「震災と建築家」についての断片的考察

東北の被災地を写した山岸剛さんの写真を見ていて、阪神大震災のとき、僕もこういう「廃墟」を見てうろたえたなあと思い出した。『群居』に書いた文章を再掲します。読み返すと、あの頃の気分が少し甦る。あれから20年。

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「震災と建築家」についての断片的考察
(『群居』39号、1995年)
神戸山手女子短期大学専任講師 花田佳明

[1]はじめに

 私が神戸の東灘区に住み、建築の設計やら批評やらに関わっているからでしょうか。編集部から「震災と建築家」という仮のタイトルを指定されて原稿依頼をいただきました。
 しかし、〈建築家〉とはいったい何をさしておられるのか、建築雑誌を賑わすいわゆる有名建築家のことなのか、構造や設備の専門家は含むのか、都市計画家(この言葉も曖昧ですが)はどうなのか、建設会社や組織事務所の設計者や技術者はどうなのか・・・、いくらでも疑問は湧き、さらには私自身は含まれるのか、あるいは本誌の性格から想像すればこのタイトルを思いつかれたコアメンバー(?)の方々もそういった分野の専門家が多いと思われますが、彼らはどうなのか、もしその方々も「建築家」ならなぜ御自分と震災との関係についてお書きにならないのか、自分の存在意義に関わるようなことを他人に書かせて平気なのか、等々実に不思議な感じがいたしました。「建築家」はいまだ『広辞苑』には載っていない言葉ですが、そのことの意味があらためてわかったような気もした次第です。
 それならば原稿依頼をお断わりすればよかったのですが、それもできなかった。現地にいる者としての役割というような気もしたからです。つまり「震災」の方は多少はわかるというわけです。
 そして考えてみると、この〈私のしったことではない〉という苛立ちと〈しかし・・としての役割でもあるなあ〉という溜息との共存が、1月17日以来の私の生活の一部にずっと潜んでいる感覚ではないかとも思い当たりました。とりあえずそのようなアンビバレンスの構造について考えてみようと思った次第です。

[2]〈建築家〉って何だ?
 被災直後、現地の瓦礫の山を見た建築関係者を襲った感覚は、ある種の無力感だったといえるだろう。壊れてしまった風景の中を歩き回ることに、たとえ家屋の診断ボランティアという名目があったにせよ、また調査・研究という錦の御旗を掲げていたにせよ、あるいは誰かの救援に向かうというヒロイズムを背負っていたにせよ、そのようなものは、自分がつい数日前まではその構築に関与していた環境の中の、柱一本すらもとに戻す力がないという事実の前では、吹き飛んでしまったのではないだろうか。
 「建築家というのは、地震時にはなんの役にも立たないと痛感した。倒壊現場で家を起こして人を助ける力もないし、倒れかけた家を直す技術も持っていない。情けなかった」(1)という述懐は、特に現地で暮らしていた〈建築家〉に共通するものだったといえるだろう。「消防士になろうかと真剣に考えている」(2)と書いた〈建築家〉まで出現した。
 もちろん〈建築家〉だっていつまでもおセンチな心理状態に甘んじていたわけではなく、さまざまな活動を展開してきた。しかしその質と量は十分ではない、と〈建築家〉を叱る発言も目についた。上記の「消防士」になりたいと書いた〈建築家〉は、「現地取材にやってきたある建築評論家」が、「リアリスティックな、状況認識とそれに対する断片的アイデアの説明に終始する私に、〈建築家らしいロマンティックな提案はないのか。アンドーさんなら、そういうことはいわない〉と煽るように訊ねた」という証言を残している(2)。また地元の「まちづくりプランナー」からは、「私は安藤忠雄さんに頼んでいるんですが、この3カ月間で住宅・都市整備公団にこんなものをと提案した建築家は、彼だけだそうです」(3)という状況批判や、「それをだれがやるかと言うと、建築設計をする人がやるのですよ。そういうマーケットがボンとあるのですから、〈営業もへったくれもない。責務として提案しろ〉ということです」(3)という激やらがとびだしたりもした。
 両者がともに「アンドーさん」の行動を〈建築家〉のひとつの範ととらえていることの面白さや、「マーケットがボンとある」という営業的認識と「責務として」の「提案」という正義論的アジテーションとの不思議な共存やらについては別途詳細に検討する必要があるとしても、ここには、今回の震災に対する〈建築家〉の行動を見るかぎりその職能を再定義する必要があり、そしてなにより〈建築家〉自身がそのことを再認識すべきだという考え方が含意されている。
 しかし、〈建築家〉とは何(様)なんだ?という問題は今に始まったことではない。社会との接点を失い自己満足的議論に終始していたことの弊害が今度の地震で明らかになったのではなく、既に自明のことであったそんな状況の必然的延長線上に今回の「震災と建築家」の問題も乗っているにすぎないのである。
 〈建築家〉の職能や姿勢について「震災」から新たに学ぶものが多くあるとは思えない。むしろ問題は、「建築評論家」や「まちづくりプランナー」を自称する人々が〈建築家〉を自らの外部にある存在として批判できるような社会の構造それじたいの方にあるのではないかと思う。なぜ〈建築家〉の登場を待つんだろう。「建築評論家」や「まちづくりプランナー」が設計をすればいいだけの話だ。本当にそれだけのことだ。
 重要なことは、〈建築家〉待望論や〈建築家〉批判などではない。境界線を引くという行為はそんな議論しか生みださない。このような言説が果たす役割があるとすれば、「建築評論家」としての目利きぶりや「まちづくりプランナー」の社会的地位向上の喧伝でしかないだろう。
 これまで求められてきたことは、そして今回の震災の中で改めて求められていることは、むしろそのような境界線を消滅させる作業なのではないか。行政から市民までのあいだに横たわる〈専門家〉という名の多くの閉じた領域を、もっとダイナミックに交錯させていくシステムの構築こそが必要なのではないか。〈ここから先は建築家の仕事〉という姿勢を肯定するならば、〈そこまでの仕事は行政のもの〉という線引きによって「まちづくりプランナー」の領域を行政が担うことだって可能だろう。私にはその方が好ましくさえ思える。あえて境界を引くならば、優秀な行政と、賢い市民と、市民と契約を交わした設計者がいさえすればよいのである。環境をつくりあげていく作業の中に境界線などあってはならない、という信念は論理的に保持されるべきだと思う。要は〈建築家〉の再定義の必要性などが〈問題〉となるような社会システムでは駄目だということではないだろうか。
 
[3]廃墟という鏡
 もし〈建築家〉に何かを反省させるとすれば、〈君たちには瓦礫の山が美しく見えたんじゃないのか〉と質問するほうが効果的だろう。
 木造住宅が倒壊した多くのエリアでは、概ねその解体作業が終わりつつある。そしてそのあとには広大な更地が広がり、雑草が生え、プレハブ小屋が建ち、住宅メーカーの縄張りがおこなわれている。早いところでは、外構は後回しで薄っぺらな住まいだけが完成したりもしている。もちろん復興の速度と内容は地域によってまちまちであり、基本的には〈何もない空間〉が広がっているという状態だ。
 そういう場所を歩いていると、自分の眼が、たとえば撤去されずに残されたコンクリート基礎やら家具の破片やらの、いわば〈廃墟の名残〉を探していることに気づく。地震以前の風景をしらないひとの目には〈昔からそうだった〉と映る可能性すらある更地の中に、わずかに残された〈廃墟の記憶〉を探そうとしてしまうのである。
 まだ解体されていない建物にでくわすこともある。調整がうまくいかないのだろうか、木造アパートが多い。壁土がなくなり、ばら板の壁がひからびた人骨のように見え、家具や食器や洗濯物がほこりをかぶっている。その〈無力な崩壊感〉があの頃の空気を思いださせてくれる。
 三宮のビル街を歩いていても同じような体験をする。解体の終わった跡地の上に、あるいは建物を覆う仮囲いの向こうに想起するのは、かつての健全な状態の建物ではなく、破壊された姿、廃墟となった姿の方なのである。
 そう。すでに何かを〈懐かしんでいる〉のである。加速度的に取り戻された日常の中で、あのときの〈廃墟〉を思いだすことの快感を、間違いなくあじわい始めている。
 これに似た感覚は、実は地震直後からあったような気がする。三宮の破壊された風景を最初に見たときの印象を、友人たちへの電子メールで「こんなに切ない思いとともに風景を眺めるのは始めてです」と、文字通りおセンチな言葉によって表現してしまったことがある。この言葉に対し〈ある懐かしさ〉を感じるのはいうまでもないこととしても、この表現の裏に、〈廃墟〉をそのような眼差しで見ることへの安住が隠れていたように思うのである。
 何日間も着たままの服装で、しかもときにヘルメットをかぶりマスクをし、さらにはカメラをもって歩いていたのである。いわば、完全に匿名の「眼」そのものになっていたといえるだろう。
 私がそこでやっていたことは、環境と自分との関係回復ではなかっただろうか。〈廃墟〉は確かに眼の前にあるのだが、〈廃墟〉になる前にはそこにいたに違いない自分自身が、その〈廃墟には〉いない。この不在感を埋めるために、つまり〈廃墟の中の〉自分という映像をつくるために、私は歩いていたのではないか。〈廃墟〉となることで風景は私を遠くへ突き放し、その恐怖感から逃れるように、私は環境をひたすら見た。そして、そこに平常時にはない強さで、自分自身の輪郭が浮かび上がってきた。〈廃墟〉になってみて初めて、環境が自己を映す鏡であることを、そしてその自己確認の手ごたえがもたらす快感のようなものを、私は感じていたのではないか。
 あまりにも〈建築家〉風の感傷的形而上学だろうか。私にはそうは思えない。もう少し〈形而下〉的現象を考えてみても、隣近所の人間関係の一時的復活や、街角の炊き出しの盛り上がりや、ボランティア活動の隆盛やらの背後には、同様の〈廃墟崇拝〉のようなものがあったような気がするからである。
 〈廃墟〉の手ごたえにまさる強度をもった〈鏡〉を、なぜ平常時の環境の中につくりだせてこなかったのか、今後の〈復興計画〉はそのような〈廃墟〉以上の強さをもっているのか、そしてその〈計画〉は〈廃墟〉の強さへの絶望感からひとびとを救出できるのか、そういう課題として、〈建築家〉は廃墟への眼差しを厳しく自己告発する必要があるだろう。その精度が悪ければ、〈最終戦争後の廃墟〉に可能性を見いだそうとしたあの宗教集団との違いは、ゼロになる。

[4]廃墟は本当に「開かれた」か
 このような〈廃墟を鏡とする〉眼差しの延長線上に、避難所やテント村に一時的に発生した「コミュニティ」から何かを学ぼうとする姿勢もあるように思われる。予想どおり、テント村の配置図おこしの作業もおこなわれた。その図面が、世界の周縁的集落調査とよく似た絵がらを見せてくれたことも、これまた予想どおりだった。
 たしかに被災後の生活空間の変容ぶりは魅力的な部分をもっていた。被害の少なかった私の場合でも、生活用水確保のために近くの川で水を汲み、マンション内の男手の少ない家庭へ配達をし、飲料水と食料の確保の方法を探し、傾斜地ゆえに周辺地盤を観察し、近所や学生からの相談で住宅診断に行き、避難所の知人に救援物資を届けたりもした。そういった初体験の行為群は、目標が明確な一種の役割行動として、私の中のヒロイズムをくすぐった。
 誤解を恐れずにいえば、被災地のあらゆる空間での行動の背後には、そのような感情があったと思うのである。そしてそれは、余震の恐怖との適度なブレンドを伴う、ある意味で心地よい空間だった。その空間について、私自身次のようなことを書いている(4)。
 
  しかし、生活が住まいの中だけでは成立せず外部へと拡散していく中で、自分の住む土地や建物そして隣人との間に、一時的にせよニヒリズムを超えた眼差しが生まれたことだけは確かなのである。外部にいる他者を支えることが自分を支えてもらうことにつながるという思い、といってもよい。私はそのような感覚が成立する場を、「開かれた」環境と呼びたいと思う。
  住まいという安定した場所を失い、避難所やテントの中に暮らし、大部分の日常生活が他者との支え合いの中に解消してしまった人々も、被災直後はともかく、その後の自立過程の中で同様の感覚を抱いたのではなかろうか。支援の不十分さ故に、「開かれた」環境が完全には発生しきれなかったとしてもである。また支える側、つまり外部に属するボランティアの人々も、住民と同じそんな空間に包まれる体験をしたのではないかと想像している。
  被災後、「街がやさしくなった」といった類の投書や報道をよく見聞きした。情緒的な部分は差し引くにしても、このような感想は、多くの人たちがこれまでにない環境と自己との双方向的な関係を実感したことの証拠ではないだろうか。


そして、そのような「開かれた」環境を体験した市民には、行政の復興計画案は受け入れられるはずがない。なぜならば

  「開かれた」環境を避難所やテントの中に自力で作り上げた実績をもち、その経験を通して、地域という小さな単位が保持してきた「開かれた」コミュニケーションの重要さを再確認したはず

の市民にとって、行政の復興計画案は「閉じた」環境でしかないからだ、と考察したのである。
 このようなストーリー立てはそれほど間違ったものだとは思ってないし、現実の復興計画の可能態のモデルのひとつを描いているとも考えている。ただ、ここで自省的にであれ指摘しておきたいことは、観察者および被観察者がこのような「開かれた」環境を見いだした眼差しとは、すでに述べたような〈廃墟を鏡として自己を映し見る〉視線だったのではないかということである。日常世界のなかに一時的に生じた歪みとしての小世界の中で、その時間的・空間的有限性を暗黙の前提とした「開かれ」方だったということである。だから、それは〈廃墟〉の撤去とともに消えてしまった。〈鏡〉がなければ何も映り込まないからである。
 「当たり前だ」という声が聞こえてきそうだ。「なんせ非常時だったから、みんな協力しただけだ」と。もちろんそれだけのことなのである。
 「開かれた環境」といった表現に自分でも懐疑的になってしまうのは、それが中途半端な「開かれ方」だったからだと思う。行政の無能に対する暴動があったわけでもなければ、首長のリコール運動が起こったわけでもない。ある意味で、被災地は異常な政治的平穏さの中にあったとすらいえる。それをこの国の国民性や阪神間の地域性による美談にしても仕方がない。むしろ、なぜそこまでしか〈開ききれなかった〉のか、これからでも〈開く〉必要があるのではないか、そうじゃないと〈廃墟を鏡として自己を映し見る〉という眼差しの魅惑に負けてしまうのではないか、といいたいだけなのである。
 「とりあえず廃墟から立ち上がろう」的な、文字通り〈廃墟を鏡〉とするシュプレヒコールによって無化される責任論と、正当化される情緒的な〈下町共同体論〉クリシェとに対し、〈建築家〉は今こそ明晰である必要がある。避難所やテント村の「コミュニティ」からは、そういった一時的共同体を市民がゼロから築き上げざるを得ない状況に陥ったとき「コミュニティ」についての研究者が果たせた指導力の小ささへの反省と、市民がそこで学んだものの大きさへの知的な理解を最後まで示し得なかった行政の無能さに対する批判とを引き出すだけで十分なのである。

[5]〈自責のジレンマ〉を越えて
 「何かやらなくてはと思うんだけど、現地にいないからうかつなことをいえない。何をしてほしいか教えてくれ」と、ある〈東京の建築家〉から尋ねられたことがある。きわめて良心的質問だと思った。と同時に、被災地と非被災地、あるいは被災者と非被災者との境界を引くことの困難と無意味さを改めて感じたりもした。
 結局は、数千人もの犠牲者の方々と生き残った者とのあいだ以外には、どのような空間的隔たりがあろうとも、震災に関する境界をお互いに引くべきではないだろうという話をした。「うかつなことをいえない」という思いは、あらゆる場所に存在し得るからだ。
 たしかに、複数の義務が課されたときに、それらは自分の中で加算されるべきだと感じる正義感のようなものを私たちはもっている。しかし同時に、義務とはその遂行可能性を前提にされるべきでもあるだろう。できもしないことに義務感を感じても仕方がない。ただ、その遂行可能性あるいは不可能性の判断は自分自身にまかされるわけだから、悩みが累乗的に増えはする。しかし、まずはそのような〈自責のジレンマ〉とでも呼ぶべきしんどさに慣れるしかないのである。その上で、どこまで効果的な案を発想できるかが勝負となる。
 そういう前提のもと、〈東京の建築家〉に次のような話をした。

   「プロジェクトは〈効果〉をもつ必要がある。それが量的に測れるべきかどうかは別としても、効果の有無あるいは大きさに対する私たちの実感は大切にする必要があるだろう。〈自責のジレンマ〉を自覚したうえでいうならば、〈建築家〉によって提案されたさまざまな仮設住宅プロジェクトの多くは、さほど〈効果的〉だったとは思えない。公共の仮設住宅における玄関や風呂の段差解消のために、大工さんが踏み段づくりをした行動の方が、残念ながらずっと〈効果的〉だった。
   仮設住宅に求められたものが、建設速度と土地と住宅としての仕様だったとすれば、少なくとも前二者に関するかぎりは〈建築家〉の出る幕はなかった。仕様に関しても、仮設住宅と本設住宅との違いは何かという意外に本質的な問題も隠れていて、〈踏み段〉止まりだったというのが現実ではないか。
   本設の住宅について仮設住宅での量的敗北を〈建築家〉があじわわないためには、たとえば住宅メーカーによって大量供給されようとしている住宅の、質的向上を企てるしかないのではないか。広い敷地の中にぽつんとプレハブが建つのなら、まだ許すことができる。なにせ〈農家型〉とでもいうべき建て方の〈伝統〉は守られているのだから。芦屋あたりのお屋敷が住宅メーカーの建物になっていくことを嘆く声は多いが、それがこの国のこの時代の文化なのだと思えば、シニカルな笑いくらいは浮かぼうというものだ。しかし冗談にもならないのは、10数坪の狭小敷地の場合。戦前からの長屋と最近のミニ開発との差こそあれ、今回破壊された住宅のうちのかなりの数はこのような土地の上に建っている。そこに〈農家型〉の構成の家が再び大量に建てられようとしているのである。この国の優れた都市型住居の伝統が、まったく継承されていかないのだ。この放任された無知の量的膨大さだけは許せない気がする。
   誰かそのことを叱れないのか。住宅メーカーのおエラい方々に御注進できる人はいないのか。あなた方は一体何をしてくれようとしているのか、と。せっかくの大量供給のチャンスなのである。それを良質な都市型住居建設の機会として、あるいは少なくとも都市型の暮らしのマナーをアピールする絶好の機会として利用しようという志をもった住宅メーカーはいないのか。何かしたいのなら、そんなメーカーを連れてきてくれ。」

 私自身、全壊した知人の家を一軒設計している。7軒並びの典型的ミニ開発。17坪の敷地である。そこで都市型住居のプロトタイプをめざしている。残り6軒は、「隣が○○ハウスだからうちは××住宅」という状態。とても入り込む余地はない。行政が用意した〈コンサルタント無料派遣つき協調建て替え制度〉など、こんな現実の前では〈制度〉と呼ぶ価値すらない。〈私の設計図を買ってください〉と書いた紙を首から下げて、駅前広場に立った方がまだマシかもしれないのである。せっかくの可能性が、あらゆる場所で摘み取られようとしている。
 「われわれの中には、自然発生的なものは、知的な伝統に組み入れられないという、それが一つの信念になっておりますね」(5)とは、鶴見俊輔が、戦後のヤミ市などにみられた「市民的不服従の論理」をいつの間にか忘れてしまったこの国のダメさ加減を嘆いた言葉である。今回の震災も、結局はそれと同じ道を歩んでいるのではないかという気がする。
 「バカな大人を相手にしても仕方ない。今回、一時的にせよ〈学校〉に行かない日常を体験し、地域社会に片足をつっこむ貴重な経験をした子供たちに期待しよう。彼らを土曜日の午後学校に訪ね、建築のもつ力や都市型の暮らしのマナーや環境を自分でつくる楽しさやらの本格的講義をしたい。そういった議論が、少なくともコンピューターゲームや塾での勉強程度には、十分刺激的で頭の使いがいのあるものだということを教えてやりたい」とは、〈東京の建築家〉に話したもうひとつのアイデアである。
 私たちは震災を通して反射的には多くのものを身につけた。それを、より自覚的な責任や行為へと持続的に変換していくシステム、そしてそのための場所、そういったものを何としても築きあげていく必要がある。

(1)関西建築家ボランティアで活躍する笹木篤氏の発言『日経アーキテクチュア』1995年6月5日号
(2)宮本佳明「月評」『住宅特集』1995年4月号
(3)『日経アーキテクチュア』1995年7月17日号の小林郁雄氏へのインタビュー
(4)「リレー寄稿 戦後近代建築をめぐって」『建設通信新聞』1995年3月10日・3月24日・4月7日
(5)鶴見俊輔「ヤミ市と市民的不服従」『鶴見俊輔著作集第5巻』(筑摩書房、1976年)
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by yoshiaki-hanada | 2015-01-11 20:37 | ●花田の日記
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