100704 勉強会で考えたこと

暑くて早くも夏バテ気味。
授業やゼミやらで学生諸君と話すことの多い毎日。

●出たばかりの『伊東豊雄読本—2010』(エーディーエー・エディタ・トーキョー)を買い、「あ、同じくご本人による『語り』ものだ」と気がついて、買っていなかった『磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿』(TOTO出版)も買う。本屋ではそれほど思わなかったのだが、実際に読んでみると、この2冊の本があまりにも対照的であることに気づき、この何年かに建築観や建築家像が大きく変化したんだなあと感慨深い気持ちになった。徹底的に自分と建築の外部を語る磯崎新。徹底的に自分と建築の内部を語る伊東豊雄。ちょうど10歳の歳の差だが、その語り口の距離はとても大きい。

●7/1には、7日に僕らの学科でおこなわれる藤村龍至さんのレクチャーに向けた学生の勉強会に参加した。勉強会はこれで3回目、僕が参加するのは2回目だ。お陰で彼の文章のまとめ読みができた。
ただ、それらに対する積極的な反応が自分の中にどうしても芽生えず、なぜかなと考えてみた結果、その理由が自分なりに整理できた。それはいずれも、藤村さんの議論の内容や結論ではなく論文としての論理性に関する問題である。
当日参加した学生諸君には話したのだが、彼らにとっては復習になると思うし、間違いを指摘して下さる方があるかもしれないので、メモしておこう。7日の議論の盛り上がりを期待している。

(1)「工学主義」あるいは「批判的工学主義」を導く論理への疑問
藤村さんの文章に必ず登場する以下の表は、彼の唱える「批判的工学主義」という立場を導く根拠となるものである。
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しかしすぐにわき起こるのは、それぞれの升目を埋める言葉の意味や内容はともかくとしても、なぜ1920年代と同じ枠組みが2000年代に適用できるのかという疑問である。つまり、2000年代にも、社会には一般的反応と主流的立場があり、それに対する抵抗運動としての反主流的立場が生まれ、それらの乗り越え運動としての批評的立場が成立すると、なぜ断言できるのかということだ。
しかし藤村さんは、その証明どころかエクスキューズすら書いておらず、たとえば「グーグル的建築家像をめざして」(『思想地図』vol.3)という文章では、「これらのフレーム(=1920年代のフレーム:引用者注)を『情報化』に適用して現状を整理すると」と、きわめて自動的に議論は進められ、この表の上下枠どうしの対応として「工学主義」とか「批判的工学主義」という言葉が導き出されているのである(なお、そもそも「工学主義」という言葉は「商業主義」に置き換えた方がいいんじゃないか。「工学」という言葉は「行きつ戻りつ」というイメージの方が強いと思うが)。
しかし、主流・反主流・乗り越えといった1920年代の二項対立的構図と同じ枠組みのもとに2000年代の社会が成り立つ保証はどこにもない(成り立ってほしくないと僕は思う)。だとすると、藤村さんの議論は、そもそもスタートしていないということになるのではないか。

(2)「超線形プロセス論」という方法論への疑問
藤村さんは、批判的工学主義を実践する設計の方法論として、超線形プロセス論という方法論を唱えている。設計中に、「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」という方法だ。
その説明のために藤村さんは、「BUILDING K」という自分の設計した建物の設計プロセスを記録した以下の表をいつも示す。横軸が時間の経過(左から右へ)、縦軸が決定された内容であり、黒丸が対角線的に打たれていることからわかるように、常にひとつ前のステップの決定内容の上に次のステップの内容が決定されていったというわけだ。
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この表を巡る藤村さんの文章を読んでつくづく思うのは、彼が書いているのは設計の「方法論」ではなく、設計の「目標」だということである。しかも、住宅メーカーも、大手設計事務所も、ゼネコン設計部も、ひょっとしたらアトリエ系の事務所ですらもっている「目標」である。なにしろそれは、手戻りがなく効率の良い設計だからだ(そういう意味では、「超線形プロセス論」とはまさに「純粋工学的」手法ではないのかという疑問も残る)。
各組織はそれぞれの仕方でこの「目標」に対する「方法論」を模索しているだろう。クライアントからの注文への対処法、設計要素の規格化、施工との早期の連携などいくらでも思いつく。しかし藤村さんの文章には、彼の「方法論」が示されていない。どうやって「この表のような」プロセスを実現したのか、するのかという手法こそが「方法論」のはずなのに、「この表のように」進んだことを結果として示す模型が並ぶだけである。「超線形プロセス論という方法論」はどこにも示されていないのだ。これでは議論をしようにもとっかかりが見つからない。

(3)超線形プロセス論の筋トレ性
仮に「超線形プロセス論」を「「ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない」方法論と定義すれば、それを使って何かを設計せよという問題は、学生向けの演習としては面白い設計課題となる。まさに(2)の表を描くために、設計中におこなわれる選択を言語化することによって、設計行為の複雑さが逆照射されるからだ。
ちなみに僕は、4年生の演習科目で「<デザインは模倣から始まる>という仮定から出発するとどのような思考が展開できるか」ということを学生諸君に問いかけているが、彼らにとってはなかなか良いトレーニングになっていると実感している。
しかしそれにしても、「逆照射」こそが方法論への王道である。それなくしては、こういう課題は、スポーツでいえば筋肉トレーニング、つまり目標と方法が一対一に対応した基礎的訓練にすぎないのだが、藤村さんの文章に「逆照射」はない。
さらに重要なことは、いくら筋肉隆々の人が集まっても、それだけでは優れた野球チームにならないということ。ルールの理解、ポジションごとの特殊な技能の獲得、そしてチームワークの達成などが必要だからだ。したがって「超線形プロセス論」は、今のままでは筋トレに過ぎない。

(4)「筋トレだけでも野球はできる」となぜいわないのだろうという疑問
仮に方法論が言語化できていなくても、建築が面白ければ、モノが方法を語るという状態になる。しかし「BUILDING K」からは、そのようなメッセージは読み取れず、むしろ、「低層部では商業施設として求められる一室空間を確保し、上層部では周囲のペンシルビルのスケールに合わせて小割りにした」という常識的な文脈的解釈が成立する。つまり、(3)の比喩を用いるなら、ルールを十分に理解した真っ当な野球の試合がおこなわれているのである。
ここから先は余計なお世話になるのだが、そんなことでいいのだろうかと思わざるを得ない。筋トレしかやっていない人間だけでやる超絶野球。藤村さんの議論からすれば、その建築バージョンこそが彼の示すべきものだと思うのだが、いかがであろうか。
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by yoshiaki-hanada | 2010-07-06 00:41 | ●花田の日記
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