「闘う人」とその「後ろ姿」 追悼・鈴木博之先生

花田佳明(神戸芸術工科大学教授)/『日土小学校研究 02』(日本建築学会四国支部、2014年3月刊)所収

 鈴木博之先生が亡くなったという第一報が入ったのは2月6日の夕刻だった。日土小学校の保存再生活動をご一緒した愛媛の武智和臣さんからの電話連絡。自分の耳を疑った。その日は神戸芸工大の卒業制作展前日で、私は会場のひとつである原田の森ギャラリー(元の兵庫県立近代美術館。村野藤吾設計)で学生たちと設営作業を行なっていた。何かの間違いではないかと思い慌ててメールをチェックしたら、東大の建築史研究室から発信された「鈴木博之先生の訃報」が転送されていた。ほぼ展示作業が完了した美術館の中には学生たちの賑やかな声が響き、外は暗くなりかけていた。明日から始まる華やかな展覧会に向けざわついていた気持ちが一瞬にして静かになった。
 私は鈴木先生の研究室に所属したことはない。若き専任講師であった先生による西洋建築史の授業を東大の学部時代に受講し、あとはその著書と建築雑誌等での論稿の言葉を、天から降ってくる宝物と思い拾い集めてきただけである。そんな私が先生の追悼文を書いている。このような分不相応なことができるのも、すべて日土小学校の保存再生活動に鈴木先生が参加して下さったお陰である。
 そのプロセスの中で、私は幸運にもいくつかの鈴木先生像を目に焼きつける機会を得た。もちろん極めて個人的で一方的なものである。しかしそれらの像を重ねてみると、先生の穏やかで柔らかな物腰とは対照的な「闘う人」と、その背後にあって少し影のある「後ろ姿」とが浮かんできた。この2つの言葉を手がかりにして、断片的な記憶とそこから引き出した若干の推論を、出来の悪い学生による最後のレポートとして書き残したい。



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 「闘う人」と「後ろ姿」という言葉につながる私の最初の記憶は2005年12月10日に遡る。その日、日土小学校の保存を訴えていた愛媛の皆さんや私で、シンポジウム・「八幡浜の文化資産を考える—日土小学校の再生を目指して」を地元八幡浜で開催した。2004年8月の台風で日土小学校の屋根の一部が壊れ、保存活動は暗礁に乗り上げていた。その危機を脱するために、鈴木先生、吉村彰先生(東京電機大学)、腰原幹雄先生(東京大学)を招いたシンポジウムを開き、巻き返しを図ろうと考えたのだ。
 シンポジウムの日の午前中に日土小学校を皆で訪れた。鈴木先生にはそれまでもドコモモ関係でお目にかかってはいたはずだけど、いわば至近距離でお話しするのは初めてであり、私は学生に戻ったような緊張感に包まれていた。そして何より、鈴木先生の目に日土小学校がどう映るのかが心配でならず、まるで試験を受ける学生のような気分だった。先生は、その日初めて日土小学校をご覧になった。そして先生は、12月のひんやりとした教室や川沿いのテラスを口数少なく見つめるばかりで、一体どのような感想をもたれたのか、私には皆目見当がつかなかった。
 しかし、シンポジウムでの鈴木先生の発言は実に力強いものだった。先生は「ドコモモと日土小」というタイトルで講演され、重要文化財指定の可能性も暗に示しながら、日土小学校の文化的価値は世界レベルで認められた比類ないものであると明言して下さったのである。正直言って、それは私の予想を遥かに超える内容だった。保存すべきという主張や行動は我々に任せ、歴史家として、もう少し中立的な物言いをされるのかと思っていたからである。まして「重要文化財」という発言は全く予想しなかったもので、鈴木先生の口からその言葉が出た瞬間、愛媛大学の曲田清維先生と私は驚きのあまり見つめ合った。
 おそらく鈴木先生は、歴史家としての客観的な判断に立った上で、すでに保存活動の先頭で我々を牽引する体勢に入っておられたのだ。シンポジウムでの凄みある発言と日土小学校での静かな佇まいとの落差に、私は鈴木先生の中に住む「闘う人」とその「後ろ姿」を感じ取った。

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       日土小学校の教室で子供用の椅子に座る鈴木先生(2005年12月5日)

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       川に迫り出したテラスにて(2005年12月5日)

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       シンポジウムにて(2005年12月5日)

 その日から、日土小学校の保存再生活動は本格的に動き出した。
 鈴木先生とともに地元関係者のもとや文化庁を訪れ、日土小学校の保存の必要性を訴え、重要文化財指定を前提にした改修計画について打ち合わせを行なった。そして、いずれの折衝や議論の場においても、鈴木先生の明晰な発言と毅然とした態度、そして的確な判断や指示が私にはたいへん印象的だった。そこにはまさに「闘う人」がいた。それまでの日土小学校の保存活動を暢気な観光遊覧船に喩えるなら、鈴木先生の登場によって、それは正確なレーダーと強力な大砲を積んだ戦艦へと変身したのである。
 その一方で、「闘う人」の文字通りの「後ろ姿」を見たことも印象深い。いつのことだったか正確な記憶はないのだが、八幡浜で打ち合わせと懇親会が終わったあと、鈴木先生がひとりどこかへ消えたことがある。いささか心配しつつも「では」とお別れし、私たちはホテルに戻った。翌朝お尋ねしてみると、「ロン」というジャズバーに行っておられたとのことだった。何度も八幡浜に通っている日土小学校関係者の誰もが名前すら聞いたことのない店だった。
 次の八幡浜訪問時に皆で訪れてみた。民家の一部を改造した小さな酒場。入り口の壁には煉瓦が積まれ、小窓のついた木の扉を押すと薄暗い空間に大きなスピーカーからジャズが流れている。俗っぽい言い方だが、60年代という言葉をそのまま絵にしたような空間だった。その後、皆が必ず立ち寄るようになったことはいうまでもない。それにしても、たいへんなジャズファンとはいえ、鈴木先生は地方都市のあの小さな店にどうやってたどり着いたのか。答えは伺わないままになってしまった。いずれにしろ、昼間の闘いを終えたあとに鈴木先生が疲れを癒す場所を知ったことは、実に得難く密やかな経験だった。あの日私たちと別れひとりになった鈴木先生の「後ろ姿」は、ロンという具体的な行き先を知ったあと、「闘う人」とセットになり私の記憶にあらためて強く焼きついた。
 その後2006年3月に日土小学校を保存し改修することが決定され、2006年から2007年にかけて現地調査やそれに基づく設計を行ない、2009年9月に改修工事が完了した。その間の鈴木先生のご尽力はたいへんなものだった。関係者一同で東大の研究室に伺ったこともある。ゼミ室のような小さな部屋で机を囲み、鈴木研究室の学生になったような気分でご指導を受けた。工事現場にもいらっしゃり、施工上のことから工事報告書のまとめ方まで、細かくアドバイスをいただいた。そのたびに、夜は八幡浜の海の幸を皆で楽しみ、ロンにもお供した。

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       改修工事の現場をご覧になる鈴木先生(左端、2008年12月15日)

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 そんなふうに鈴木先生と接しているうち、だんだんと学生気分に戻って行ったのかもしれない。私は日土小学校の保存活動と並行して、その設計者である松村正恒についての博士論文を書かなくてはと思うようになっていた。私は1994年に初めて日土小学校などを見て以来、松村正恒に魅入られ色々な資料を集めてはいたものの、僅かな論稿を発表しただけに留まっていた。
 博士論文には主査となる指導教員が要る。それは鈴木先生にお願いするほかないと考えた。2007年4月27日、先生に八幡浜へ来ていただき市長さんとの面談が無事行なわれた。翌28日、日土小学校の保存活動をご一緒した和田耕一さんらが調査し、その後重要文化財となった久万高原町の岩屋寺の見学に向かう車中で、緊張しつつ、「ご相談が・・」と先生に切り出した途端、「論文のことですね」とお返事があり、すべてお見通しだったのかと驚いた。
 それから約1年半かけて執筆し、2008年10月、私は無事に博士論文を東大に提出した。その間、鈴木先生から直接ご指導を受けた折り、「博士論文と本や雑誌原稿との違いがわかりますか」と質問を受けた。答えに困っていると、「博士論文には文字数の制限がありません。存分に書いて下さい」とおっしゃった。この言葉は、何編かの審査付き論文を束ねるのではなく、いわゆる「論文博士」として書き下ろしで博士論文をまとめようとしていた私にとってこの上ない励みとなり、自分なりに書いて書いて書きまくった。「書きたいことを好きなだけ書け。それが自由ということだ」。私は鈴木先生がそうおっしゃっていると理解した。そしてそこに、言葉を武器にして「闘う人」としての鈴木先生の決意と、その武器に注がれる先生のクールな眼差しとしての「後ろ姿」を再び感じ取ったのである。

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 日土小学校が甦ったあと、その保存再生活動は各方面から高い評価を得た。そのひとつが、2012年の「日本建築学会賞(業績)」と「ワールド・モニュメント財団/ノール モダニズム賞」の受賞である。そして鈴木先生が亡くなられた今、私はそれぞれの賞に対する先生のあるご判断をたいへん興味深く思い出す。
 建築学会賞に挑戦することは愛媛の皆さんと私で決めた。しかし応募に際しては申請者を余り多くできないという条件があり、そのことを鈴木先生にご相談したところ、即座に「私は推薦者にまわります」というお返事が返って来た。また、ワールド・モニュメント財団の賞への応募においても推薦者が必要だったが、このときは鈴木先生ご自身から、先生も応募者に加わり推薦者は別に立てるという案が提示された。もちろん誰からも異論はなく、前者についてはこれまで保存活動を担ってきたメンバーへのご配慮であり、後者については御自身のお名前によってチームの認知度を上げ世界へアピールするための作戦だと理解した。いずれも嬉しい結果となり、私は鈴木先生のリアルな判断の中に、やはり「闘う人」を見たのであった。
 2012年11月には、「ワールド・モニュメント財団/ノール モダニズム賞」の授賞式に出席するため、関係者一同でニューヨークへ行った。鈴木先生は杜幾子夫人と一日遅れで11月12日に到着された。そして、その夜にユニバーシティ・クラブで開かれたワールド・モニュメント財団メンバーとの夕食会から合流され、私は数日間を鈴木先生と一緒にニューヨークで過ごすという僥倖に恵まれた。
 思い出は多いが、その中でも、11月14日の夜、ヴィレッジのイタリアンレストランに行ったときのことが忘れられない。食事が一段落したとき、鈴木先生が「明日が新国立競技場のコンペの発表なんだよ」と口を開かれた。そして「もういいと思うから」ということで「ザハが当選だよ」とおっしゃったのだ。私は思わず「妹島案かと予想してました」と的外れな返事をしたのであったが、さらに「審査委員長は安藤さんで鈴木先生も審査員ですよねえ・・」とか言っているうちに、鈴木先生に現代建築についてのお考えを色々とお聞きすることになったのである。話題の中心は、磯崎新と安藤忠雄に対する評価であった。「東大に安藤忠雄を招聘したのは鈴木先生なんですか」という私の俗っぽい質問に始まり、直接の弟子ではない気安さと海外にいるという気のゆるみから、あれやこれやお尋ねした。
 鈴木先生からのお返事で一番印象的だったのは、磯崎新の建築論集の話であった。先生は私に「磯崎さんの建築論集が岩波から出るの知ってる?」と尋ねられ、各巻の解説文を磯崎さんは鈴木先生たちの世代ではなくずっと若い世代の書き手に任せたこと、その代わり推薦文を鈴木先生は書くことになったこと(鈴木先生以外では柄谷行人と鈴木忠志)、そしてそこに書かれた内容を教えて下さった。その全文は、「辰野金吾は日本人による西洋建築の移入を行い、伊東忠太は世界地理的視野で日本建築の定位をし、丹下健三は日本的超越性をもつモダニズムを実現し、安藤忠雄はコンクリート建築の日本化/国際化を果たした。彼らのあいだに、磯崎新は位置を占め得るか。答えはこの建築論集にある。それを決め、位置づけるのは、読者たちだ。磯崎新はわれわれを挑発する。」というものだ。辰野金吾、伊東忠太、丹下健三、安藤忠雄を国際的に位置づけた上で、磯崎新に対する評価は保留したともとれる鈴木先生の文章に、私は正直言って驚いた。自分の中の磯崎・安藤像とは全く逆の位置づけだったからである。そのあたりを正直に申し上げあれこれ質問してみたが、鈴木先生からは「歴史家の立場からは、磯崎さんがしていることは世界の多くの人には理解されず、安藤さんはその逆と考えられるので、こういう判断になる」というようなことをおっしゃった。
 これ以上は記憶も曖昧なので止めておくが、日土小学校の保存運動の中で感じてきたものよりは一段と硬質な「闘う人」を、そのとき私は鈴木先生の中に見たのであった。
 ところでニューヨークでの鈴木先生といえば、なぜかまさにその「後ろ姿」を見た記憶が多い。あちこち見学して歩く際、鈴木先生はいつもすたすたと前を歩いておられた。かつての貨物鉄道跡地を公園へと再開発したハイラインに行ったときも、少し首を傾けながら飄々と前を歩いて行かれ、私たちはそのあとをぞろぞろと追いかけた。「闘う人」と「後ろ姿」。私の中での鈴木先生のイメージは定着した。

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       ニューヨークのハイラインを歩く鈴木先生(2012年11月14日)

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 きわめて断片的な思い出である。こんなレポートでは鈴木先生からは不合格判定をくらうに違いない。ならば落第ついでにもう少しだけ余計なことを書いておきたい。
 私が読んだ鈴木先生の文章の中で、その真意を計りかね戸惑ったものがひとつある。『現代建築の軌跡』(新建築1995年12月臨時増刊)に掲載された「戦後建築と大学闘争」という文章だ。この増刊号は、雑誌『新建築』の創刊70周年を記念し、1年ごとに節を分けて『新建築』全巻の目次や主要記事を記録するとともに、多くの研究者による様々なテーマについての論稿を載せた500頁を超える大部の冊子である。私も何編かの文章を寄稿した。
 鈴木先生の「戦後建築と大学闘争」は、1968年の節の最後に載っている。全共闘世代の思想と行動を肯定的に総括し、それらに建築の世界における近代批判の動きを重ねた分析である。私が驚いたのはその最後の部分である。少し長いが以下に書き写す。

建築は、ポストモダンという言葉によって、近代批判の最前線に躍り出たかのごとき印象を与えたが、実は苦戦中なのかも知れない。K.フランプトンのいう「批判的地域主義」や、ほかの人が注目する「ゲニウス・ロキ(地霊)」などの概念は、建築の成立する場を問い直すものであり、近代批判をようやく具体的に実践するようになった立場なのである。こうした立場を表明する思想家たちの多くは、実は世界的にみて全共闘世代なのである。ここで筆者の立場を明らかにしてしまえば、全共闘世代に当たる芸術家、思想家、研究者たちは、今、世界的に共通の原体験をもつもの同志の連帯を感じている。これからの思想は、これらの世代がさらに組み替えていくであろう。この世代は、大学にあっては、いちおうの安定的身分を得てしまった。そこで「いいたいことをいい始めるぞ」という気運が、世界を横断的に漂っている。アメリカではすでにそうした気分を「テニュアード・ラディカル(大学における終身雇用権を得てしまった者たちが、急進的になること)」と、幾分自嘲気味に呼び始めているくらいなのだから。

 いわゆる全共闘世代が時代の主導権をとうとう握ったぞという勝利宣言ともとれる内容であり、私は余りにもストレートな鈴木先生の筆致に驚いた。「筆者の立場を明らかにしてしまえば」と書いておられるわけだから、鈴木先生自らも「全共闘世代」であり、「大学にあっては、いちおうの安定的な身分を得てしま」い、「いいたいことをいい始め」た「テニュアード・ラディカル」だと認めた文章といえるだろう。実際、鈴木先生は1990年に東大教授となり、この文章が公刊された1997年に、おそらくは先生の強い推挙により安藤忠雄を東大教授に招聘するという異色の人事を実現させた。
 私が鈴木先生と日土小学校の保存再生活動をご一緒することになったのは、この文章を読んでから8年後だ。そして私は、その活動の様々な局面を通して先生の中に「闘う人」と「後ろ姿」という言葉で示される芯のようなものを感じ始めた頃、この文章を思い出し、そこに見出していた戸惑いに対し、全共闘運動というリアルな輪郭が与えられたように思ったのだ。
 ところで、東大建築学科の学生は、私より少し前の世代から、「二人の鈴木先生」の元で学んでいる。建築計画の鈴木成文先生と、建築史の鈴木博之先生である。お二人を区別するために、学生であった私たちは、「せいぶん(さん)」「ひろゆきさん」と呼び分けていた(以下適宜、本稿でも「成文先生」「博之先生」と記す)。それぞれ教授と専任講師になられたばかりの頃である。設計好きの学生にとって「せいぶん(さん)」はやや鬱陶しく、「ひろゆきさん」は憧れの存在だった。そしてこの「二人の鈴木先生」の間には、「大学側 対 全共闘」と「建築計画 対 建築史」という2つの対立項が最後まで消えなかった、と私は思っている。
 そのことを最初に感じたのは、1979年、私が学部の3年生と4年生の間の春休みに実施された建築学科教員と学生による関西の古建築見学旅行のときである。宿での夕食が終わり、教員と学生による宴会が始まった。畳の上に酒とつまみを置き車座になった飲み会である。成文先生から「間もなく退官される芦原義信先生のあとには誰を呼んでほしいか」という質問が出され、私たち学生があれこれ建築家の名前を挙げて盛り上がった頃、博之先生が成文先生に、建築学科棟内のどこかの部屋名を挙げながら、「あそこは東大闘争のときに占拠した状態が続いているはずだ」というようなことをおっしゃったのだ。ただし残念ながら、成文先生からのお返事も含め、これ以上の記憶がない。私が学生の頃はまだキャンパスに立て看があり、昼休みには演説も行なわれていた。しかし東大闘争は本の中の世界であった。そんな私にとって、かつて敵と味方に別れていたはずのお二人のやり取りは生々しく、安田講堂落城から10年が過ぎても当事者の中には根深く引きずっているものがあるのだなあと感慨に浸った。
 次はずっと時代が下る。私は1997年から神戸芸工大の教員となり、この大学を作るために東大退官後に赴任されていた鈴木成文先生とおつき合いするようになった。そしてある夜、鈴木成文先生と学科教員で飲んだときに東大闘争の話になり、先生が全共闘を詠んだ漢詩があってしかも覚えているとおっしゃるので、ぜひにとお願いして書いていただいた。作者は「猫奴」とあり、それは「ニャロメ」と読むのだと教わった。

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       鈴木成文先生が再現された全共闘を詠んだ漢詩「共闘移」

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       鈴木博之先生の、おそらくは最後の著書となった『現代の名匠』(建築画報社)

 そしてこの漢詩が、鈴木博之先生のおそらく生前最後の仕事となった建築界の21人の先達へのインタビュー集・『現代の名匠』(建築画報社、2014年2月28日発行、同年1月付けの鈴木先生の「あとがき」もある)の中に登場していることを、私はその編集者から教わった。それは鈴木成文先生へのインタビュー(2009年6月5日に東京の鈴木成文邸で実施)の章で、まさに話題が東大闘争(成文先生は「東大騒動」と呼ぶ)に及んだとき、博之先生から「その頃先生が漢詩を書かれたのです。見事な漢詩で。あれはどこかにおありですか?」と尋ねたところ、「ありますよ(笑)。いつか皆で飲んだときに改めて書いたものだけれども。」と成文先生が応じ、博之先生に見せているのだ(神戸芸工大で保管しているのとは別のもの)。
 『現代の名匠』に示されたこの漢詩の読み下し文は以下の通りだ。

   共闘移る  猫奴(ニャロメ)

 天は昏(くら)く地は黒く 共闘移る

 師は驚き友は激(いか)り 寝派(シンパ)は随(したが)う

 青論(せいろん)七條は化して土と為(な)る

 甲竿(こうかん)徒(いたずら)に懸(かか)かる 吁(ああ)悲しむ可(べ)し

 そしてこの漢詩を巡り、二人は以下のようなやり取りをした(名前の書き方は筆者による)。

【成文】ありますよ(笑)。いつか皆で飲んだときに改めて書いたものだけれども。
【博之】本当ですか(笑)。共闘移る、猫奴。そうそう、これですね。
【成文】安田講堂攻防戦の後で、みんなが警察に捕らえられて、その後、あれほど熱心に授業粉砕を叫んでいた共闘シンパの連中がね、のこのこと授業に顔を出したのを悲しんで書いたのです。
【博之】これがトイレに貼ってあった記憶があります。僕は闘争が終わってしまって、のこのこと授業に顔を出した口だったから(笑)。
【成文】いや、共闘が使っていた部屋の壁に大書してあったのを私が採取したのです。誰が書いたのかは分かりませんが。寝派っていうのは“ネトライキ”派と共闘シンパをかけているわけね(笑)。青論というのは・・・
【博之】7項目要求というのがあって。共闘会議の錦の御旗でしたね。
【成文】そうそう(笑)。甲竿というのはヘルメットとゲバ棒ですね。
【博之】これは実に名作ですよ。本当に記録しておきたいな。
【成文】実はね、これは全くの創作ではないのですよ。唐詩選の中の誰だったかの詩をもじったものなのです。こんなもの一からはできませんよ(笑)。
【博之】そうだったですか。でもすごいものですよ。猫奴と書いてあったのですが、すぐに作者が先生だというのは分かりましたね(笑)。

 そして鈴木博之先生は、対談の最後に付された「知とユーモアの伝統」という文章を、東大闘争の頃を振り返りつつ、「しかしながら、その厳しい時期にも鈴木先生には諧謔とユーモアが健在だった。「猫奴」と署名された漢詩は、わたくしたち世代には、格好の話題となり、「敵ながら天晴れ」といった奇妙な共感が漂った。その気分も、今回、変わらずに味わえて楽しかった」と締めくくっている。
 神戸芸工大の特別講義に鈴木博之先生をお招きしたことがある。2009年12月9日、タイトルは「工業から芸術へ 近代和風庭園の魅力 -小川治兵衛の世界-」であった。その夜は三宮で成文先生も交えた飲み会があった。建築計画の大御所・青木正夫先生の『中廊下の住宅 明治大正昭和の暮らしを間取りに読む』(住まい学大系102、住まいの図書館出版局、2009年)が話題となり、中廊下形式の出自や建築計画と建築史の関係について「二人の鈴木先生」は少し言い合い、歴史の優位性を博之先生は譲らなかった。「猫奴」の話も蒸し返したような気がするが、もはや記憶は朧である。

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 これ以上は、そのうち鈴木博之先生にお尋ねしようと思っていたことへのご回答がなければ書き進めない。せっかく身近に接するチャンスがあったのにその作業を果たすことができず、今はただ後悔するばかりである。
 その限界は承知の上で、以上の思い出に対し、私は次のような勝手な解釈を与えている。

(1)鈴木博之先生の中には、おそらく東大闘争をひとつの要因として、既成の体制に反発しそれを改変したいという強い思いが最後まであった。
(2)一方、これもおそらくは東大闘争をひとつの要因として、鈴木先生の世界を見る眼差しはとてもニヒルな(あるいは絶望とか挫折感に満ちたといってもよいだろう)ものだった。
(3)そして、この2つの事実が複雑に絡まり合う中で、鈴木先生は、あるときは経済原理優先の社会に対するラディカリズムの実践として建築保存運動に深く関わり、またあるときは安藤忠雄人事や新国立競技場コンペ問題に象徴されるようなかたちで、既成の社会システムに対するラディカリズムの実践としての権力闘争を担う役割を演じられた。

 この3つの解釈のうち、(1)(2)は鈴木先生の内面に関わるものであり、あの時代を直接知らない私としては想像以上の何ものでもない。一方(3)は多少とも実感を伴ったものであり、そこに書いた2つの側面の間に横たわる大きな溝が私には不思議でならなかった。しかしそのギャップこそが、一般的な学者や建築史家という言葉のイメージを打ち破る鈴木先生の最大の魅力であったことは間違いない。その片方の面だけを取り出したり利用したりすることは、鈴木先生に対する冒涜以外の何ものでもないだろう。

 以上を日土小学校の保存再活動を通して私が目撃した「闘う人」とその「後ろ姿」に関するレポートの結論として鈴木先生に提出したい。先生から教わったものの大きさに比べると余りにも拙い内容である。間違いなく不合格点をいただくだろうが、もはや追試を受ける機会もなくなった。もちろん建築史学上の大きなお仕事についての評価は私の任を遥かに超える。
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by yoshiaki-hanada | 2014-05-26 02:10 | ●花田の日記
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