都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-

『建築と社会』2006年4月号に書いた「都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-」という文章をアップしておく。ツイッターで紹介した「都市という罠」と関連づけて読んでいただけると嬉しいので。これも目にとまりにくい雑誌でしょうし。
 曖昧という批判を覚悟で言えば、金沢21世紀美術館も「外部」に頼ることのない「内部の最大化」による優れた建築ではないかというわけです。

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都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-

神戸芸術工科大学
デザイン学部 環境・建築デザイン学科
教授 花田佳明

 都市史や都市社会学の書物を繙くまでもなく、都市という言葉は、その前に種々の接頭語がつくことで、中世都市、植民都市、田園都市、理想都市、情報都市、世界都市など多種多様なヴァリアントに変身する。それらの共通部分としての都市一般を規定することの難しさは容易に想像できるだろう。
 しかし、高層ビルが建ち並ぶオフィス街の風景から、猥雑な歓楽街や荒涼とした埋め立て地、さらには詩や小説や映像などが喚起するイメージを思い起こせば起こすほど、都市という言葉に拠らずしては手にすることができない何かが自分の中にあることも確かな事実だ。私にはその一般化など到底無理だが、幸い、編集委員会からの依頼文には「私にとっての都市の魅力」を論じろとある。そこで以下、金沢を巡る2つの話題を提供し、都市という言葉に対する若干の個人的考察をおこないたい。

金沢21世紀美術館と「金沢」
 昨年の冬、雪の舞う金沢を訪れ、妹島和世と西沢立衛が設計した金沢21世紀美術館を見学した。それは、美術館を訪れてこれほど楽しんだのも、また現代の公共建築を訪れてこれほど幸福な気持ちになったのも初めてといいたくなるほど印象深い体験だった。
 ご存知の通り、この建物の構成は、大きさや仕様の異なる直方体の展示室を距離を置いて配置し、それらを円形のガラス面で包み込み、全体にフラットな屋根を架けたものだ。外周に沿ったドーナツ状の空間が無料のロビーで、そこから内側の有料展示ゾーンにはいっていく。
 展示室どうしの隙間が通路になっているが、それは網の目のようになっており、経路選択の幅が広い。次はどこへ行くかという意志決定や、ここはどこかという位置確認を迫られる。案内図を手にしていても、迷ったり展示を見落としたりすることもあり、順路に沿って鑑賞する従来の美術館とは異なる行動や感情が誘発される。それが実に新鮮な体験だった。
 さて、この隙間を都市の街路に、その空間体験を都市における逍遙体験になぞらえることは容易なことだ。「都市のように建築をつくる」という常套句も思い出す。しかしそれ以上に私が驚いたのは、金沢の他の場所を歩くとき、金沢21世紀美術館での体験が私の中で繰り返し甦ったということなのである。
 近江町市場の賑やかな商店をひやかし、ひがし茶屋町周辺の細い路地を彷徨い、犀川のほとりの静かな河原にたたずみ、泉鏡花記念館で幻想的な小説の筋を思い出し、そして五木寛之も通ったという喫茶店ローレンスで60年代の雰囲気を追体験しているとき、金沢21世紀美術館の空間が私の頭の中に幾度も現れた。そしてそのつど、自分のいる場所が、金沢21世紀美術館の空間や、開館記念「21世紀の出会い」展の展示作品を通して夢想した何ごとかとつながっていくような感覚に包まれたのだ。それは実に心地よい体験だった。

つながる時空間
 意識の中にそのような接続感を生んだ要因として、まずは金沢21世紀美術館の物理的・空間的特性があげられるだろう。展示室と通路の関係が建築物と道路の関係に似ていること、外周すべてが透明なガラスであるために建物内部の構成が外へ展開していく感じが増幅されること、金沢市の中心部というロケーションが市内の他地域との関係を強く感じさせることなどである。
 さらにこの建物が美術館であり、そこでの展示作品や活動が、そもそも「いま・ここ」ではない時代や場所とのつながりを連想させる機能をもっている点が重要であることはいうまでもない。
 これらに加え、私は、先にあげた金沢市内の別の場所も、物理的・空間的・機能的に、何がしか金沢21世紀美術館と同じような特性をもっており、その構造的類似性によって、離ればなれの場所が私の頭の中でつながったのだろうと想像した。いずれの場所も、路地や迷路といった言葉を連想させる空間性をもっているし、交易、商売、文化などの領域での活動を通して外部世界とつながっていることは明らかだ。
 そして私の中では、こういう感覚と「都市」という言葉とが結びついた。つまり私は、「都市のように」つくられた建築の内部で「都市」を感じたのではなく、その外部において、「都市」という言葉へとつながる感覚を味わったのだ。
 他の時空間への接続感が「都市」という言葉をなぜ引き寄せるのかは説明できない。それこそ「私にとっての」意味しかもたないのかもしれない。しかし結論を先にいえば、私は、そのような現象こそが「都市」という言葉のあらわすものではないかと思うのだ。

もうひとつの「金沢」
 もうひとつの金沢の話。そこに滞在している間中、思い出していた小説がある。吉田健一の『金沢』だ(1)。主人公と金沢の骨董屋との交流を独特の文体で描いた一種のユートピア小説である。それは、次のような文章によって金沢という空間への侵入を開始する。

これは加賀の金沢である(S1)。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの町を廻って展開することになるようなので初めにそのことを断って置かなくてはならない(S2)。併しそれで兼六公園とか誰と誰の出身地とかいうことを考えることもなくて町を流れている犀川と浅野川の二つの川、それに挟まれていて又二つの谷間に分けられてもいるこの町という一つの丘陵地帯、又それを縫っている無数の路次というものが想像出来ればそれでことは足りる(S3)。これは昔風でも所謂、現代的でもなくてただ人間がそこに住んで来たから今も人間が住んでいる建物が並ぶ場所でそれ故に他の方々そうした場所を思わせることからそっちに話が飛ぶことがあるかも知れない(S4)。そのことを一々言う必要もなさそうなのはどこへ飛んで行こうと話は結局はこの町に戻って来る筈だからであるのみならず或る町にいることで人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない(S5)。我々がヘブリデス諸島を見るのは他所に寝ていての夢の中である(S6)。(S1からS6の記号は引用者記入)

 さまざまな時空間が交錯する不思議な印象の文章である。そのメカニズムは、たとえば次のように説明できるだろう。(2)
 まず、S1によって小説の舞台が金沢(=W1)だと指定される(以下、Siによって指定された場所が保証する世界をWiと書く)。
 しかし、S2に進むやすぐに、そのことは柔らかく否定され、W1を包含するより広い世界(=W2)への展開可能性が示唆される。
 さらに、S3で舞台は金沢に戻る気配を示しつつ、しかし、「二つの川」「二つの谷間」「無数の路次」という一般化した要素によって場所が規定されており、W1よりは限定の緩やかな世界(=W3)へと拡張される。
 S4では、広い世界との接続を暗示しつつ、しかも、「昔風でも所謂、現代的でもなくて」と時制の曖昧化もおこなわれた世界(=W4)が示される。
 つまり、W1 →W2→W3→W4と、世界が空間的・時間的に拡張されていく。
ところがS5では、「この町に戻る」とW4からW1への世界の縮小が宣言されたかと思うと、逆に、「人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない」とW1からW4への世界の拡張が表現され、W1からW4までを含み、しかもそれらの順序関係を不問にする上位の世界(=W5)が示される。
 そして最後のS6では、金沢という具体的な場所から始まったW1からW5までの世界の振幅全体を、より大きな「夢の中の世界」に包み込んで終わるのである。
 この導入部は、『金沢』という小説全体の構造を実に上手く暗示している。詳しくは全体を読んでいただくしかないが、次々と大きさの異なる世界を重ね合わせ、仮構の世界が築き上げられていく。個々の世界だけでは意味をなさない。かといって、それらの集合によって明確な全体が構成されるわけでもない。あくまでも、世界間での移動や他の世界との接続が問題にされているのである。
 講談社文芸文庫版の解説で、四方田犬彦は、「優れた文学作品はその中頃のどこかにみずからの雛型を隠しているものである。『金沢』を特徴づけているのはそのどの部分をとり出してもそこに全体が反映されているような、自足した同一律である」と書いているが、Wi間に生まれた関係は、まさに『金沢』という「全体」との「自足した同一律」をもつ「部分」だといえるだろう。

部分と全体
 さて、金沢21世紀美術館によってつながった時空間と、『金沢』におけるWiを対応させて考えるなら、金沢21世紀美術館が生みだしたネットワークと『金沢』という小説の構造は似ているということができるだろう。その特徴を強引に以下のように一般化したい。

 ・全体像は明示されない。
 ・部分は詳細に把握できる。
 ・部分には相互につながっていく仕組みがある。
 ・部分の集合は部分と似た構造をもつ。
 ・どの部分がつながっていくか、どんな速度でつながっていくか等は解釈者によって変化するが、一定の条件を満たすとき、特徴的なネットワークが生みだされる。

 このような状況に出会うとき、私の中に「都市」という言葉が浮かんでくる。内部空間か外部空間か、どんな規模か、3次元の空間か、言葉や映像で描かれた作品かといったことは関係ない。「特徴的なネットワーク」という曖昧な表現が問題をスタート地点に戻す感じはあるが、それこそが「都市」という言葉の「私にとっての魅力」であり、さらにいえば、他者とのあいだに期待するコミュニケーションについての私の価値観でもある。
 部分と全体が似た構造をもちながらつながっていく感じは、町家が集合して都市を形成している姿が具体的でわかりやすい。大通りから路地にはいり土間に入っていくときの、あるいはその逆方向でのスムースな相転移感とでもいう感覚だ。それが途切れたところで「都市」が終わる。
 また、「いま、ここ」でない時空との接続のためには、当然のことながら、空間の中に「歴史」が存在していることが不可欠だ。その場所に過去の手がかりがあれば、人はそれを経由して他の世界へジャンプできる。

「都市」という言葉の罠
 上記のような接続感を生む具体的な例を挙げ始めればきりがない。アルド・ロッシの建築、そのテキスト、イタリアの山岳都市、東京の木造アパートにはさまれた路地、ジョセフ・コーネルの箱の作品、伊達得夫の詩人たちとの交友録『ユリイカ抄』に登場する小さな空間、町家の薄暗い奥座敷、オランダの都市をつなぐグリーンハート、インターネットによるスモールワールド・ネットワーク…、と書けば書くほど「私にとっての」という話になって、当然のことながら恥ずかしくなる。
 逆に、「私にとっての都市」ではないものを記す方が良いかもしれない。
 たとえば、建築家は、外部に対して閉じた表情の住宅デザインを説明するとき、「都市」という言葉を乱発する。具体的な周辺環境から抽象的な社会状況までを一括りにして「都市」と呼び、それにマイナスの評価を与えることで、自身の設計した住宅の窓の少ない外観や中庭型の平面計画を正当化する。「都市」という言葉を仮想の敵と位置づけ、それから身を守るというイメージを導くわけだ。
 あるいは、「都市再生」とか「都市再開発」といった語法は、「都市」という言葉を無定義のまま使うことで、何を再生し何を再開発するのかという行為の対象や、さらには行為の主体までを隠蔽する。「再生」の対象としての「都市」と「再開発」の対象としての「都市」とはいったい何が違うのだろう。そんなことすらわからない。ここでは「都市」が都合の良い味方となる。
 こういった事例に共通するのは、「都市」という言葉によって、曖昧な主語や目的語としての「全体」が仮定されている点だ。しかし実際にはそのような「全体」は存在しない。そこに「都市」という言葉の危険な罠があると私は思う。
 存在するのは「都市」的な「部分」だけなのだ。それらは3次元の空間として具体化したり、言葉によるテキストであったり、さまざまな姿をとるだろう。しかし、それらが「いま、ここ」以外の時空間と接続していく力をもつ限り、「都市」は、無限の、しかも虚構のテキストとして人々の中に生成し続けるだろう。私たちはそのような「都市」だけを認めるべきなのだ。


(1)吉田健一『金沢』(河出書房、1973年)、あるいは、吉田健一『金沢・酒宴』(講談社文芸文庫、1990年)。
(2)拙稿「アンリアル・シティ─テキストの虚構性について」『建築文化』(1983年4月号)で同様の分析をおこなったことをお断りしておく。
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by yoshiaki-hanada | 2012-01-07 15:52 | ●花田の日記
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