カテゴリ:●愛媛新聞「道標」欄の連載( 11 )

愛媛新聞「道標」欄のコラム

今年、愛媛新聞に連載している原稿です。毎週日曜日の1面にある「道標 ふるさと伝言」というコラム欄で、毎年5人の愛媛県出身(あるいは住んだことがある)のひとによって書き継がれています。今年のラインナップは以下の通り。5週に一度まわってきます。愛媛新聞社の了解をいただいたので、私の担当分を掲載します。ちなみに私は、愛媛県東宇和郡野村町(現在の西予市野村町)で生まれて、小学校3年生の2学期の途中までそこで過ごし、その後、高知市へ引っ越しました。

 スポーツジャーナリスト          二宮清純
 浜松医科大名誉教授・写真家        山下 昭
 NGOピースウィンズ・ジャパン尾道事務所長 國田博史
 富山大人間発達科学部教授         村上宣寛
 神戸芸術工科大教授            花田佳明
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by yoshiaki-hanada | 2002-06-25 22:39 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年2月3日) 連載1回目

大震災の教訓
—建物消え「記憶」失う—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 神戸で暮らしていると一月はつらい。阪神・淡路大震災を思い出すからだ。私は当時も今も東灘区に住んでいる。激震地だったが、幸いなことに家も家族も無事だった。しかし今年も一月十七日が近づくと、深い穴に落ちるような不安感が甦った。
 あの日、多くの命や建物が消えた。そして、生き残った人や街も、かけがえのないものを失ってしまった。それは「記憶」だ。
 神戸の中心部、三宮の阪急電車の駅ビル解体現場の光景が印象的だった。昭和十一年に完成したその建物は、コンクリート工学の専門家・阿部美樹志が設計し、アーチ型の進入路や円形の塔をもつ優雅な近代建築だった。上階には国内外の名作を上映した映画館があり、多くの人々に愛された。阪神間にゆかりの深い作家・村上春樹や映画監督・大森一樹も雑誌で思い出を語っている。いわば、神戸の青春が詰まったような空間だった。その建物が壊滅的な被害を受け、解体を余儀なくされたのだ。
 忘れられないのは、解体工事の期間中、多くの人々が立ち止まり、その作業をじっと見つめていた光景である。重機がコンクリートを砕き、日ごとに建物は小さくなる。人々は佇み、その様子を最後まで見守り続けた。
 彼らは何を思っていたのだろう。消えゆく駅ビル自体を惜しんでいたことは間違いない。しかしそれ以上に、駅ビルとともにあった何かに別れを告げていたのではないか。建物さえあれば、そこに身を置くことで出会えたはずの過去の自分とさまざまな出来事。それらが建物とともに消えていく。人々はこのことに気づき、過去の記憶との別れの儀式をおこなったのだ。
 復興した街も同じような記憶喪失に陥った。特に、震災前は路地をはさんで木造住宅が並んでいた下町だ。そこが区画整理事業によって高層マンションと空虚な広場に姿を変え、かつての穏やかな風景と親密なコミュニティの暮らしぶりは忘れ去られた。
 歩き慣れた道端に突然更地が現れる。しかし、そこに何があったのかを思い出せない。すると、その横を毎日通っていたはずの自分が不確かなものに思えてくる。そんな経験は多いだろう。「形あるものはいつか消える、残るのは記憶だけだ」という言い方があるが、わたしたちが暮らす街や村に関しては、「形あるものが消えると、記憶も消える」というべきなのだ。
 高度成長期以降、この国のまちづくりは、いわば人工的な阪神大震災、つまり古い建物や空間の破壊による記憶の抹殺行為であったといえるだろう。無味乾燥な住宅団地、どこにでもあるショッピングセンター、そして経済優先の再開発。そんなものばかりが国中にはびこり、人々は、手がかりのないのっぺりとした場所と暮らしを当然のことと思うようになった。
 もちろん、過去をすべて残すことなどできはしない。新たな暮らしにふさわしい建物や空間へと変身させ、ときには破壊してつくり直す必要もあるだろう。しかしそこには、人々を支える記憶の保持や歴史の継承についての明晰な判断と、それに基づく優れたデザインが必要なのである。この一年、そんな空間デザインの可能性や面白さについて考えていきたい。
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by yoshiaki-hanada | 2001-12-25 22:29 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年3月9日) 連載2回目

これからの建築
—環境の「下町」化図れ—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 今回は、生意気を承知で、これからの建築を設計するためのヒントと心構えを提案したい。手がかりは下町。人情、伝統、寅さん…。情緒的な人間関係に支配された共同体のイメージが浮かぶ言葉だ。
 ところが、東京の下町と郊外の団地に暮らす人々との生活行動を比較した研究(大阪大学准教授・鈴木毅さん他)によれば、もう少し抽象的な言葉が導き出されている。下町の生活感溢れる空間の秘密とは、好きなときに自由に立ち寄ることのできる場所(=アクセスポイント)が町のいたる所にあり、そこへ行けば、次の判断や行動の手がかりとなる情報をもった人やモノ(=ナビゲーター)に出会えることだというのである。
 たしかに下町には、自宅からの徒歩圏内に喫茶店や本屋がある。銭湯や商店、馴染みの飲み屋もある。そこへの出入りに特別な許可は必要ない。ぶらりとはいれば自分の居場所があり、他者との会話も生まれてくる。その中には、各自が抱える問題への答えも潜む。そういった場所や人や情報のネットワークが下町の空間を満たしており、人々はそれに接続することで、日々の暮らしを豊かなものにしているのだ。
 一方、まさに人々の交流を目的に作られたのが団地の集会所だ。しかし、そこで開かれるさまざまな講座や教室は、決まった曜日と時間にしか住民の居場所にはならないから、各住戸と集会所とを結ぶ単純な往復運動しか生まれない。下町のアクセスポイントとは似て非なる存在なのだ。
 予約型施設は、結局のところ閉じた空間にしかならないが、誰もが自由に出入りし、ひとりで過ごしても他者と接してもよい場所は、開かれた公共的空間となる。さらにそれらが点在すれば、互いを結ぶ人の動きが発生し、環境全体のアクティビティも向上する。私たちが下町と呼んでいるのは、そのような状態の空間のことだ。
 私には、このように定義された「下町」こそ、これからの建築が作り出すべき町の姿を示していると思われる。さまざまな建築を、「下町の飲み屋」のように、そこへアクセスすること自体が目的になるほど魅力的にデザインし、さらにそこで提供するサービスによって新しい生活像へとナビゲートして、町を「下町」化するのである。
 お手本として、二〇〇四年に開館した金沢21世紀美術館を挙げたい。この建物は、都市の街路のような画期的な空間構成と、ワークショップなどのソフト面の充実により、子供から大人まで、年間百三十万もの人にとってのアクセスポイントとなり、現代美術を通した世界理解へのナビゲーションに成功した。そして、金沢市の町づくりと世界的なアートシーンのネットワークに、新たな点と線をつけ加えたのだ。町もアートも「下町」の賑やかさを具体化したのである。
 文字通り飲み屋を始めようと思っている方から、公共建築を企画している行政マン、そしてそれらに具体的な空間を与える設計者の皆さん。自分の掌の上にある構想やデザインを見直してほしい。果たして人々に新しい世界像を提供できているかと。
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by yoshiaki-hanada | 2001-11-25 22:30 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年4月13日) 連載3回目

社会の新人たちへ
—「雪かき仕事」大切に—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 勤務先の大学で学科主任をしているので、三月から四月にかけては、卒業式、入学式、学年ごとのオリエンテーションなど、学生向けにスピーチをする機会が多い。自分が大学生の頃のことを考えれば、教師が何を話そうが大差ないと思うものの、立場がかわると、前日の夜、学生に偉そうなことを言えるのかと自問しつつ、必死で下書きをしていたりする。
 私は環境・建築デザイン学科で教えている。学科卒業式では、「雪かき仕事の大切さを忘れずに社会で活躍してほしい」という話をした。
   □   □   □
「雪かき」とはいうまでもなく、降り積もった雪を除去する作業。それを作家の村上春樹が、小説『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、「文化的雪かき」という表現で使い、有名になった。
 主人公のしがないライターは、仕事をより好みできず、女性誌で食べ物屋を紹介するといった平凡な記事を淡々と書く毎日。彼はそんな仕事を「文化的雪かき」と呼び、「好むと好まざるとにかかわらず、誰かがやらなくてはいけない仕事」と説明する。
 雪国では、「雪かき」をさぼると、道は閉ざされ交通が途絶え、屋根につもった雪の重みでやがて家は崩壊する。しかし、誰かが雪を取り除けば、外出もでき、事故も避けられる。けれどその便利さや安全は、「雪かき」をしない人にとっては自明のこと。「雪かき」をした人の存在は意識されず、特別な対価も支払われない。「雪かき」とはそういうタイプの仕事なのだ。
 しかも、機械的にやればいいというものではない。屋根から落とした雪が歩行者を潰し、放り投げた雪が家の入口を塞ぐことだってあるからだ。
 つまり「雪かき」とは、従順で受動的な職業観の対極に位置する仕事であり、状況と方法に対する繊細な判断に支えられた、静かでしかし確実な革命ともいえるのだ。おそらく村上は、しがないライターの仕事に、そういう意味を込めたのだろうし、村上の仕事自体が、文学における「雪かき」だという村上論も存在する。
 たとえば、日本はこれから超高齢化社会に突入する。それに対し、社会の仕組みを全面的に変えるのではなく、欠陥を補修していくやり方を選ばざるを得ないだろう。建築やまちのあり方も大いに改造の余地がある。そこで求められる優れた仕事は、まさに、単調な「雪かき」の先に生まれてくるに違いない。だから、各自の持ち場で、既に積もった、あるいはこれから積もる「雪」を見つけ、それと戦ってほしい。自分の仕事に不安を覚えたら、「雪かき」と呼べるかどうかで判断しよう。
   □   □   □
 そんなことを、いささか熱い調子で学生に喋った。
 式が終わりホッとしたのも束の間、秋田県出身の同僚から、屋根の雪を取り除くのは「雪かき」じゃなくて「雪下ろし」だと冷静な指摘。夜の謝恩会で再度回ってきた学科主任挨拶の機会にそのことを言い、「一夜漬けはだめ。仕事で書いた書類は必ず一日寝かそうね」と付け加えた次第である。新社会人の皆さんの、果敢でしかも慎重な雪かき仕事を心から期待している。
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by yoshiaki-hanada | 2001-10-25 22:34 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年5月18日) 連載4回目

国立移民収容所
—記憶継承へ空間残す—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 今年は日本からのブラジル移民百周年。明治四十一年に最初のブラジル移住船「笠戸丸」が神戸港を出て以来、神戸はブラジル移民と関係が深く、四月には多くの行事がおこなわれた。
 そのひとつが、「旧神戸移住センター」保存・再整備工事の着工宣言式である。昭和三年、現在の神戸市中央区の山の手に「国立移民収容所」として建設され、同七年に「神戸移住教養所」、同三十九年に「神戸移住センター」と改称された建物の保存改修工事が始まったのだ。
 移住希望者たちは、ここで一週間ほど研修や健康診断などを受け、神戸港から船に乗った。昭和十年に芥川賞を受賞した石川達三の『蒼氓』は、日本での最後の日々をこの施設で過ごす人々の葛藤を描いた名作だ。「一九三〇年三月八日。神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い」という書き出しは、日本を離れる不安を暗示した切ない描写だ。
 昭和四十六年に閉鎖されるまで、この施設から約二十五万人の人々が、南米、特にブラジルへ旅立った。その後は神戸市の所有となり、看護学校として、最近では芸術活動の拠点や移住資料展示室として使われてきた。
 一方、この建物に対する移住者やその子孫の方々の思いは深く、百周年を機に再整備事業が決定された。
 改修方針の策定においては、移住史の専門家や在住ブラジル人関係者等による委員会がつくられ、私も建築の分野から委員の一人として参加した。
 『蒼氓』の中で「黄色い無装飾の大きなビルディング」と書かれた収容所は、当時の兵庫県営繕課長・置塩章が設計した鉄筋コンクリート造五階建て、床面積三千六百平方メートルの建物だ。様式建築全盛時代にあって、モダニズムの香りが漂う興味深いデザインである。約六百人を収容し、寝台、食堂、浴室等を備え、当時としては近代的なホテルの観もあった。しかし、「家も売った畑も売った。家財残らず人手に渡して了った」という『蒼氓』の登場人物のような人たちにとって、そこは、言いようのない不安に満ちた場所でしかなかっただろう。
 再整備計画の策定は順調に進み、改修後は、移住ミュージアム、在外外国人支援、国際芸術交流という三つのゾーンで構成し、全体を「建物の記憶を継承する」というコンセプトでまとめることを確認した。つまり、この建物の現在の空間そのものに、最も重要な位置づけを与えたのだ。委員の誰もが、当時の状態をよく保持した空間こそが、移住者たちの夢や不安を伝える最良の媒体であることを認めたのだ。
 この建物から坂を下れば、人々が「荷物の重みに腰をかがめた群れになって」(『蒼氓』)、港へと歩いた道が確認できる。彼らが最後に見た元町の繁華街や海岸通沿いの近代建築群も特定できる。核となる建物が残っていればこそ、神戸という街に潜む移住の物語が浮かび上がるのだ。歴史的記憶は、それ自体がミュージアムと呼べるような都市や地域の空間の中でこそ、より確実に継承されるだろう。
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by yoshiaki-hanada | 2001-09-25 22:35 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年6月22日) 連載5回目

社会で学ぶ学生たち
—自分の役割知り成長—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 ここしばらく、私の研究室の3人の男子学生の姿を見かけない。優秀な4年生。期待の星なのに・・。
 といっても、物騒な事件などではない。神戸市内の湊川地区にある商店街に通いつめているのだ。同じような学生が、他の研究室や下級生の中にもかなりいる。
 彼らは、現地と大学で集めた数千本のペットボトルで、商店街の中の空きスペースに「図書館」をつくっている。ペットボトルを縦につなぎ、それを何列も並べてできる半透明の壁で空間を囲い、そこに手作りの木の棚や椅子を置く。そして、町の人々や学生たちが持ち寄ったいろんな本を並べるのだ。学生たちはそこを「まちとしょ」と名づけ、子どもたちから大人までの居場所にしようと考えている。
 この町と学生たちのつきあいは長い。商店街の組合からの依頼に端を発し、先輩から後輩へと引き継ぎながら、彼らはイベントを仕掛け、商店街のホームページを立ち上げ、空きスペースにパソコン教室をつくり、町の歴史を調べ、数年かけて地域との信頼関係を築いてきた。そういった背景のもとに生まれる今回の「まちとしょ」も、楽しい場所へと育っていくに違いない。
 学生が主体的に社会と関わるこのような活動が、私の大学ではたいへんに盛んだ。建築や町づくりから、ビジュアル、ファッション、プロダクト、漫画、映像、工芸など、あらゆるデザイン領域を扱う大学なので、社会との接点はいくらでもある。
 神戸の下町商店街の中の空き家を低家賃で借りて改装し、そこに住みながら町づくり活動で恩返しをする「住みコミュニケーションプロジェクト」。古い織物工場を、播州織りの展示・販売スペースとして再生させた西脇の「播州織工房館」。西宮の貴重な自然海浜を地域づくりに生かす「御前浜周辺整備計画」への参加。知的障害をもつ方々と共同で立ち上げた「みっくすさいだー」というデザインブランド。挙げ始めるときりがない(「 」内の言葉で検索すると詳しいホームページが見つかります)。
 教員の関わる度合いはプロジェクトによってさまざまだ。体制も、受託研究として活動資金を確保したり、行政から助成金をもらったり、授業の一部にして大学から経費を出すこともある。学生の熱意と行動力を信じ、大学は可能な限りのサポートをする。
 こういった活動は、民間のビジネスとも行政主導の事業とも違う。もちろん、企業での研修のような訓練の場でもない。大げさにいえば、これからの社会に求められる新しい「仕事」や「空間」の輪郭を探る実験なのだ。
 社会の中に出て行くことで、学生たちは確実に成長する。なぜならば、彼らは社会との自分なりの距離感をつかむからだ。果てしない「自分探し」や自分勝手な「格差社会批判」ではなく、そこでの自分の位置と役割を肯定的にとらえる技術を会得するのだ。私は、そのような機会の提供こそ、これからの大学の重要なカリキュラムのひとつだと信じている。
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by yoshiaki-hanada | 2001-08-25 22:37 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年7月27日) 連載6回目

卒業論文と卒業制作
—言葉と空間 関係問う—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 先日、四年生の卒業論文の中間発表会をおこなった。え、もう卒論? しかもデザインの大学なのに卒論があるの?と不思議に思われるかもしれないが、私の学科では、卒業論文と卒業制作の両方が必修なのだ。全員が十月末に前者を、一月末に後者を提出する。どちらか一方という大学が多い中、このやり方を開学以来続けており、その教育効果は非常に大きいと自負している。
 卒業論文も卒業制作もテーマはさまざま。卒業論文は、建築・公園等の使われ方の調査分析、町や地域づくりの事例研究、建築作品論・建築家論、歴史的町並みの保存論、小説や映画の空間分析などもある。卒業制作も、建築設計から都市や地域へのソフト的提案まで幅広く、空間をテーマにした映像作品が提出されたこともある。
 その指導や評価の過程で私が最も重視するのは、言葉と空間の関係に対する誠実な思考の有無である。
 たとえば卒論。大阪の下町を「都市の裏側」という視点で分析したいと学生が言う。裏側なんて相対的な言葉だから定義できない、裏は必ず何かの表だ、まずは裏側という言葉を使うのをやめて現実の空間を丹念に観察しよう、その中から君の実感に近い別の言葉を発見すべきだ、と私。
 卒業制作で、学生がある町に美術館を設計すると言う。何の美術館?と私。アートです、とすごい答え。中身を決めずに容器を考えている。なぜその場所なのかと私。故郷だからと学生。それは建築をつくる根拠ではないと私。
 そんなやりとりを繰り返す。学生の言葉が建築や町という空間の本質を覆い隠している場合、あるいは、その根拠を示す言葉なしに空間を作ろうとしている場合に、それらの言葉と空間は間違っていると指摘する。そして、世界をもっとクリアに見通す力をもった新しい言葉と空間を探せと激励する。卒業論文と卒業制作の両方をやる意味はまさにここにある。学生たちは、二つの仕事を関連づけながらやり通すことで、世界の二大構成要素としての言葉と空間の存在と、それらの相補関係の大切さを実感するのだ。
 学生たちの頼りなさをお笑いだろうか。しかし、現実の社会も奇妙な言葉と空間で満ちている。
 たとえば「ふれあい広場」。市役所の玄関ロビー、公園の一角、盆踊り大会、そういった場所や催しの呼び名の定番だ。しかし「ふれあい」という曖昧な言葉は、何と何のどのような関係の発生を期待するのかを不問にし、「ふれあい」の舞台としての空間についても、新しいイメージを喚起することはできなかった。
 コミュニティ、ふるさと、居場所、○○広場、出会いの場、癒しの空間などの言葉も同じ。どれも別の言葉で説明ができ、しかも説明してしまうとそのつまらなさが明らかになる。つまり、問題の本質を隠蔽する危険な言葉たちなのである。
 いよいよ夏休み。学生たちは、言葉と空間のあるべき姿についての考察を本格化させる。大人も、誠実な実践と勉強をしないと格好がつかない。
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by yoshiaki-hanada | 2001-07-26 00:53 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年8月31日) 連載7回目

故郷がくれた原風景
—価値判断の物差しに—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 原風景という言葉がある。人や町の基底を形づくる映像的なイメージとでもいえばよいか。かつて奥野健男が『文学における原風景』という本で用いて一般化し、建築や都市を語るときにもよく使われる。戦争で廃墟となった都市、下町の路地、旅した国、深い森・・、さまざまな原風景を手がかりとして、小説や建築や芸術作品が生み出されてきた。
 一歩間違うと「国民共通の原風景」といった具合に、ナショナリズム高揚に利用されかねない言葉なので要注意だが、自分の中に原風景としか呼びようのない何かがあるのも事実だ。
 私にとってそれは、生まれ故郷・愛媛の山村が喚起するイメージである。
 私は昭和三十一年に野村町(現在の西予市)に生まれ、小学校三年生の秋までそこで暮らした。
 記憶があるのはわずか四、五年のことなのに、気がつくと当時のさまざまな風景の中を歩いている自分がいる。
 霧に包まれた通学路、野村小学校の木造校舎の靴ぬぎ場、大きな銀杏のある校庭、週末通った病院の帰りに乗る夜のバス、住んでいた家の台所の土間、農薬を食べて死んだ愛犬・・。断片的な映像が次々に浮かんでは消え、その中にいる自分を見ている自分がいる。
 しかしそれが原風景かというと少し違う。私の中には、これらの断片を束ねるもうひとつ別のイメージがある。それは、今書いたような映像が野村町の盆地の底で物語を編む様子を上空から眺めた鳥瞰図だ。
 都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア。大袈裟と笑われるかもしれないが、野村町の空間と生活をそんな言葉に抽象化すると、それが自分の原風景だと納得がいく。そしてこのイメージが、私の価値判断の物差しとして、長く機能してきたと思えてならない。
 そのことを強く意識したのは、十四年前に四国の公共建築を見て回ったときだ。内子町から車で八幡浜市に向かっていた。目的は八幡浜市役所で活躍した建築家・松村正恒が設計した日土小学校などを見ることだった。
 両側を山にはさまれた谷筋の集落を車で走るうち、身体の中に不思議な感覚がわき上がるのを意識した。そして日土小学校の校庭に立った瞬間に、「ああ、懐かしい」と思ったのだ。もちろん初めて訪れた場所である。しかし、谷筋を流れる川に沿って建つ日土小学校の静謐な空間の中を歩き回るうち、私は私の原風景の中にいた。そこはまさに、谷の底にあるユートピアだった。東京から遠く離れた場所でひとり傑作を設計し続けた松村という人物も、似た原風景の持ち主だったのではないかと直感した。
 振り返ってみると、私が憧れ、敬意を払ってきた人や建築は、すべて中央から距離をおいた批評性をもっている。そして、自分が憧れ、敬意を払うに値する相手かどうかを考えるとき、あの原風景が甦り、それとの整合性を確かめてきたように思えてならない。自分の中にそういう核を植えつけてくれた故郷に、私は心から感謝している
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by yoshiaki-hanada | 2001-06-27 22:29 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年10月5日) 連載8回目

日土小の保存・改修
—過去と最先端共存へ—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 八幡浜市立日土小学校では、この夏から、現在の校舎の全面的な保存・改修工事と、四つの教室をもつ新校舎の建設が始まった。
 愛媛県の皆さんならご存知の方も多いだろう。この校舎は、かつて八幡浜市役所に勤務し、多くの優れた学校や病院関連施設などをつくった松村正恒という建築家が設計し、一九五六年から五八年にかけて完成したものである。当時から高い評価を受け、近年さらに、日本のモダニズム建築の二十選に選ばれるなど、再び注目を集めてきた。
 竣工後約五十年が経ち、その去就についてはさまざまな議論があったが、現在の校舎は基本的に当初の状態にきちんと戻し、職員室等には必要な改修を大胆におこない、建物としての性能を上げ、さらに普通教室棟を一棟増築するという結論に落ち着いた。
 私もこの保存活動に関わってきた。その過程で、なぜこの校舎の存続にこだわるのか何度も自問したが、建築に関わる専門家として、以下の三点への確信は揺らがなかった。
 まずは、日土小学校の校舎は歴史的に大きな価値をもつということだ。あの建物がなくなると、日本の建築の歴史の中に、二度と取り戻せない空白ができる。それは、戦前まであった大型の木造建築の流れを戦後にも継承し、さらに新たな可能性を示した数少ない貴重な事例だからである。
 二つ目はこの校舎の設計の素晴らしさだ。廊下と教室を分離して中庭をとり、落ち着いた学習環境を確保したクラスター型の教室配置、自然の光や風をうまく制御する外装の工夫、自然との一体感を味わえる快適なテラス、子どもたちの居場所にもなる廊下や階段。現代建築としても全く遜色がないこの校舎は、当時の最先端の学校観を具体化していた。
 そして最も重要だと思ったのは、保存し改修することにより、「優れた過去」と「最新の現在」が共存する空間になり、そういう場所で子どもたちに勉強してもらえるという点だった。
 既存の空間的資源の価値を正しく評価し、それを賢く活用していくことこそが、これからの時代に求められる建築分野での最大のテーマのひとつであるが、改修後に蘇る校舎は、現在の校舎がかつてそうであったように、時代の最先端の世界観を具体化した空間になる。
 学校とはどのような場であるべきかを考えるなら、私は、次の時代を担う子どもたちに対し、現在の大人が、次の時代にとって重要だと考える価値観を、授業内容はもちろんのこと、あらゆる点で示す場でなくてはいけないと思う。したがって校舎も、その価値観を体現した空間として設計される必要がある。日土小学校の新しい空間は、まさにそういう場になるのである。更地に安易なコンクリート校舎では、子どもたちに大人の無知と無責任を教えることでしかないだろう。
 来年には、最新の学習環境と文化財としての価値をもつ空間が共存した、全国でも希有な学校として蘇る予定だ。大いに期待していただきたい。
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by yoshiaki-hanada | 2001-05-28 01:24 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載

愛媛新聞「道標」(掲載 2008年11月9日) 連載9回目

学生による団地改修
—「使える素材」再利用—

神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 この夏、学生たちが団地の改修実験に挑戦した。
 場所は、兵庫県西宮市の浜甲子園団地。日本住宅公団(現在の都市再生機構)が昭和三十七年から三九年にかけてつくった中層・一五〇棟から成る団地である。しかし完成から四十数年が経ち、建物の老朽化や住民の高齢化も進み、建て替え事業が始まっている。
 その中の、既に解体が決まり無人化した住棟の住戸を、関西の六つの大学の建築や住居系学科の学生たちに自由な発想で改修してもらった。都市住宅学会他の主催による企画である。
 各大学に、いわゆる2DKの住戸がひとつずつ与えられた。和室が二つと台所等の水回りがついた小さな空間である。学生たちは夏休みを返上し、改修設計、既存部の解体、そして新しい空間の施工に取り組み、九月末に完成させた。同時に一般公開とシンポジウムもおこなわれ、好評を博した。
 床も壁も天井も真っ白に仕上げ、植物を配して抽象的な雰囲気を演出した大阪大。和風の意匠に徹し室内に路地まで設けた京都工芸繊維大。一階の床はコンクリートではなく木造であることに注目してその一部を下げ、ロフトを実現した大阪市立大。大きな建具で空間の自由度を生み出した武庫川女子大。床の段差を手がかりにして空間を構成した関西大。どれも力作ぞろいで、「え、あれがこんなに変わるの!」という驚きの連続だった。
 私の勤める神戸芸術工科大の学生たちは、間仕切りを撤去して住戸をひとつの空間にし、その中心に、四・五×二・七三メートルもの大きなテーブル(高さは三八センチ)を据え付けた。一部に四角い穴があいていて、テーブルの「中」にも坐れる仕掛けである。大勢でのパーティー、映画会、一日限りの駄菓子屋さん、そして隅っこでのお喋りまで、この大きな家具は実にさまざまな行為や出来事を誘発した。
 私の大学の学生たちのブログ(http://kduhamako.exblog.jp/)には、工事の様子や各大学の完成写真が載っている。ぜひ御覧いただきたい。
 学生たちの作り出した空間は、どれも魅力的なものだった。多くは間仕切りを取り払い、空間を家具や建具で設えていた。昔は、この小さな住戸に四人も五人もの家族が暮らしたのだ。学生案は、そういう条件には向いていない。しかし、独身者、若い夫婦、学生のルームシェア、団地の集会所などには、ぴったりなデザインばかりである。
 つまり彼らの提案が投げかけたものは、間もなく壊される建物がまだ立派に使えるという事実であり、しかも、もしそれをこんなふうに改修すれば、団地内に若い世代が住み、楽しい共有スペースも生まれるかもしれないというヴィジョンなのだ。
 学生たちの目には、団地は単なるノスタルジーの対象ではなく、「使える素材」として映ったはずだ。現代の日本には、団地以外にも、学校の空き教室や下町の空き店舗など、同様の「素材」がたくさんある。それらの再利用は、これからの社会のあるべき姿へと続く確実な道のひとつだろう。
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by yoshiaki-hanada | 2001-04-29 23:32 | ●愛媛新聞「道標」欄の連載