に具体的な建築の要素をもってくる。その背景は問わない。ペンシルビルが集合したシルエットでもいいし、枠の存在をできるだけ消したサッシュの納まりでもいい。そして、それだけを手がかりにして次を決める。たとえば、そのサッシュによる窓にふさわしい腰高を決める。次にその腰高にふさわしい部屋の展開図を決め、その展開図にふさわしい階高を決め、その階高から立面を決め、その立面からヴォリュームを決め・・・、というような作業の反復の後、建築ができ上がる。
僕なら、そのような設計プロセスこそが「超線形プロセス」だというだろう。
ただ、少なくとも僕にとっては、このような設計プロセスは現実的にはイメージし難く、それは(3)で書いた「筋トレ」だよなあという思いが強くなる。「台形モデル」における長方形部分を排除すること、すなわち「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」を自然に排除することは難しく、強制的にしかおこない得ないと思うからだ。そして、そのような「強制」は一種の「トレーニング」という枠の中での行為というべきであり、強制はそのような枠の中でこそ意味をもつだろうからである。「監督!こんなトレーニングに何の意味があるんですか」と問うことは、監督と選手の関係においても、また運動能力向上プログラムの効果においても、許されないのと同じだ。

(8)そこからしか生まれない建築があるかどうか
こんなふうにあれこれ考えてみて、やっと自分の中にひとつの論理が浮かび上がる。
そしてそれが設計の論理であるためには、つまり藤村さんの「超線形プロセス論」が筋トレに終わらず設計論であるためには、やはり(4)で書いたように、この方法によってしか生まれない建築を示すことができるかどうか、つまり、「まっとうな野球の試合」のやり方ではなく、「筋トレだけでも野球はできる」という命題が証明できるかどうかにかかっているだろうというところに戻っていく。
第一手目の無根拠性、および二手目以降は<ひとつ前に決定された要素だけが次の要素の決定根拠になっていること>というルールだけで構成される方法論によって生まれる建築である。もし何も新しいものが生まれなければ、方法論として有効でないことが証明されるし、分析の道具としても、ごく普通の設計プロセスを描写する力しかないということになれば、自然に消えていくだろう。

なお、読書会で集めた資料の中に、藤村さんと青木淳君の対談があり(『新建築 住宅特集』2009年8月号)、そこで青木君がMVRDVの建物を例に、考え方は藤村さんと同じようだけどMVRDVの建物にはパンチがあるよねというようなことを指摘していたが、建築家の目から僕と似たようなことを言っているのではないかと感じた次第。

ちなみに、無根拠性のもとで第一手を決めるという作業の困難さに、僕は耐える自信がない。しかし青木君はそれができる。しかも彼は、その第一手をさらに破壊することを第二手とする。「原っぱ」という原点から出発して「決定ルールをオーバードライブする」方法とはそういうことだ。
藤村さんの書いたものを読むことで僕が思い出したのは、むしろ青木君のこのような設計論であり、そこにある論理性だ。このルールの厳守を自分に課すという意味では、倫理性といってもよいだろう。そして、そんな恐ろしい作業がよくできるなあと改めて思う。論文にしろ作品にしろ、こういう強靭な論理と倫理がないものはだめですね。おまけみたいで申し訳ないけど、最後にひと言。
# by yoshiaki-hanada | 2010-07-09 20:06 | ●花田の日記

100704 勉強会で考えたこと

暑くて早くも夏バテ気味。
授業やゼミやらで学生諸君と話すことの多い毎日。

●出たばかりの『伊東豊雄読本—2010』(エーディーエー・エディタ・トーキョー)を買い、「あ、同じくご本人による『語り』ものだ」と気がついて、買っていなかった『磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿』(TOTO出版)も買う。本屋ではそれほど思わなかったのだが、実際に読んでみると、この2冊の本があまりにも対照的であることに気づき、この何年かに建築観や建築家像が大きく変化したんだなあと感慨深い気持ちになった。徹底的に自分と建築の外部を語る磯崎新。徹底的に自分と建築の内部を語る伊東豊雄。ちょうど10歳の歳の差だが、その語り口の距離はとても大きい。

●7/1には、7日に僕らの学科でおこなわれる藤村龍至さんのレクチャーに向けた学生の勉強会に参加した。勉強会はこれで3回目、僕が参加するのは2回目だ。お陰で彼の文章のまとめ読みができた。
ただ、それらに対する積極的な反応が自分の中にどうしても芽生えず、なぜかなと考えてみた結果、その理由が自分なりに整理できた。それはいずれも、藤村さんの議論の内容や結論ではなく論文としての論理性に関する問題である。
当日参加した学生諸君には話したのだが、彼らにとっては復習になると思うし、間違いを指摘して下さる方があるかもしれないので、メモしておこう。7日の議論の盛り上がりを期待している。

(1)「工学主義」あるいは「批判的工学主義」を導く論理への疑問
藤村さんの文章に必ず登場する以下の表は、彼の唱える「批判的工学主義」という立場を導く根拠となるものである。
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しかしすぐにわき起こるのは、それぞれの升目を埋める言葉の意味や内容はともかくとしても、なぜ1920年代と同じ枠組みが2000年代に適用できるのかという疑問である。つまり、2000年代にも、社会には一般的反応と主流的立場があり、それに対する抵抗運動としての反主流的立場が生まれ、それらの乗り越え運動としての批評的立場が成立すると、なぜ断言できるのかということだ。
しかし藤村さんは、その証明どころかエクスキューズすら書いておらず、たとえば「グーグル的建築家像をめざして」(『思想地図』vol.3)という文章では、「これらのフレーム(=1920年代のフレーム:引用者注)を『情報化』に適用して現状を整理すると」と、きわめて自動的に議論は進められ、この表の上下枠どうしの対応として「工学主義」とか「批判的工学主義」という言葉が導き出されているのである(なお、そもそも「工学主義」という言葉は「商業主義」に置き換えた方がいいんじゃないか。「工学」という言葉は「行きつ戻りつ」というイメージの方が強いと思うが)。
しかし、主流・反主流・乗り越えといった1920年代の二項対立的構図と同じ枠組みのもとに2000年代の社会が成り立つ保証はどこにもない(成り立ってほしくないと僕は思う)。だとすると、藤村さんの議論は、そもそもスタートしていないということになるのではないか。

(2)「超線形プロセス論」という方法論への疑問
藤村さんは、批判的工学主義を実践する設計の方法論として、超線形プロセス論という方法論を唱えている。設計中に、「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という方法だ。
その説明のために藤村さんは、「BUILDING K」という自分の設計した建物の設計プロセスを記録した以下の表をいつも示す。横軸が時間の経過(左から右へ)、縦軸が決定された内容であり、黒丸が対角線的に打たれていることからわかるように、常にひとつ前のステップの決定内容の上に次のステップの内容が決定されていったというわけだ。
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この表を巡る藤村さんの文章を読んでつくづく思うのは、彼が書いているのは設計の「方法論」ではなく、設計の「目標」だということである。しかも、住宅メーカーも、大手設計事務所も、ゼネコン設計部も、ひょっとしたらアトリエ系の事務所ですらもっている「目標」である。なにしろそれは、手戻りがなく効率の良い設計だからだ(そういう意味では、「超線形プロセス論」とはまさに「純粋工学的」手法ではないのかという疑問も残る)。
各組織はそれぞれの仕方でこの「目標」に対する「方法論」を模索しているだろう。クライアントからの注文への対処法、設計要素の規格化、施工との早期の連携などいくらでも思いつく。しかし藤村さんの文章には、彼の「方法論」が示されていない。どうやって「この表のような」プロセスを実現したのか、するのかという手法こそが「方法論」のはずなのに、「この表のように」進んだことを結果として示す模型が並ぶだけである。「超線形プロセス論という方法論」はどこにも示されていないのだ。これでは議論をしようにもとっかかりが見つからない。

(3)超線形プロセス論の筋トレ性
仮に「超線形プロセス論」を「「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」方法論と定義すれば、それを使って何かを設計せよという問題は、学生向けの演習としては面白い設計課題となる。まさに(2)の表を描くために、設計中におこなわれる選択を言語化することによって、設計行為の複雑さが逆照射されるからだ。
ちなみに僕は、4年生の演習科目で「<デザインは模倣から始まる>という仮定から出発するとどのような思考が展開できるか」ということを学生諸君に問いかけているが、彼らにとってはなかなか良いトレーニングになっていると実感している。
しかしそれにしても、「逆照射」こそが方法論への王道である。それなくしては、こういう課題は、スポーツでいえば筋肉トレーニング、つまり目標と方法が一対一に対応した基礎的訓練にすぎないのだが、藤村さんの文章に「逆照射」はない。
さらに重要なことは、いくら筋肉隆々の人が集まっても、それだけでは優れた野球チームにならないということ。ルールの理解、ポジションごとの特殊な技能の獲得、そしてチームワークの達成などが必要だからだ。したがって「超線形プロセス論」は、今のままでは筋トレに過ぎない。

(4)「筋トレだけでも野球はできる」となぜいわないのだろうという疑問
仮に方法論が言語化できていなくても、建築が面白ければ、モノが方法を語るという状態になる。しかし「BUILDING K」からは、そのようなメッセージは読み取れず、むしろ、「低層部では商業施設として求められる一室空間を確保し、上層部では周囲のペンシルビルのスケールに合わせて小割りにした」という常識的な文脈的解釈が成立する。つまり、(3)の比喩を用いるなら、ルールを十分に理解した真っ当な野球の試合がおこなわれているのである。
ここから先は余計なお世話になるのだが、そんなことでいいのだろうかと思わざるを得ない。筋トレしかやっていない人間だけでやる超絶野球。藤村さんの議論からすれば、その建築バージョンこそが彼の示すべきものだと思うのだが、いかがであろうか。
# by yoshiaki-hanada | 2010-07-06 00:41 | ●花田の日記