100709 その後考えたこと

7日(水)、藤村龍至さんをお迎えしてのトークセッションが無事終わった。
この日は一日大忙しで、午前中の授業のあと、午後は、高校の美術の先生方に建築設計の初歩を体験していただくワークショップを学科で開催し、そのお世話係をした。こちらも初めてのことでどうなることかと心配したが、さすが美術の先生はのみ込みが早い。2年生の最初の課題と同じ敷地で、プログラムを簡単にし、ヴォリューム模型と外観スケッチを作ってもらったのだが、面白い案がいっぱいできてこちらも楽しませていただいた。

それが盛り上がり、終了予定時間をいささかオーバー。藤村さんのレクチャーには遅れての参加となった。質疑応答では学生諸君から活発に質問が出た。僕も先日のブログに書いた(1)から(4)の内容を改めて述べた。レクチャー終了後、三宮で食事会をし、さらにいろいろな話を皆でした。その場で話したこと、その後考えた若干のことを前回の続きとして記しておきたい。一緒に読書会をしてきた学生諸君の参考になれば幸いである。また、現在卒論に取り組んでいる4年生に対しては、建築家の言説分析の一例として読んでほしいとも思う。なお、これはあくまでも自分用、教育用のメモのつもりなので、ときどき直す可能性はあります。

(5)「超線形プロセス論」において「線形」という言葉が未定義である問題
(2)で書いたように、「超線形プロセス論」と藤村さんが呼ぶ方法論について何かを語ろうとしても僕は言葉が出なくなる。それは、(2)で書いた理由以前に、そもそも「線形」という言葉の意味がわからないからである。
ごく一般的な意味としては「線のように長い形」とか「まっすぐ進んでいくこと」とでもいうようなことであろうが、ここでは数学用語としての線形(線型)という言葉との関係を無視するわけにはいかないだろう。
数学では、関数f(x)の線形(線型)性は、fについて以下の2つの性質が満たされることとして定義される。

 ・f(x+y)=f(x)+f(y)
 ・f(ax)=af(x)

たとえば、原点を通る1次関数を考えると、この条件を満たしていることがすぐわかる。
もちろん、現実の多くの現象はこういうシンプルな方程式では表現できず、非線形問題を扱う広大な分野が広がっていることは周知の通りだ。
では建築設計における線形性とはどういう意味なのだろう。しかしその定義は藤村さんの文章にはなく、単純な否定形としての非線形という言葉はもちろん、彼が提示する超線形という言葉の意味も確定できない。
もちろん、原因の重ね合わせ(x+yやax、つまり2つの原因を足したり、ひとつの原因をa倍すること)が、結果の重ね合わせ(f(x)+f(y)やaf(x)、つまり2つの結果が足し合わされたり、ひとつの結果がa倍されること)となって反映されること、というような日常的表現への比喩的な言い換えは可能だが、それにしても、建築設計における原因と結果とは何かという説明は必要となる。
こういう指摘は重箱の隅をつついているような印象があるかもしれないが、ひとつの分野で正確に定義されている用語を他分野に曖昧なかたちで導入すると、読者の正確な理解を得られないどころか、書き手の思考も混乱する。さらにいえば、読者を煙に巻いたり、読者に一種の踏み絵を踏むような経験すら強いる。いわゆるソーカル事件を思い出すまでもないだろう。このような未定義の用語の使用が生む論理性の無さが、藤村さんの「超線形プロセス論」を前に僕が言葉を失う最初の要因である。

(6)「超線形プロセス論」への疑問をもう少し別の言い方でいうと
次に、BUILDING Kの設計プロセスを示す表を見て疑問に思うのが、その起点、つまり左上隅の出発点が表の原点から始まっている点だ。いいかえれば、第一手がいきなり始まっている、その前には何もない状態から始まっているように読めるという点である。
しかし僕は、建築の設計においてそのようなこと、つまり設計を無から始めるというようなことは可能だろうかという疑問に包まれる。天文学の啓蒙書によれば、この宇宙は何もない状態でのビッグバンによって始まったそうで、そこにその後の宇宙の全歴史がインプットされていたのかどうか知らないが、少なくとも自然物の誕生に関してはそんな想像をしたりできる。しかし人工物の制作において、それが無から始まるというようなイメージを思い描くことは難しい。
一方、この表を見て僕が思い浮かべたのは、作家性の強い老練の建築家の設計プロセスである。小さなスケッチを紙の端に描く。それを長く付き添ってきたスタッフが読み取り、師との長年の関係によって蓄積された知識や経験によってヴォリュームからディテールにいたるまでを迷うことなくまとめあげる。そこでは、まさに「ジャンプ」も「枝分かれ」も「後戻り」もなく名作ができていく。まさに藤村さんのいう「超線形」なプロセスではないか。
しかし、そこには大きな違いがある。いくら表面上は、BUILDING Kの設計プロセスを示す表のように設計が進んだかに見えても、「作家性の強い老練の建築家の設計プロセス」の背後には、「蓄積された知識や経験」があるだろう。また、もっと一般的な設計の場合でも、敷地観察によって得られる情報や判断などが設計の出発点にあり、しかもそれらは最後まで保持される。
そのような状況は、下図のように、「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」などの厚みを三角形の上に積み重ねた台形のようなかたちで描くこと(=以下、「台形モデル」)ができるだろう。このような表なら、いろいろな設計事例が当てはまる感じがして納得しやすくなるだろう。
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しかし藤村さんの表はこうではなく、あくまでも「三角形」だ。
その理由はよくわからないが、このように考えてみると、少なくとも、藤村さんの「超線形プロセス」と一般的な設計プロセスとのイメージの差は明らかになる。つまり、前者では「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」といったものの排除が意図されていると解釈できる。
もちろん、(5)で書いた数学用語からの連想にこだわるなら、「台形モデル」の輪郭から原点を通らない一次関数を読み取れば、それはまさに「非線形」のグラフになり(原点を通らない一次関数では、f(x+y)=f(x)+f(y)とf(ax)=af(x)は成立しない。つまり非線形)、たしかに「超線形」ではないわなと自分で納得したり、逆に「超線形って非線形のことじゃないの」と思ったりもするが、このような比喩的な言い方こそソーカルが批判したものといえるだろう。

(7)僕なら「超線形性」をこう説明する
では、藤村さんの提示した文章から「超線形プロセス」をどのようなものとして理解すればよいのかなと僕の思考は進む。
碁盤の目の中に点を打った表は、下図のように一方の軸(この図では縦軸)の項目の順序を変えれば、点を対角線上に整列し直すことができる。
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そうすると、BUILDING Kの設計プロセスを示す表も、下図のように見れば、縦軸の決定項目を入れ替えてつくったものともいえるのではないかと疑った。どのような設計においても、縦軸の項目を入れ替えれば、時間の順序を守ったまま(つまり横軸はそのままで)対角線上に点をもってこれるからだ。
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たしかに各行に点がひとつなら、あるいは少ないならそのような作業は可能だろう。
しかし、藤村さんの表は、各点の上方も点で埋め尽くされている。それは、<ひとつ前に決定された要素だけが次の要素の決定根拠になっていること>というルールを反映したものだと解釈できる。突然のひらめきは認めないということである。
ところで、この表の縦軸に並べる項目の内容や順序について、藤村さんはとくに説明をしていない。ただ、BUILDING Kの設計プロセスを示す表を見る限りは、大枠からだんだん細かい部分へという意識は感じられる。
しかし、(6)で述べた「台形モデル」ではなく、あくまでも原点から出発する藤村さんの三角形のモデルを尊重するなら、最初の一手は無根拠に決めざるを得ない。「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」などを採用しないからである。
無根拠でよいのなら、最初に法規制をクリアするヴォリュームを検討しようが、サッシュのディテールを検討しようがかまわないということになる。
そう考えてくると、僕にはやっと「超線形プロセス」のイメージがわいてくる。
つまり、(6)で加えた長方形の部分の存在は認めず、しかも、<ひとつ前に決定された要素だけが次の要素の決定根拠になっていること>というルールだけを厳守する設計方法である。
とにかく出発点に具体的な建築の要素をもってくる。その背景は問わない。ペンシルビルが集合したシルエットでもいいし、枠の存在をできるだけ消したサッシュの納まりでもいい。そして、それだけを手がかりにして次を決める。たとえば、そのサッシュによる窓にふさわしい腰高を決める。次にその腰高にふさわしい部屋の展開図を決め、その展開図にふさわしい階高を決め、その階高から立面を決め、その立面からヴォリュームを決め・・・、というような作業の反復の後、建築ができ上がる。
僕なら、そのような設計プロセスこそが「超線形プロセス」だというだろう。
ただ、少なくとも僕にとっては、このような設計プロセスは現実的にはイメージし難く、それは(3)で書いた「筋トレ」だよなあという思いが強くなる。「台形モデル」における長方形部分を排除すること、すなわち「蓄積された知識や経験」や「敷地観察によって得られる情報や判断」を自然に排除することは難しく、強制的にしかおこない得ないと思うからだ。そして、そのような「強制」は一種の「トレーニング」という枠の中での行為というべきであり、強制はそのような枠の中でこそ意味をもつだろうからである。「監督!こんなトレーニングに何の意味があるんですか」と問うことは、監督と選手の関係においても、また運動能力向上プログラムの効果においても、許されないのと同じだ。

(8)そこからしか生まれない建築があるかどうか
こんなふうにあれこれ考えてみて、やっと自分の中にひとつの論理が浮かび上がる。
そしてそれが設計の論理であるためには、つまり藤村さんの「超線形プロセス論」が筋トレに終わらず設計論であるためには、やはり(4)で書いたように、この方法によってしか生まれない建築を示すことができるかどうか、つまり、「まっとうな野球の試合」のやり方ではなく、「筋トレだけでも野球はできる」という命題が証明できるかどうかにかかっているだろうというところに戻っていく。
第一手目の無根拠性、および二手目以降は<ひとつ前に決定された要素だけが次の要素の決定根拠になっていること>というルールだけで構成される方法論によって生まれる建築である。もし何も新しいものが生まれなければ、方法論として有効でないことが証明されるし、分析の道具としても、ごく普通の設計プロセスを描写する力しかないということになれば、自然に消えていくだろう。

なお、読書会で集めた資料の中に、藤村さんと青木淳君の対談があり(『新建築 住宅特集』2009年8月号)、そこで青木君がMVRDVの建物を例に、考え方は藤村さんと同じようだけどMVRDVの建物にはパンチがあるよねというようなことを指摘していたが、建築家の目から僕と似たようなことを言っているのではないかと感じた次第。

ちなみに、無根拠性のもとで第一手を決めるという作業の困難さに、僕は耐える自信がない。しかし青木君はそれができる。しかも彼は、その第一手をさらに破壊することを第二手とする。「原っぱ」という原点から出発して「決定ルールをオーバードライブする」方法とはそういうことだ。
藤村さんの書いたものを読むことで僕が思い出したのは、むしろ青木君のこのような設計論であり、そこにある論理性だ。このルールの厳守を自分に課すという意味では、倫理性といってもよいだろう。そして、そんな恐ろしい作業がよくできるなあと改めて思う。論文にしろ作品にしろ、こういう強靭な論理と倫理がないものはだめですね。おまけみたいで申し訳ないけど、最後にひと言。
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by yoshiaki-hanada | 2010-07-09 20:06 | ●花田の日記
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