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110915 立松久昌さんのこと

コンフォルト編集長の多田君枝さんが、9月14日が立松久昌さんの命日だったとツイートされている
情けないことに僕はすっかり忘れており、思わずリツイートした次第。
さらに多田さんは、立松さんが編集した伊藤ていじの『建築家・休兵衛』のことに触れている
「下地がないと読みづらいかもしれないけれど、私はあの本、大好きなのでした。伊藤ていじ先生の文章、読み終えてしまうのがもったいないほどです」と。
そうか、立松さんといえば多田さんはこの本を挙げるのか。
実は僕にとってもこれはとても思い出深い本なのだった。

立松さんの名前を知らない人も多いだろう。
1931年生まれ。早稲田大学文学部を出て彰国社へ入社。その後『住宅建築』の創刊に参加し、編集長を長くつとめた方である。
伝説の編集者のひとりといってよいだろう。

僕は2度しかお話ししたことがない。
今考えると後悔だらけだ。
最初は2001年の秋。
僕の研究室出身の波多野章子さんは現在『住宅建築』編集部で活躍しているが、当時その入社の可能性について同誌と関係の深いある建築家の方に聞いたところ、「立松さんに話しておいたから」とおっしゃるので打診の電話を入れたのである。
波多野さんが修士2年の秋。いっしょに中国地方へ木造郵便局探しの旅に出ていて、山口県から電話した。
いきなり「そんな話聞いてねえなあ」とべらんめい調で言われあせったが、「そんなはずはないですから」と僕は必死に食い下がった。そして、波多野さんは立松さんが指定した新宿の「昼でも飲める店」で一対一の面接を受けることになり、どういうわけか(いや、当然のことながら、笑)合格した。

実はその前から、神戸芸工大で鈴木成文先生から立松さんの名前は聞いていた。
お二人は大の親友なのである。
自分で書くのは恥ずかしいが、「立松さんが花田さんの文章をほめてるよ」というような話を、鈴木先生からときどきうかがっていたのだ。

だからいちどお目にかからねばと思ってはいたが、別のルートから「とても怖い人だ」という噂も聞こえてきて、気の弱い僕はなかなか連絡を入れられず、上記の電話が初めて立松さんの声を聞く機会になったのだ。

実際にお目にかかったのはその少しあとの2001年12月。
住宅建築編集部の忘年会に初めて参加したのである。
両国のちゃんこ屋の2階。波多野さんも一緒だった。
その日の午後、まだ表参道にあったコンフォルト編集部に行き、そのまま多田さんと豊永さんに連れて行かれたということだったかもしれない。

そこで初めて立松さんに挨拶した。
初対面にもかかわらず優しくお相手して下さり、『住宅建築』に集ういろいろな建築家の方に紹介された。そして最後に「これの書評を書け」と『建築家・休兵衛』を渡されたのだ。
発行日は2001年12月25日。まさにできたてほやほやの本だった。

その頃『住宅建築』には「私の本棚から」という見開き2頁のコーナーがあり、そこに載せるからということだった。
僕も1997年2月号で「松村建築を知るために」と題して松村正恒関連の本について書いていたので多少要領がわかり、嬉しさもありで快諾した。

ところが帰りの新幹線の中で読み始めても、なんとも頭にはいらない。
多田さんは「下地がないと読みづらいかもしれないけれど」と書いているが、とにかく「困ったなあ、えらいこと引き受けてしまったなあ」というのが正直な気持ちだった。

それでも何とか書き上げ、2002年7月号に掲載された。
もう何も思い出せないが、年末に頼まれて掲載が翌年の7月号だから、よほど苦労したのだろう。
「合格」だったのかどうかもよくわからない。
手元には傍線や疑問符をいっぱい書き込んだ『建築家・休兵衛』が残っているだけである。

そして立松さんは、翌2003年の9月14日に亡くなった。
彼が愛した母校・麻布学園の講堂で開かれたお別れの会に出席した。
きちんとお話をうかがっておくべきだったという思いは、1年後にいただいた『追悼 立松久昌』という冊子でほんの少し解消したが、いうまでもなく後悔の方が何倍も大きい。

恥を忍んで立松さんからの宿題への答案を貼っておきます。

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人を語って建築を論ず/『住宅建築』2002年7月号
神戸芸術工科大学助教授 花田佳明

 伊藤ていじ著『建築家・休兵衛』を私の本棚から取り出し、御紹介したいと思います。本書は、飛騨高山の吉島家7代目・休兵衛こと吉島忠男さんについての物語です。と書くと、まだお読みになってない方で、吉島家住宅も吉島忠男さんの作品も、そして著者の伊藤ていじさんのことも、さらには「建築Library」というシリーズをもよく御存知の皆さんなら、それらが組み合わさって生まれた本書に対し、あらかじめひとつのイメージを抱かれるのではないでしょうか。つまり、思わず姿勢を正したくなるような厳格な建築家の物語を。少なくとも私はそんな予想のもとで読み始めました。しかし、最初の頁からその思い込みは打ち砕かれ、意外な展開に驚きながら途中で引き返す手だてもなく、そのまま蟻地獄の中に落ちていったという次第です。
 私は何に戸惑ってしまったのか。それは、伊藤ていじという名代の建築史家が描く吉島忠男という建築家の特異な(と私には思えた)姿と、そして、伊藤ていじが吉島忠男に注ぐ眼差しの尋常ならざる(と私には思えた)熱さなのだと思います。言いかえれば、建築を論じることを放棄したのかと思うほど人を語ることに情熱を注いだ本書を前に、それでよいのだろうか、いやそれもありかもしれないと、自分の中の根っこのひとつが揺さぶられてしまったということだろうと思うのです。
               □
 とにもかくにも、私は吉島忠男さんがこういう方だとは想像だにしませんでした。何しろ驚いてしまいました。「こういう」とはいかにも曖昧で失礼な書き方ですが、読者としては本書が唯一の手がかりです。伊藤さんの言葉を借りるなら、吉島さんは「生まれてこのかた天動説の人で、他人は自分のまわりを廻っていると信じている」人物ということになる。
 日本大学の卒業設計はたいへんな物量と内容の出来なのに、自分が納得できるまで手を入れ続け、締め切りを過ぎても提出しない。卒業後勤めた丹下事務所では、「大将」として振る舞いすぎて周囲との関係がうまくいかず、勝手に事務所を飛び出してしまう。伊藤さんが吉島家住宅の維持を応援するためにと思って紹介した8枚程度の原稿書き仕事に、吉島さんは「明日の世界における建築創造」なる大論文を勝手に書いて喜んでいる。せっかく依頼された住宅設計も、予算やスケジュールを守らない。大きな借金を抱えていても欲しいものは買ってしまう。そして、気を揉み、後始末に走るのはいつも伊藤さん。
 詳しくは本書を読んでいただくしかありません。書かれているエピソードへの解釈もさまざまでしょう。本書の記述だけで吉島さんの人柄を判断できるはずもありません。しかし、少なくとも本書において伊藤さんが描いた人物像は、私が想像している一般的な建築設計者の姿とはかけ離れたものでした。むしろ、太宰治、田中英光、檀一雄、中村うさぎなんて名前を連想したことを白状します。つまり、生来的なある弱さを(意識的かどうかは別にしても)表現の武器にした作家たちです。いろいろな考え方はあるでしょうが、そのような方法によって獲得された作家性と建築とを結びつけず、あるいは、少なくとも結びつけたくないと思って生きて来たつもりの私としては、吉島さんの奔放さにも、そしてそんな彼につきあう伊藤さんの忍耐力にも、新鮮な驚きと激しい当惑とを感じたという次第でした。
 このような、吉島さんに対する私の驚きや当惑に拍車をかけたのが、本書で採用されたふたつの記述スタイルです。
 ひとつは、年長者が年下の、いわば弟子とも呼べる人物の人生を描いたという手法です。本書によれば、伊藤さんと吉島さんの出会いは1955年。伊藤さんが二川幸夫氏らと民家の調査・撮影に飛び回っていた頃だと思われます。伊藤さんは30代前半、吉島さんは高校1年生の若さです。それ以来、師弟関係ともいえる長いつきあいが続いてきた。
 したがって、その顛末を描いた本書は吉島さんの伝記だといってよいでしょう。しかし伝記といえば、一般には弟子が先生のことを書く、あるいは若い研究者が年長の歴史的人物のことを書くというのが相場です。いずれにせよ、そこでの視線は下から上へ向かっている。
 ところが、本書ではその関係が完全に逆転しているのです。つまり、師匠が弟子の人生を描いている。そういうことは、夭折した弟子を悲しむ弔辞くらいしか私には思いつかない。ボードレールとランボーの関係を連想しもしましたが、それはまあ悪い冗談にしかなりません。多少の例外があるとすれば、その家族が書いたような場合でしょうか。少し似ているなと思い出したのは、高橋たか子が亡夫・高橋和巳のことを書いた『高橋和巳の思い出』(構想社、1977年)という書物です。帯に「哀しい人」と書かれていたことを覚えています。文学のことと自分のことしか考えていない(と妻には思えた)和巳の日常生活を赤裸々に描き、その和巳を「哀しい人」と呼びつつも、しかしその才能を神格化し彼から離れることができなかった妻・たか子によるこの伝記に、批判も含めてさまざまな反響があったことは御記憶の方も多いでしょう。本書の不思議さに悩むあまりの愚行とお許しいただきたいのですが、高橋和巳=「哀しい人」=吉島さん、高橋たか子=伊藤さんという図式を連想して楽しみました。
 しかし、その場合ですら視線はいわば水平にしか走らない。上から下へと向かう視線によって書かれた本書が、きわめて異色の伝記だということは明らかでしょう。そのようなスタイルをとったことのなかに、吉島さんに対する伊藤さんの思いの強さが象徴的に表われていると思います。
 もうひとつは文体です。本書は、一種の私信のような、あるいは語りのような調子をもった文体で書かれている。伊藤さんの独白あり、伊藤さんと吉島さんの会話あり、過去の出来事を地の文とした回想ありといった具合です。ときには、いつのまにかカギカッコなしで、地の文全部が伊藤さんから吉島さんへの語りかけになったところまでありました。まさに、自由自在で名調子の語り口です。
 それは、決して論文の文体ではありません。つまり、ここにある言葉は、対象を深く解析し何らかの仮説を実証するような力はもっていない。本書をいくら読んでも吉島さんという建築家像が一意的に定義されるようなことは起こらない。また、批評の文体でもないでしょう。本書が、吉島さんという建築家や彼をめぐるさまざまな出来事に何らかの評価を与えるために書かれたとは考え難い。
 むしろ、伊藤さんはそれらの文体を捨てることで、何かを書くために考えるという思考のスタイルをも同時に放棄し、そのかわり、何かを考えるために語ろうとして、あるいは迷うために語ろうとして本書のスタイルを選んだといえるのではないでしょうか。本書の物語的な、あるいは口語調の文体からは、橋本治や山形浩生の仕事へとまたもや突拍子もない連想をしたのですが、それは、言葉の内容よりもむしろ形式がもつ破壊力に何かを賭ける心意気を共通して感じたからに他なりません。
 では、伊藤さんは本書によって何を考えようとしたのか。私たちは本書からいったい何を読みとればよいのでしょう。
 あとがきのなかで伊藤さんは、「『いま』この本をなぜ書くのか」を説明しています。その「理由はいたってかんたん」であって、「ひとつは、私は吉島さんの一家の人たちが好きなのである。/他のひとつは、義理だ」とあります。「義理」とは、もちろん7代目休兵衛・吉島忠男さんに対するものではありません。その父である先代の6代目休兵衛・重平さんに対する思いです。伊藤さんは、かつて重平さんが、「ありがとうございます。私の家の事をよく言って下さって」と「着物姿で正座をし、扇子をおかれておっしゃったあの作法を忘れてはいない」と書いています。その「さしずめ戦国武将なら命をかけて誓っているのと」同じような姿に心打たれたわけですね。
 したがって、伊藤さんには、先代から家と息子を託されたというような思いもあったに違いない。伝統という重みを背負い込んでしまった吉島家の人々の、深い苦悩を描きたいとも考えられたことでしょう。あるいは、歴史家と文化財、歴史家と建築家との新しい関係を示したかったのかもしれません。さらにいえば、吉島さんや吉島家と深い絆で結ばれてしまった伊藤さんにとって、それらを対象化する行為はもはや原理的に成立せず、吉島さんの伝記は、結局のところ伊藤さん自身の自伝(の一部)を語る作業だったと解釈できるようにも思います。そして、本書はそれらのことを実に巧みに成し遂げた。人を語った建築書という、希有な領域の可能性を示すことにも成功した。
               □
 しかし、です。こうやっていろいろ考えてきても、やはり冒頭に書いた戸惑いは私の中から消えないのですね。人を語ることと建築を論じることとの関係です。本書の中で、伊藤さんは吉島さんの設計した建築については多くをふれてはおられない。もちろんいくつかのエピソードは書かれているし、畑亮氏らによる美しい写真も添えられています。しかし、エピソードはあくまで完成までの人間関係の顛末記であり、逆に、写真は人のいない見慣れた竣工写真ばかりです。つまり、人を語るという手法をとった興味深い本書の中で、建築はいささか脇に追いやられているような感じがします。目的が違うよといわれるかもしれません。しかし、人と建築とはいわば車の両輪です。本書の意味は、建築の世界において人について語られることが少なかったことへの痛烈な批判でもあるでしょうが、そこに建築が登場しないなら相変わらずの一輪走行。片手落ち状態は同じなのではないでしょうか。その不安定さが本書に対する唯一最大の不満なのです。
 伊藤さんの数多い著作のうち、本書を読みながら思い出したのが、『現代建築愚作論』(彰国社、1961年)と『重源』(新潮社、1994年)です。『現代建築愚作論』の著者は「八田利也」という名前ですが、伊藤ていじ・磯崎新・川上秀光さんたちの共同のペンネームであることは改めて説明するまでもないでしょう。40年前の書物とはいえ、現代建築および現代建築家への辛辣な批判の書として、その価値は全く衰えてないといえるでしょう。また、『重源』については私のような歴史音痴に解説などできません。東大寺の再興に尽くした人物の物語。小説のような構成が話題になったことは記憶に新しいところです。
 変な連想ばかりしていますが、本書は、「八田利也」魂を芯にもち『重源』の語り口を纏って生まれた子供ではないかと思いました。だとすれば、と勝手な前提のもとで考えますが、『現代建築愚作論』において反語的に描かれた本来的な建築家像(の一端)を、伊藤さんは吉島さんに見い出しているということでしょうか。そして、重源においてそうだったように、吉島さんを語ることが「人生においては何が本当に重要なのか、その意味を考えさせてくれる」(『重源』まえがき)ということなのでしょうか。また、本書のあとがきで伊藤さんは、「何よりも僕は、『追っかけ』は趣味ではない。そういう人については、書きたいという連中が、この世にはたくさんいる」と述べたうえで、吉島さんの本を書く決意と意義とを御本人に伝えていますが、吉島さんが「追っかけ」の対象ではない理由は何なのでしょうか。さらにもうひとつ思い出すのは、『GA JAPAN』での連載「口説・日本建築史」の初回です(『GA JAPAN』N0.41)。それは、「残念なことであるが、現代建築家の中でも模倣し、てんとして恥じない人がいる。多くは常習者である。しかもそういうのが、国の建物にもあれば、民間の建物にもある」といった、日本の現代建築への厳しい批判からスタートしている。まさに「八田利也」魂だなあと感じ入ったことでしたが、そのような評価において、本書で試みられた人への問いはどう扱われるべきなのでしょうか。人を語るように建築を語ることは可能だといえるのでしょうか。
 本書の頁を繰るたびにそういった愚問がわきあがり、やはり刺激的な書物なのだと感じ入ります。そして、こんな堂々巡りのつぶやきが生む空気の揺れは、あの高山の蔵の中の吉島さんにも伝わるんだという奇妙な連帯を感じながら、本書をひとまず本棚に戻そうと思います。
by yoshiaki-hanada | 2011-09-15 20:59 | ●花田の日記
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