101019(火) エスキスはこんなふうにやっている

家で校正を少しやって大学へ。やっと5分の2くらいまできた。


2時40分からは3年生の実習。今日は僕ひとりの日なので、巡回的エスキス。
エスキスで僕がやっているのは、学生が出してきた「種」を元に、自分が納得できる案やストーリーを組み立てるという作業だ。
しかもできるだけ速く。
「種」はスケッチだったり、言葉の切れ端だったりさまざま。
もちろん、こちらが出す案やストーリーも、スケッチだったり言葉だったりさまざまだ。
いずれにせよ、僕の中で何かが組み立てられていく様子を見せたいので、頭の内部の動きをできるだけ喋って言葉化し、手を動かして絵を描いていく。
しかもまわりにも聞こえるように、声はやや大きめに、身振り手振りも入れながら。
せっかちなので、そっと水を向けるとかヒントを提示するというような気の利いたことが全然できない。
なので、自分ならこう考えるという答えを言う。
教育という面からはよくないのかも、とときどきは思う。
でも、待てないものは待てない。
早い者勝ちのアイデア出しともいえる状況になるから、学生からすれば、逆にどんどん案を失っていくことになる。
だから、もうそれ以上言わないでくれと早々に自分の席に戻り考え始める学生もいれば、僕の案だけは採用せずそれ以上(以外、ではなく、笑)の案を考えたと講評会で言った学生もいる。
素晴らしいことだ、と勝手に思っている。
要するに、エスキスはただ自分のためにやってるんだなあとつくづく思う。

今日、育ったいくつかの「種」。
あまり詳しく書くとそれこそ学生に叱られるので、さわりだけ。
というか、僕にとって面白かったことだけ。

ジョブカフェ(なんていうものがあるんですね。しらなかった)をつくりたいという学生だが、僕にはこれまでどうしても理解できなかった。なぜフィッシュダンスのあの場所なのか。そもそも「空間」の必要性があるのかという点で。でもその学生はとてもこだわる。
ところがいろいろ話しているうちに、ヴィジョンはあるがお金はない人に向けた無料貸しスペースを設け、いずれ恩返しをしてもらうことにしてはどうかということになり、それなら「空間」が必要になる、あの場所にある意味も生まれるよね、となった。
何より、仕事を探す場所のはずなのに、行ってみたらみんなが仕事をしている、そういう意外性が素晴らしい。
そして、自分で言っておいてどこかで聞いたことのある話だなあと思ったら、なんのことはない、昔、青木君と一緒に考えた「サバーバン・ステーション」だと気がついた。
学生諸君は『建築文化』1993年11月号を見て下さい。
職業安定所でもなく、コミュニティセンターでもなく、本当の意味での公共施設を考えようとしたプロジェクト。
皮肉なことに、あれを考えたのがバブルの最後の最後の時期で、それがはじけたあと、今や格差社会とか若い人に仕事がないとかいう不景気な事態が具体化している。仕事とは何か、働くとはどういうことか、空間が公共的であるとはどういう状態か、建築がそういった問題にどう役に立てるのか、そんなことを抽象的に考えたのだが、もはや目先の急務になっている。
「希望」というプロジェクト名にしたらどうかと学生に言ってみた。

★「銭湯」をしたいという案。その前は「チェーン店の寿司屋」だった学生。そういった「ソフト」に疑問を呈するのは簡単なのだが、それより問題なのは「空間」についての提案がないことだ、と攻めていって、ちょうど横にいた学生が見ている商業施設やディスプレイの本を横取りすると、その中にあった天井から吊るされた演劇の舞台装置に目が止まり、たとえばこういうものの下が水面なら面白いのではと提案する。水面の高さも、「舞台」と考え、高くするといいのではないかとさらに提案。脱衣場から洗い場そして湯船の底という具合に、一般の風呂はだんだん床が下がっていく。それを逆にだんだん高くしていくという「空間の方法的操作」を考えれば、湯と人との新しい関係、つまりは新しいビルディングタイプが生まれるじゃないか、と「言葉によるスタディ」を披露。

★まわりの公園は「自由」ですよね、ああいう感じにしたいと学生は言う。空間的なイメージはまだ出ない。なのでエスキスを受けられる状態ではないことはわかってるけどちょっと話だけでも、とかなんとか言う。「自由ねえ」と呟いてみて、「あ、けっこうかっこいいかも」と思う。そういえばさっきは「希望」だった。今度は「自由」だ。
自由といっても、何でもできることが「自由」じゃない、ただでモノが手に入ると「自由」、でもない。逆に、給料の代わりに時間を提供して働くことは本来は不「自由」のはずだけど、仕事の内容とそれをおこなう「空間」によっては「自由」を感じることがある、よね。
「空間」と「自由」の関係を考えてみよう。
金沢21世紀美術館の円環状のロビーは、「自由」の計画論による空間への変換だ。
床仕上げがコンクリートのままなのは、「自由」の素材という視点からのモノへの変換だ。
そんなふうに、あらゆるスケールにおいて「自由」を「空間」化しようと考えれば何か出てくるのではと言うと、ちょっとわかってきたという感じで学生君は自席に戻った。

★ジムという案。
自分の身体との対話をおこなう場所としてのジム、ととらえれば、対話を活性化するためのデザインを考えればよい、と考えられる。
そうすると、身体が空間について一番敏感に感じ取るスケールと素材という視点に注目すればいい、と考えられる。
そうすると、空間のスケールの<小さい〜大きい>という軸と、素材のイメージの<弱い(柔)〜強い(硬)>という軸とを組み合わせみればいいはず、と考えられる。
2軸を組み合わせると、数学のX・Y軸による平面みたいなものができ、そこに4つの象限が生まれ、その中にさまざまな値の空間と素材の組み合わせが見いだせる。
そうすれば、それらを散らせたパッチワークのようなものとして、対話の場がデザインできるのではないか。
もちろんランニングマシーンもエステコーナーも必要だけど、その空間を巡ること自体が身体との対話になる空間、がつくれるのではないか、と考えられる。
という「言葉によるスタディ」を披露。
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by yoshiaki-hanada | 2010-10-20 00:59 | ●花田の日記
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