110515 シンポジウムの反響

上記のシンポジウムについて、さっそくいくつかの嬉しい反応を見つけた。
書いて下さった皆さんありがとうございます。勝手に引用しますがご容赦を。

「NUKATANI, Sorahiko」さんのツイッターから。
松村正恒や日土小学校からモダニズム建築のもうひとつの可能性への解釈と、今回の展覧会が東京でおこなわれたことの位置づけを、まさに僕が思っていたことと全く同じ内容でしていただいていて驚きました。
プロフィールを拝見するとコンピュータの専門家の方のようでさらにびっくり。
しかも、『建築文化』の1994年9月号の「戦後近代建築との対話」という特集に僕が初めて書いた松村論「モダニズムというノスタルジア」を読んでいただいていたとのことで感慨深い。
会場で声をかけていただけると嬉しかったのだが。残念。

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「「日土小学校と松村正恒」展 http://bit.ly/i2GFZK とシンポジウムに行ってきた。企画者の愛が溢れた、素晴らしい展示。100円のパンフレットも破格の出来栄え。入場無料なので、一人でも多くの人に見てほしいと思う(日・祝休館なのが残念だけど)」

「日土小学校は今から半世紀以上前に愛媛県八幡浜市に作られた「木造モダニズムの傑作」と呼ばれる建築。どんな建物かは、このPDFの3ページ目 を見てもらうのが一番早い。図書室から川に張り出したベランダで読書できる学校なんて、そうそうない。」

「あるいは、この写真 日頃建築に興味がなくても、思わず惹きこまれる人があるのではないかと思う。廊下に、教室に、溢れる光。風が通り抜けていく空間。ちょっとしたベンチや、棚や、洗い場の飾らない佇まいにひそむ、作り手の細やかな思いやり。」

「松村正恒は(吉阪隆正・象設計集団とならんで)僕がもっとも好きな自国の建築家だ。出会いは『建築文化』誌の94年9月号。大学帰りの図書館で、ふと手にした「戦後近代建築との対話」という特集に出ていた日土小学校の写真に、強烈に惹かれた。建築に漠然と感じていた魅力の核心がそこにあった。」

「「モダニズムというノスタルジア」と云う題の記事を執筆していたのは、今回のシンポジウムにも参加していた花田佳明氏。今年『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』という大著を出版された。困難を乗り越えて見事に再生した日土小の話を、あの文章を書いた方から伺うのは、感慨深かった。」

「花田氏が触れているように、日土小学校の空間には不思議な「懐かしみ」がある。半世紀以上経った今だからという訳ではなく、建って10年も経たない1967年、既に「ここで小学校の日々を送ったような錯覚にとらわれ」「遠い幼い日のノスタルジアが立ち込めてくる」という言葉が捧げられている。」

「この「体験したことがないのに懐かしい」感覚については、恐らく建築の言葉で対象の空間を分節していっても、ある一線を越えて迫る事が出来ないのではないかと思う。それは建築論の限界というより、対象が空間以前の段階、或いは空間を体験した後の心的影響の領域に属しているからではないか」

「僕はむしろ児童文学の世界こそが、この感覚に迫るための豊富な語彙を持っているように思う。日土小学校を、松村正恒という作家が著した「空間による児童文学」と考えることで、その本質がより豊かに見えてくるのではないだろうか。」

「松村正恒は書く。「わたしは、小学校をつくるとき、まず子供になったつもりでプランを考えはじめるのです(…)ふとんのなかで目をつむる、子供に変身する、童心にかえる。学校のなかを走りまわる、座ってみる、変化と感動を探り出す(…)学校のかたちが現れる。歓声が聞こえてきます。」」

「この建築家の言葉からは、優れた児童文学作家の創作における態度と、多く共通するものを見出すことができると思う。子供になるということは、自分の幼時の記憶の中に分け入っていくということだ。取り出されるものが言葉であれ、空間であれ、探求が深ければ深いほど、それは普遍的な相貌を帯びる。」

「「(…)何かがつたわってくる。静けさのような、落ち着きとか、やわらかさとか、雰囲気のようなものがね。空間の香りといってもいいかもしれない(…)わたしは、そういうかたちだけではない、こころとでもいっていいようなものを学校建築にこめたかったのです。」」

「優れた児童文学に共通する点のひとつは、それらが空間的な描写において徹底して具体的かつ緻密であろうとする、という事だろう。たとえばランサム・トールキン・ピアス・佐藤さとる。映像においては宮崎駿。これは子どもと世界の関わりが、対人関係のみならず、外界の探検によっても行われるからだ。」

「自らの幼年時代の記憶を再現しようとするならば、作家はおのずとその空間的感性を最大限に研ぎ澄まして、子どもを取り囲む奥行きを持った世界を文章(映像)の中に再現すべく苦闘する事になる。その想像力の用い方は、ある段階に至るまでは「空間設計」や「建築」に関わるものと未分化なのだと思う。」

「本の場合、たとえ絶版になっても、図書館にある限りは読み継がれていく可能性がある。だが建築は一度壊されてしまうと、永遠にそれを「読む」手段が失われてしまう。日土小学校はここ数年、保存と取り壊しの間で地域を二分する議論があり、一度は存続が絶望的な状況まで陥っていたらしい。」

「地域の人々と行政と専門家のチームワークに幾度かの幸運が重なり、重要文化財を目指す形での修復と増築が成ったのが2009年。結果として、建築的な価値の回復と校舎としての機能向上が両立する、奇跡的な事例となった。シンポジウムで聞いたその経緯だけでも、映画が一本出来そうな感じだ。」

「保存に向けた大人たちの苦闘が、どのような形で結実したか。それは今回の展示のそこここにある、現在の日土小学校の大きな写真を見れば一目瞭然だ。そして在校生による「わたしの好きな場所」を描いた絵と言葉の展示。この校舎が想定した使い手たちに心から愛されている事が、じんじんと伝わってくる。」

「「ベランダに出ると、川がきらきらして、きれいです。こんなふうけいを見ているとこころがぽかぽかしてきます。」「ぼくはこの階段を気に入っています。」「とても静かだけど、本に囲まれていて、明りは、ランプがあって、とてもおちついている場所です。鳥の鳴き声も聞こえてきます。」」

「このような建築が、一方で「モダニズムの傑作」と呼ばれていることは、ある可能性を指し示しているように思う。近代(モダン)の産物を打ち捨てるのではなく、近代の中にある失われた可能性を今一度緻密に検証し、改めて辿りなおすことの中にこそ、未来への鍵があるのではないか、ということだ」

「これ自体はずいぶん前から言われていることだ。しかし近代社会を可能ならしめたサイエンスもエンジニアリングも、それらが行き詰ったとか、訣別すべきとか云う、ある意味他人事な議論が全く通用しなくなった今という時期にこそ、賢明に活かし共存していく事へのヒントを必死に探す必要があると思う。」

「松村正恒展が答えそのものだとまでは流石に云う気はないが、少なくともこの地方の一校舎にまつわる展示がいま、この国の首都で行われている事には、建築業界の中のみにとどまらぬ意味があり、多様な立場と興味を持つ人々が「これから」について考える上でのヒントが存在していそうだ、とは云える。」

「ト、いたづらに千言、万言を費やすより、百聞は一見に如かず。6月3日まで、東陽町の竹中工務店ギャラリーA4にて。お薦めです。」
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「Daisuke Kawajiri」さんのツイッター。松村本の編集者です。

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「八幡浜市立日土小学校と松村正恒展観賞。昨夜のシンポジウムは再生なった木造校舎の保存復元と改修増築(と改築)プロセスについて。地元設計者/研究者/教育委員会スクワッドの辛抱強い活動が最悪の境遇から最高の保存事例へ導いたプロジェクトの報告に落涙」
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by yoshiaki-hanada | 2011-05-15 12:12 | ●花田の日記
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