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「個室群住居が教えてくれたもの」(黒沢隆『個室群住居』住まい学大系088の栞)

個室群住居が教えてくれたもの
(黒沢隆『個室群住居』住まい学大系088の栞)
花田佳明

 私が黒沢隆の名前と個室群住居という考え方を知ったのは、大学にはいって2年目の年、まだ教養課程の学生で、ひたすら建築学科への進学を夢見ていた頃だった。建築雑誌のバックナンバーや建築書を漁り、雑学を仕入れることに夢中になっていた。
 正確な日付は記憶にないが、神田の古本屋街で蒐集に励んでいた100号までの『都市住宅』、および図書館で借りた三一書房の『現代日本建築家全集』第24巻が出会いの場であったことは間違いない。すぐに個室群住居という考え方の虜になり、友人たちとやっていた勉強会で紹介した憶えがある。今や本格派の社会学者として活躍するS君から、共同体論の面白さを教わった会である。私は、建築という手掛かりを介することで自分が世界や他者とつながる感覚について、そして、その感覚を得たいがために建築を学ぶのだといった青臭い決意について、詩人谷川俊太郎の作品や社会学者見田宗介の論考、そして黒沢の個室群住居をとりあげながらレポートした。さらにまた、教養課程の授業科目でもあった別のゼミでは、『現代日本建築家全集』に載っている「中川邸同居個室群」を参考に、生まれて初めてつくった建築模型をレポート代わりに提出したりもした。
 なぜ個室群住居にあれほど魅了されたのか。今思うと自分でも不思議なほどである。しかしまことに気恥ずかしい限りだが、そこに10代から20代へと移行する時期の、私なりの「青春」があったようにも思うのである。
 地方の高校を卒業し東京でのひとり暮らしを始めた私が必要としていたものは、さまざまな意味での他者との関係であり、それについての論理であった。しかもこの「関係」とは、新しい友人づくりから幼い恋愛感情まで、親への反抗から家族論まで、さらには都市や共同体についての一般的議論までを含む、何とも広大な地平に及ぶものなのであった。大学に入学したばかりの若者の、まさに鬱陶しい観念的青春の幕開けだったわけである。
 ひとが建築を志す理由にはさまざまあるだろうが、私にとってのそれは、造形への興味でもモノづくりへの憧れでもなく、この「他者との関係づくり」を可能にする媒体が自分にとっては建築しかないという確信なのであった。まことに飛躍した論理ではある。しかし私は、住宅やもっと大きな建築、あるいは都市を論じることによって、それぞれに関係する人々とつながり、より抽象的には「世界」と関わることができると本気で思っていた。それ以外の道はないと信じていたのである。
 正確にいえば、そのような言葉を話したり書いたりしながら自分をナビゲートすること自体に酔っていたということだろうが、いずれにしても、貧しい知識と経験だけを手掛かりにそんな観念の迷路を彷徨い始めた建築少年の目には、個室群住居という考え方が、世界と自己とをつなぐ建築的実践の稀有な実例として、あるいはそのような実践の可能性を示す数少ない証拠として、限りなく魅力的な姿に映ったのである。
 本書に収められた個室群住居に関する黒沢の文章を読み返していると、当時のそんな青臭い記憶が甦ってくる。以下、あの頃の熱狂を少し遠くから見直してみたいと思う。
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 黒沢隆という建築家の思考の跡を辿ろうとするとき、最も初期に書かれた「正系の挫折 I 現代住居の問題性」および「現代住居の問題点 2 家庭ホームの消滅」という二つの論文は、きわめて興味深いものだと思われる。これらが発表されたのは、1966年の『建築』5月号と9月号。黒沢は弱冠25歳、日大を卒業した後、東大の生田勉の研究室に出入りしていた頃である。前者は本書にも収録されている。まずはこの二つの論文のトレースから始めたい。
 「正系の挫折 I 現代住居の問題性」は、「1949年、それは異常な年であった」という印象的な言葉で始まっている。黒沢は、保守安定政権の成立、共産党の大躍進、下山・三鷹・松川事件の発生などを例に挙げながら、この年を日本の戦後の希望と不安とが多く交錯した一年として素描した後、「ミース・ファン・デア・ローエの『ファンスワース邸』が紹介されたのは異常な年1949年末の日本であった」と建築に議論を進めていく。ここで試みられているのは、彼に先行する世代の住宅に対する以下のような整理である。

(1)現在は、形や空間が機能とは無関係に与えられるユニバーサル・スペースの時代にある。
(2)丹下健三の自邸は、コアと居住空間を別の階にすることで、ユニバーサル・スペースの考え方をファンスワース邸以上に徹底させた住居である。
(3)しかし丹下邸さえも、可動間仕切りによって〈LR+ΣBR〉という使われ方をしている。つまり一室住居でさえ〈LR+ΣBR〉という一般解によって解かれている(LR=居間、BR=寝室)。
(4)ところで、BRの中には夫婦用の部屋と子供用の部屋があるはずであって、〈LR+ΣBR〉は〈LR+BR+Σ子供部屋〉と書かれるべきである。
(5)この図式を具体化したのが菊竹清訓の「スカイハウス」である。居間と夫婦の寝室を家具によって仕切り、子供部屋は必要に応じてピロティの下にぶら下げるという方法により、〈LR+BR+Σ子供部屋〉は〈(LR+BR)+Σ子供部屋〉に、すなわち〈夫婦の部屋+子供部屋〉にまで抽象化されている。ここでは、夫婦の一体性という近代家族の理念が、見事に空間化されているのである。
(6)さらに、太田邦夫の「山車の家」では、たとえば家の中を動き回る「山車」と呼ばれる装置を導入することによって、部屋の集合としてではなく個別の行為の集合としての住居が構想されている。つまりここでは、一室住居の無プラン性が徹底され、住様式すらが捨てられている。

そして黒沢は、丹下自邸のもつ特性に端を発するこういった一連の流れを日本の現代建築の「正系」と呼び、「スカイハウス」や「山車の家」という最終的な解がでているがゆえにその線上での今後の発展は期待できず、今は「ひとつの歴史的時代の終末」だと結論づけるのである。すなわち「正系の挫折」である。
 4頁ばかりの雑誌論文ということもあり、食い足りなさはある。また現在の私は、「山車の家」についての黒沢の評価に疑問を感じないわけではない。というのも、彼は「山車」を丹下的なメガストラクチャーと同一視している気配があるが、むしろ、行為がモノによってアフォードされているという視点に基づいた、空間の近代的単位化を脱しようとする先駆的事例に思えたりもするからだ。
 しかし、こと住居に関する限り、ユニバーサル・スペースと近代的家族観との関係を整理した試みとしては、そして(こんないい方は失礼かもしれないが)学部をでたばかりの若者の作業としては、相当に優秀かつ早熟な論考だといわざるを得ないだろう。
 そしてこの4ヶ月後に発表された「現代住居の問題点 2 家庭ホームの消滅」という論文において、「個室群住居」というアイディアは世の中にデビューする。ここでは、当時の女性の結婚観や職業観などの変化を統計的に示しつつ、「夫婦の一体性」という近代の倫理が女性を家庭に押し込めてきたことを前提に、以下のような議論が展開されている。

(1)女性の就労人口が増え共稼ぎ夫婦が増加していくことで、夫婦合わせれば社会的には2単位の生活が一般化し、夫婦の一体性という近代家族の特性は崩れていく。
(2)そして、近代社会で構成された〈社会−家庭−個人〉というヒエラルキーが、現代社会では〈社会−個人〉という直接的な関係に転化する。
(3)その結果、封建時代から近代への移行が「家(ルビ:いえ)」の否定であったように、近代から現代への移行は「家庭(ルビ:ホーム)」の否定とならねばならない。
(4)従って、近代住居は夫婦一組の抽象的な人間を仮定してその抽象的人間の生活に応じて機能単位で構成されてきたが、現代住居は家族の成員ひとりひとりの単位で構成される必要がある。
(5)その個人の単位とは、個室を意味する。
(6)ゆえに、現代住居の一般解は〈Σ個室〉である。この現代住居を個室群住居と呼ぶ。

かなり図式的な思考ではあるが、明快な推論である。
 本書にはこの1966年の「現代住居の問題点 2 家庭(ルビ:ホーム)の消滅」は収められておらず、1968年の「個室群住居とは何か」と1971年の「個室群住居の基礎知識」が個室群住居という言葉を使った初期の論文として再録されているが、それよりも早い時期から、というか黒沢のデビューと同時にこの言葉が登場していたという事実は忘れられるべきではないだろう。
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 黒沢の出発点に位置するこのような思考の道筋を改めて辿っていると、私は思わず「ふーっ」と溜息をつきたい気分になってくる。黒沢は、20代の若さでこのような見取り図を描いてしまったのである。その頃の彼の心情がどうだったかは全くわからないが、しかし私の眼には、「見えてしまった」という困惑に彼がとらわれてもおかしくないと思えるほど、それは完結したシナリオと映る。あるいは、そこから脱すること自体が即座に次の課題となるような鮮やかすぎる解答といってもよい。その証拠に、個室群住居というキーワードのもと、その後彼が書いていく文章の多くは、結局この2編の論文が明らかにした図式の反復なのである。しかしそのことは、彼の結論の単純さや新規のアイディアの欠如を意味するものではなく、むしろひとつの論理体系としての完備性を証明するものであることはいうまでもない。
 ここには、その後の彼の言説にも共通するいくつかの特徴を見いだすことができるだろう。一般解指向、歴史的必然性指向、帰納ではなく演繹好み、住宅平面分析時の眼差しの具体性、社会学好み等々である。しかしこのような特徴とは別に、私には、明晰さが抱えざるを得ない悲劇のようなもの、そしてその背後に見え隠れする甘酸っぱいセンチメンタリズムのようなものも見落としてはいけないように思えるのである。黒沢の論理の中にある、このウェットな部分とは何か。
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 一見したところ個人主義的色彩ばかりが目につく個室群住居というアイディアは、しかし一方で、他者とつながることに対する切ないほどの願望や幻想を隠しもった考え方であるように私には思われる。少なくとも私の熱狂を支えたのは、そういった共同幻想とのさらなる共同幻想だった。
 黒沢は、上記の「現代住居の問題点 2 家庭(ルビ:ホーム)の消滅」の中で、「個人」とは「自らを糊するに足る職業をもち、自分のことは黙って自分で処理し、他人を頼らず黙々とそして堂々と生きる」人間であり、彼らの集合体として「社会そのものが巨大な家族であるかのように構成されていくと思われる」と書いている。
 また、彼は同じ論文の中で、家庭の消滅にともない発生する「子供がいかに養育されるか」という問題にも言及し、女性の社会進出にともない、保育園、託児所、乳児院に子供をあずけたり「鍵っ子」が社会問題化している現実にふれながら、多くの人たちは「子供たちの不幸をなげくだろう」が、「家庭(ルビ:ホーム)というものが消滅すべき必然性をもつ以上」、「こうした児童養育のあり方の必然性とその正統性を認めざるをえないのではないだろうか。そして〈現代〉社会における児童養育の方向を、見定めなければならないと思われるのである」とも述べている。
 ここでは「子供の養育」の問題にしかふれられてないが、老人をはじめとするすべての社会的弱者に必要なさまざまな支援についても、同様の判断が可能だと思ってよいだろう。
 私なりに抽象化していえば、家庭に代表される共同体が個人の集合へと解体されると同時に、諸個人の活動を支える住居以外の施設の整備も進み、それまでの住居を含むさまざまなビルデイング・タイプ相互の境界が溶解したその果てに、新たな社会状況が生まれていくだろうという筋書きである。個人および各共同体のエゴイズムが解消し、その先に人間が相互に支え合うシステムのようなものが浮上すると考える社会観と要約してもよい。
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 唐突かもしれないが、冒頭に名前を挙げた社会学者見田宗介の言葉を引用したい。彼が真木悠介の筆名で未来構想の枠組みを描いた書物、そしてそれはまさに私の青春期の支えでもあった『人間解放の理論のために』(筑摩書房、1971年)という書物の中で、見田は次のような二つの方向を示している。

極限の未来において、一切の暴力や欺瞞による支配と抑圧を含まぬ世界というものが、もしも可能であるならば、それはただつぎの二つの方向においてのみ構想しうる。
 すなわち第一に、このような人間たちの〈関係の背反性〉という現実をまず永遠のものとみとめて、これを最も合理的な仕方で調整するシステムを、「有限者の共存の技術」として追求していく方向。そして第二に、このような諸個人の〈関係の背反性〉という現実の構造そのものを、根底から止揚することを追求する方向。
 第一の道を論理的につきつめてゆくと、相剋する無数のエゴの要求を、いわば超多元連立方程式による最適解として解いていこうとするものである。このような方向における理念的な社会のイメージを、ここでは〈最適社会〉とよぼう。
 これにたいして第二の道は、いわば「エゴイズム」としての人間のあり方そのものの止揚を志すものであり、このような方向における理念的な社会のイメージを、ここでは〈コミューン〉とよぼう。

この分類でいけば、黒沢がめざす社会とは、見田のいう意味においての「コミューン」といってよいのではないだろうか。見田はさらに二つの方向を要約し、「〈最適社会〉は、人間存在の個別性の契機を基軸とする型のユートピアであり、〈コミューン〉は人間存在の共同性の契機を基軸とする型のユートピアであるといえよう」と書いているが、まさに黒沢が、住居以外の建物に対して注ごうとした眼差しからは、後者の言葉が喚起する社会の姿が想像されるのである。
 もちろん黒沢の思考、あるいは私の「青臭い」黒沢解釈を批判することは容易だろう。たとえば、「黒沢のいうような個人はあくまでも理念型であって、そんな立派な志を持った個人など実在しない」とか、「現実の社会は『社会そのものが巨大な家族であるかのように』なんてなってないし、むしろワンルームマンションとして具体化した個室群住居の大群が社会を覆っているにすぎないではないか」とか、「個室群住居の存在を支える住居以外の施設の実現性について、個室群住居の提唱者は何らの責任も持ち得ないじゃないか」といった具合である。
 しかし、論理的な厳密さで見田が挿入したただし書きを借りるなら、黒沢が論じようとしたことは「極限の未来」における「もしも可能であるならば」という前提での方法論なのであって、この現実との関係における可能・不可能といった問題だけではないだろうと私は思うのである。そのことを論理の非現実性と指摘する向きもあるかもしれないが、逆にそれを強靱さと感じる立場もあるということである。
 つまり個室群住居は、単に個室あるいは住居だけを問題にしているのではなく、それらと相互補完的な関係にある他のビルディング・タイプの変化を前提にできるような「極限の未来」において、社会全体の仕組みまでをも逆照射する射程を示そうとした考え方だと思うのである。いいかえれば、黒沢が個室群住居という言葉で設計しようとしたものは、単に個室でも住居でもなく、個室群住居という考え方を可能ならしめる社会そのものなのであり、その一見して不可能かと思われる作業への意志を内包した潔さに、私は魅了されたと思うのである。
 そしてやがて、自分自身の直感がとらえた問題をまさに自分自身にとっての切実な唯一性としてとらえ、それへの解答にいたる回路を自分自身にとってのもうひとつの可能な現実として構成し、そしてその回路のどこかの部分を自分が建築化していくのだ、といった抽象的言辞が私の中ではある種のヒロイズムとともに唱えられていったのだが、それはもはや個室群住居からの影響というには申し訳ないほどの、他愛もない「青春」の産物である。
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 実をいうと、私が個室群住居という考え方に魅入られたもうひとつの理由がある。より正確には、本当の理由というべきかもしれない。それは「わたしの個室・ヒロコの個室」という計画である。黒沢とヒロコさんとの新居である。古い日本家屋を改造して個室を二つつくり、まさに個室群住居生活を実践しようとした計画である。私は、その片方の部屋を写した一枚の白黒写真にイカれてしまったのである。『都市住宅』1971年11月号「個の意識と個室の概念」では小さく、同誌1976年3月号「総特集|カタログ『都市住宅』3」では一頁大に掲載された、あの写真である。
 それは黒沢の部屋である。手前にベッドがひとつ見えて、シンプルなテーブルに椅子がふたつ。窓からはいる淡い光でZライトが滲んでいる。内開きのドアからも光がさしていて、平面図をみるとその先が縁側になっている。日曜大工ででも作ったかのような本箱があって、壁にはカレンダーがぶら下がっている。まったくどうということのない部屋なのだが、「青春」期の私はこれにまいってしまったのである。
 この、単に光の状態だけを表わしたかのような写真に自分が何を感じたのか、もはや正確には思い出せないが、しかし、そこにヒロコさんの影、すなわち黒沢の対幻想の相手の存在を読み取っていたことは確かだろう。廊下の向こうにはもうひとつのドアがあって、そこにヒロコさんの部屋がある。まるで二人の兄弟が勉強部屋をもらったかのようなこの空間で、男女の共同生活が一体どう営まれるのか、当時の私にうまく想像できていたとは思わないが、個室と個室のあいだに漂う境界線の不思議な感触だけは感じ取っていたように思う。個室が個室として閉じるのではなく、他者とつながることへの切ない願望を抱いて佇んでいる。そんな感じである。あるいは、この部屋が私自身の個室であり、ドアの向こうには暮らし始めたばかりのトーキョーの闇が広がっていて、さらにその先のどこかに自分自身の対幻想や共同幻想を夢見ていた、といったおセンチな描写をすべきかもしれない。いずれにしても、この一枚の写真に満ちた人恋し気な気配が、私の脳裏には焼きついてしまったのである。
by yoshiaki-hanada | 2014-06-09 21:18 | ●花田の日記
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