110703 白井晟一展とシンポジウム

7月2日(土)は、京都工芸繊維大学の白井晟一展とシンポジムに行ってきた。それらの詳しいレポートはどなたかにお任せするとして、自分用にメモしておきたいのは、刻印したような精緻な実施設計図を見、パネリストの発言を聞いているうちに僕の中に込み上げてきた妄想についてである。

自分が多少詳しく知っている数少ないことに引き寄せた語り口の退屈さはわかったうえでと前置きはしたいのだが、白井晟一と松村正恒の人生が意外に重なって見えたという話である。

どういうことかといえば、
(1)1960年代前半くらいまでの白井の仕事[秋ノ宮村役場・松井田町役場等の秋田県内の小規模公共建築、試作小住宅・増田夫妻のアトリエ等の木造小住宅]と、松村正恒の八幡浜市役所での仕事(1947〜1960年)はある類似性をもつ。
(2)1963年以降の、親和銀行東京支店・同大波止支店・同本店・松濤美術館・石水館などの重厚な白井の一群の建物と、1960年に独立したあとの松村作品はある類似性をもつ。

(1)において両者を結ぶのは、民主的な新しい社会を作ろうとした戦後の地方自治体あるいは首長の見識の空間化ということである。
(2)において両者を結ぶのは、公共建築における(1)の実験的実践が終わったあと、民間の建物を設計するようになって陥った建築家のニヒリズムあるいはデカダンスとでも呼ぶべき状態である。

いずれもなかなか理解していただけないだろう。
とくに(2)は。
規模も意匠もコストも違いすぎる。

ただ、松村が「民間の建物では冒険ができない」と言って使い慣れたヴォキャブラリーで市中の匿名の建築といった風情のものを作り続けたことと、白井が大きな建築的テーマの具体化というよりは、自分の好みのヴォキャブラリーによって、明確な言葉では表現し難い意匠の建物を作り続けたことに、建築家の後半の人生におけるひとつの似た心情の反映を感じ取ってしまったというわけだ。

言い換えるなら、磯崎さんは白井のデザインをマニエリスティックと位置づけたが、むしろアノニマスというべきではないかということである。

名付けられないアノニマスな建築のために、深く精密に、しかし一種のオートマティズムの中でおこなわれた設計。

アフォリズム的語り口と書に対する偏愛ぶりも似ているだろう。
つまり、建築ではないそれらの道具によって、世界を丸ごと捉えようとする姿勢の類似性だ。
そしてその世界理解を、(たとえば磯崎さんのようには)建築へと直截的に投影することをしなかった点においても、である。

建築的ヴォキャブラリーの違いは仕方がない。
(これこそあやふやな話であるが)白井はヨーロッパの伝統的・古典的建築から自分のテイストを独学で築き、松村はモダニズム建築を素直に学習した。
しかしそういったヴォキャブラリー自体は大きな問題ではなかったのではないか。

松村は白井より8歳ほど若いが、ともに大正デモクラシーの洗礼を受け、日本の戦前期の右傾化を目撃した。
そのような背景のもと、白井と松村が戦後社会を歩んだ姿勢や思い描いた社会像に、いささかの類似性が生まれたのもありえない話ではないのではないか。
そのような方向から白井を考え直すと、少し違ったものが見えるのではないか。

こんなことを考えたのも、松村が、宮内嘉久が企画編集し白井も参加した『風声』や『燎』といった、僕にはやや大仰に思えた同人誌に加わっていたことに少し違和感を覚えていたからである。
しかしそこには、戦争を挟んで生きたどうし、何らかの空気のようなものを共有する気分があったのかもしれない。

こんなアバウトなことを考えてみると、僕の中では、ひとつの疑問が少し解消したという話である。

もう少し勉強してみます。
[PR]
by yoshiaki-hanada | 2011-07-04 17:02 | ●花田の日記
<< 110707 『建築家・松村正... 110625 石本喜久治設計/松橋邸 >>