110621(金)長谷川豪さんのレクチャー

6月21日(火)18時から、今年度のトークセッションの1回目として、建築家・長谷川豪さんの講演会を開催した。お話を聞くのは初めてだったが、もちろん作品は雑誌でよく知っている。興味津々、待ちに待ったレクチャーであった。

長谷川さんのお話は、作風に違わずきわめて論理的に進んでいった。しかも、理屈が走り過ぎることなく、モノの状態や空間の質感、そして周囲の環境との関係に対するこだわりの強さが伝わってきた。それらがあるがゆえにあの空間ができているのだとよくわかる。なるほどなあと感心のし通し。

会場から、「狛江の住宅」の階段の上りはじめの壁が曲面になっている理由を問う質問が出た。
それに対し、「上階のスラブで頭を打たないようにすると階段が少し奥にいき、「廊下」状の空間になる。一方、この住宅は3つの同じ大きさの空間(2つの内部空間と1つの外部テラス)だけで成り立たせたかった。そこで、「廊下」という余分な空間は消す必要がある。そのために、両袖の壁を部屋側に開く曲面にし、「廊下」という呼び名がつかないようにした」と実に実に明快な答え。まさに言語的な論理性とモノや空間へのこだわりの両立である。

長谷川さんは、すべての作品をこんな感じで説明した。

お話を聞いてよくわかったのは、長谷川さんが設計の操作対象としているものの特徴だ。
教員のひとりが、「身体感覚と建築言語」という講演タイトルに軽い違和感を感じるという発言をした。「身体感覚と建築言語」ではなく「身体感覚と建築」でいいじゃないかとか、「建築言語」という言葉の使い方が妙じゃないかというわけだ(←以上、僕なりの意訳です)。
それは僕も同感で、つまり、普通に「建築言語」といえば、壁や柱といった「モノ」とその間の「関係」をいう。そしてそれらを直接の操作対象とすることが含意される。しかし長谷川さんが操っているのは、そういったわかりやすい単位ではなく、それらが合わさって構成される何らかの上位の空間単位やモノの集合の属性であると思われるのだ。
つまり、メタレベルのというか、あるいは別カテゴリーのというべきか、ともかく最小単位としてのモノそれ自体ではないのである。
たとえば「狛江の住宅」においては、地面からわずか1メートル上空に「屋上」がある。つまり、「屋上」という概念を残しつつ、その地面からの距離という属性の部分だけが縮められる。
「森のピロティ」においては、4階建てでもおかしくない高さで2階建ての住宅がつくられているから、「2階建て住宅」の「1階床高」という属性だけが肥大化されているというわけだ。

僕はこのような手法を、長谷川さんのかつてのボスであった西沢大良さんについて指摘したことがある。『JA』No.34(1999年)に書いた「二分法をこえる眼差し」という文章だ。その中の「もっとリアルな世界理解へ」という節で、以下のように書いた。

 建築の言語を巡る試みとしては、西沢大良の思考が興味深い。それは「規模の材料」(『jt』1998年4月号)という論文によく示されている。建築設計の根拠となる論理体系を、外部世界に頼ることなく建築の内部において可能な限り言語化する試みだ。彼は、「異なる角度から」しかも「一般性をもつ限りでの角度から建物を見直す」ために、「建物とは何か」ではなく「建物は何からできているか」という問いの立て方をし、建物は「意図や主旨」や「用途や機能」ではなく(もちろんそれらが必要であることは認めたうえで)、「材料と手順」だけでできているという仮説へと論を進めていく。「材料と手順」とは建材や素材という意味ではない。そこには、高さ、幅、長さ、面積といったスケールを示す指標から、それらが組み合わされた「規模」「細長」「輪郭」「偏平」といった3次元的単位、さらには「ばらばらにする」「集める」といった操作を示す述語までが含まれている。つまり、建物を組み立てるための要素とそれらの配列規則の集合、言い替えれば言語をつくろうとしているわけだ。
 ここで注意すべき点は、そしてまさにそれが注目すべき点でもあるのだが、彼の目指す体系化は、いわゆる自律的建築と呼ばれるものの対極にあるということだ。つまり彼は、「材料と手順」を閉じた演算規則としてではなく、「そこで誰かが失敗したり、別の誰かが改めて取り組み直したりといったことが具体的に可能な、デザインをめぐって一般的に開かれた、建物のうえの全対象だと考えている」。このアイディアの精度を検証するかのようにして設計された4つの住宅(「立川のハウス」「熊谷のハウス」「大田のハウス」「諏訪のセカンドハウス」)はいずれも配置計画に特徴をもち、敷地周辺とのあいだに不思議な関係を生み出しているのだが、そのデザインの意図や結果について、おそらく彼の言語はその内部に批評の回路までをも準備しているに違いない。
 論理の完備性にこだわる彼の硬質な文体は、その思いとは逆に閉じた印象を与えるかもしれないが、単に既与の建築空間を記述するのではなく、未知の空間を発見するための方法を探る希有な試みとして、きわめて興味深く思われる。


長谷川さんはいやがるかもしれないが、西沢大良さんに対するこれらの分析は、そっくり長谷川さんにも当てはまるように思う。
しかし言うまでもなく、「建物が何からできているか」ということに関する分析姿勢が、硬質な西沢大良さんのそれとはだいぶ違う。
純粋数学から応用数学へというか、1階述語論理から高階述語論理あるいは様相論理へとでもいうか。あるいは、散文がわかりやすい名詞と動詞の組み合わせで成り立ちそれらを単位として分析すれば意味を読み取ることができるのに対し、詩においては文法的には理解しがたい単語の集合そのものを単位として理解する必要があるというようなこととでもいえばよいだろうか。
比喩をいくら重ねても仕方ないが、要するに、「建物をつくっている」新たな要素を、しかも西沢大良さんよりもかなり(もっといい言葉がほしいですが)「華やかな」要素を、長谷川さんは発見している、しようとしていると僕は理解したというわけだ。

ところで僕は上記の「二分法をこえる眼差し」という文章で、長谷川さんの大学での指導教員であった塚本由晴さんについて以下のように書いた。

 住宅と敷地との関係という意味では、塚本由晴の「アニ・ハウス」や「ミニ・ハウス」での試みが印象的だ。密集した市街地の20坪から30坪の、まさに「過酷な都市状況」に置かれた敷地である。多くの設計者は、敷地境界線に沿って建物や壁を設け、もちろんそこに何らかの工夫をするにしても、基本的には中庭型の構成を考えることだろう。ところが塚本は「ヴィッラであること」、つまり敷地の真ん中に建物を配置し、四周に空き地を残すことを提案した。ただしこの余白は、階段や水廻りを立体的に張り出させることで実に複雑なかたちを与えられた空間であり、住宅内部には快適なヴィスタを、外部にはいささか不思議な緩衝地帯を提供する効果を生んでいる。
 塚本はここでのデザインを、建物の「建ち方」に注目した結果だと説明する(「住宅の「建ち方」について」『jt』1998年2月号)。「建ち方」とは耳慣れない言い方だが、「都市のほうからと建築のほうから相互に定義しあう」バランスのようなものと考えてよいだろう。
 彼は、日本の一般的住宅地のもつ問題点を、都市計画的には戸建て住宅が想定されながらその狭さゆえに快適なヴィッラにはなれず、かといって町屋形式をとるほどには密度が高くないことと整理する。その上で、敷地にふさわしい「建ち方」を探ることが、建築と都市の両者が内包する論理の相関としての都市を、住宅の制御を通して逆照射することになると考えるのである。本稿に即した言い方をさせてもらうなら、まさに住宅と非住宅との境界線をデザインすることで、住宅ばかりかその外部世界としての都市をも再定義しようとする試みだといえるだろう。紋切り型の都市像を受け入れておいてそこに「楔」を打ち込むというような発想とは、際だった対照をなす明晰なアイディアである。


建築と環境との関係に対するこういった考え方も、長谷川さんの中に見いだすことができるだろう。
ただし、その姿勢は塚本さんよりも潔い。
長谷川さんの建物は、「アニ・ハウス」や「ミニ・ハウス」の凹凸の多い造形とは違いシンプルだ。窓の構成にしても、環境との応答の種類のようなものが塚本さんの方が幅が広いというか、カジュアルというか、意味の豊かさをもっている。それに対し長谷川さんは、空間の重なりだけが浮かぶようにデザインする。

つまり長谷川さんの設計手法は、建築そのものについては西沢大良さんの手法を豊穣化し、建築と環境との関係においては塚本由晴さんの手法を純粋化しているといえるだろう。つまり、2人の師を実に上手く継承し、かつそこから延びる新たな道を確実に見いだしているのだ。

  長谷川豪=西沢大良の建築論の豊穣化+塚本由晴の環境論の純粋化

なお、先輩から後輩へとこのような自己参照的な進化の道筋が存在することは、僕には東工大の建築学科(だけ)がもつ、きわめて不思議な、しかしきわめて幸福な特徴であると思います。

そんなこんなが、レクチャー終了後、三宮の小さな台湾料理屋で「話が通じる」快感に酔った結果思いついた結論です。本当に楽しい夜でした。

もっときちんと分析すべきであることは重々承知の上ですが、またこんな単純化は長谷川さんはお嫌いかもしれませんが、ブログ上のアイディアスケッチということでお許し下さい(ときどき手を入れます)。
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by yoshiaki-hanada | 2011-06-23 04:00 | ●花田の日記
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