『青木淳 ノートブック』(平凡社、2013年)の書評(2013年の『SD』掲載)。

『青木淳 ノートブック』(平凡社、2013年)の書評です(2013年の『SD』掲載)。

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建築的知性の物質化
神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 建築家・青木淳が、『青木淳 ノートブック』というタイトルの不思議な本を世に送り出した。大きさが約34cm×24cm、厚みは4cm弱、本であろうことは何となくわかるが、むしろひと束のB4コピー用紙と言ったほうが似合う物体である。
 彼は、独立した翌年の1992年4月1日以降、設計のためのスケッチやメモをコクヨ製A4サイズのキャンパスノートに書き続けてきた。1冊80頁、ごく普通のノートである。そして20年後の2012年11月22日に104冊目を使い終わり、それらすべての頁を記録したのが本書なのだ・・・という紹介で、この本を見たことのない読者の頭の中にはどのようなイメージが浮かぶだろう。
 ひとつの頁に元のノート16頁が縮小されて納まっている。肉眼で文字や数字をすべて読むのは難しく、ルーペのおまけ付き。初めて本書を手にしたとき、小さなノートが延々と並ぶその光景に言葉を失い、私はこの紙の束を抱えたままソファーにへたり込んだ。
 ところで、私は本書を巡る青木との対談を9月15日に東京の青山ブックセンターで行なった。その依頼を受けたのは8月19日で、ともかく現物を見たいと思ったがまだ印刷中。代わりに104冊のPDFデータを送ってもらい、そのすべて(80頁×104冊=8320頁!)をコンピュータ上でめくっていった。そして対談で取りあげるべき頁などを選んだ自分なりの目次やメモをノート20頁分ほどつくり、完成品を見なくても「これで対談は何とかなる」と考えていた。
 ところがまだ店頭には並んでいない9月4日、彼から実物が送られてきた。宣伝用に一足先に作られたサンプル本を回してくれたのだ。
 段ボールを開くと中から真っ白な塊が現れた。初めて見たその姿は女神のように美しく、表紙も本文頁の手触りもきわめて滑らか、背表紙の無い糸かがり綴じ製本のためすべての頁はノドまで開く。まさに全体が分厚い「ノート」なのだった。しかも長手方向にも湾曲するという、本にしては不思議な挙動。突拍子もない連想だが、巨大なこんにゃくを持っているような気分になった。
 サンプルにはルーペがついてなかったので家にあった天眼鏡越しにさっそく眺め、あらゆる文字や数字が読める高解像度の虜になった。すべての頁がカラー印刷で図も鮮明。しかしすぐに目が疲れて顔を上げる。しばらく休んでは再びレンズ越しにノートを読む。顔を上げる。レンズを覗く。この作業を数回繰り返すうち、私は奇妙な感覚に包まれていた。
 つまり、レンズを通して見ているときは文字も図も意味ある記号として頭にはいる。しかしレンズから目を離して顔を上げた瞬間に、今まで見えていたものすべてがぼんやりとして、紙のかたまりの上の黒い滲みに戻るのだ。一般の本では決して味わえない感覚である。せっかくつかまえたのにすぐ逃げられる。そんな戸惑いと言ってもよいだろう。そしてこのとらえどころのなさは、まさに青木の設計した建築の特徴そのものだということにも気がついた。それを言いたくて彼は現物を送ってきたに違いない。「ああ、また青木君にしてやられた」と背筋が少しひんやりし、PDFデータを通して手にしていた安心感は一瞬にして砕け散った。
 しかし、PDFの画像とはいえ詳細に104冊の全頁を眺めたことにも意味はある。このノートには何が書かれているかが多少は頭に入ったからだ。レンズ越しだとそうはいかない。とりあえず気づいた特徴は以下の通りだ。
●初期のノートには言葉が多く書かれているが、その後は次第に図が多くなる。
●一般的な意味での「スケッチ」もあるが、ひとつのアイディアから展開できる「可能なパターン」を書き尽くそうとした図が多い。決して微妙な線の角度を探るような「スケッチ」ではない。
●結論に至る筋道はあまり書かれていない。最終案に近いコンセプトや姿は早い段階で登場していることが多く、結論はノート以外の場で出ていると思われる。
●青森県立美術館竣工後には、曖昧な言い方だが、アート寄りの描写が増える。
●「動線体」から「モノ」へといった設計手法の変化の節目を示す言葉のようなものは見当たらない。
 こういった内容についてはこれからゆっくり分析すればよい。ただ、今の段階で私が直感的に確信したのは、104冊のノートが、青木の設計のキーワードである「ルールのオーバードライブ」、すなわち自分が決めた手法や約束事を過剰に運用するという作業の実験場だったのだろうということである。
 理工系分野の人は、新しい実験や計算を行なうたびにその結果を記録した「研究ノート」をつけることが多い。そこには個人的な嗜好を挟む余地はなく、仮説とその検証があるのみだ。青木のノートに記された言葉や図にはそれと同じような印象がある。
 言い換えれば、建築について何かが語られているのではなく、建築行為そのものがノートの中で行なわれているという感じなのだ。つまり本書は、建築を言葉と図で語った本ではなく、まさに建築で書いた本であり、比喩としてではなく、文字通り建築を言語化した本、建築を言語として使った本なのである。
 それはまた青木の設計方法ということもできる。ここで詳述する余裕はないが、彼は、建築外の概念を建築によって「表現」するのではなく、建築で建築を書いてきた。その方法と、常に解読作業の反復を読者に強いる本書の造りは全く同じ考え方に拠っている。
 つまり本書は、建築家・青木淳の20年間の建築的思考を、あるいはその結晶としての建築的知性のすべてを、嫉妬を覚えるほどの完全さで物質化したものなのである。このような本の出現は、建築界を超えた事件というべきだろう。
 本書は限定1000部で値段も決して安くはなく、いわゆるアート本という位置づけだ。しかし私は、この本は建築を学ぶ学生や若い設計者にこそ手にしてほしいと願っている。青木淳という建築家の20年間の思考と生き方は、決してお手本とはならないかもしれないけれど、これからの支えとなるに違いないからである。1冊目のノートの1行目に登場し、学部以来30数年つき合ってきた私が保証する。
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by yoshiaki-hanada | 2015-01-13 23:32 | ●花田の日記
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