『設計の設計』の藤村龍至さんの文章について

『設計の設計』(INAX出版)の中の藤村龍至さんの文章中に私のブログへの言及があることに気づき購入した。
私のブログが取り上げられているのは、「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節(143〜149頁)の中の「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」という部分だ。一読し気になった点が少しあるので書いておきたい。いずれもその内容ではなく、本づくりを巡る初歩的作業と判断に関することばかりだ。

(1)事実誤認
149頁★4に私がアトリエを主宰していると書いてあるが私はそのようなことはしていない。著者あるいは編集者は確認作業をおこなったのだろうか。

(2)奇妙な日本語
「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」の冒頭(143頁)に「花田は・・・批判を述べて下さっています」とあるが、「花田」という敬称を略した表記と「下さる」という敬語の組み合わせは奇妙な日本語である。同様の表現は149頁の★4・★6にもある(「花田は・・・もっておられ」「花田は・・・くださっています」)。単なる日本語の間違いとはいえ、書かれた本人としては気持ちが悪い。
そもそもこのような文章において敬語表現を用いないことは常識だろう。実際、この節における濱野智史氏と松川昌平氏についての言及では、「濱野は・・・と指摘した上で、・・・と言います」とか「松川昌平は・・・として批判する」といったように一般的表記になっている。校正作業の中で、著者も編集者もこの奇妙な日本語に疑問を感じなかったのだろうか。

(3)ウェブサイトに書いた文章へ言及することがもつ問題への配慮の欠如
藤村氏が言及しているのは私が自分のブログに書いた文章である。私が勤務する神戸芸術工科大学でおこなわれた彼の講演会の前後に、ブログで藤村氏の文章を分析したものだ。そこからいくつかのフレーズが引用され藤村氏が反論等をおこなっている。
たしかにURLが明記してあるので読者は私の文章を読むことはできる。しかしこうやって引用されてみると、わざわざこのURLをパソコンに打ち込み私の文章を読む人がどれほどいるだろうかと考え込まざるをえない。
もちろん、書物からの引用であっても読者が原典を見るかどうかわからないという意味では同じである。だから私が気にするのはそのことではない。
「10+1」のウェブサイトに掲載されていたときなら、私のブログのURLにはリンクが張られクリックするだけで読むことができた。したがって、議論も一定のバランスの中で成立していただろう。しかしURLを示す記号は書籍化された途端にリンクが切れ、ただの文字になってしまう。その際に生じるアクセスへの意志と機会そして情報量の圧倒的な減少についての配慮が全くないことが気になるのだ。原文の一部掲載等、いろいろな工夫があったはずだ。ウェブサイトの文章を書籍へと固定化する際に生じる問題について、著者と編集者は何かを考えたのだろうか。
ちなみに、松川氏については本書の中に収められた文章への言及だが、濱野氏についてはウェブサイト掲載の文章への言及であり、私と同じ問題がある。

(4)そもそもなぜ「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節が必要なのか
藤村さんの言う「超線形設計プロセス」について私がブロブで指摘した内容は、本書に書かれた彼の「超線形設計プロセス」に関する文章においては言及も反映もされていない。ならばどうして「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」という項をわざわざ別に設ける必要があったのだろう。採用に値しない内容だと判断した言説なら無視すればよいだけのことである。学会等の投稿論文査読において「条件付き採用」とか「要再査読」になったのとはわけが違う。どのような論理的欠陥を指摘されようとも、著者が正しいと思う主張を書けばよいだけのことだ。濱野氏と松川氏からの指摘についても同様の扱いがなされている。したがって、「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節をわざわざ設けた著者と編集者の考え方が私には理解できない。

繰り返すが、以上指摘したことはすべて、書かれた文章の内容ではなく、本づくりにおける初歩的作業と判断に関する問題ばかりだ。余計なひと言になるが、藤村さんと編集者は、この文章に関する限りもう少し丁寧な仕事をすべきだったと私は思う。「内容」についての感想は、藤村さんが言及した私の以下の2つのブログ記事ですでに述べたことから特段の変化はない。お読みいただければ幸いです。

勉強会で考えたこと(2010年7月4日)
その後考えたこと(2010年7月9日)
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by yoshiaki-hanada | 2011-10-01 15:52 | ●花田の日記
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