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鈴木成文先生への追悼文(『新建築』2010年5月号)

卒業生や在校生に読んでもらうのもいいなと思ったので、『新建築』に書いた鈴木成文先生への追悼文(『新建築』2010年5月号)を掲載します。


最後まで学び、そして遊び続けよ
花田佳明(神戸芸術工科大学教授)

鈴木成文先生が亡くなったという第一報が入ったのは、3月7日の夕方だった.その2日前,私の友人は鈴木先生の東京のご自宅を訪問し,私自身も,2月12日,神戸芸術工科大学(以下、神戸芸工大)の卒業制作展でお目にかかったばかりだった.そういう事実と突然の訃報はどう考えても重ならず,頭の中が混乱した.その後すぐに情報が増え,前日6日に名古屋市立大学で開かれた建築学会のパネルディスカッションに出席され,神戸芸工大の教え子の発表を聞いた後,東京駅に深夜到着,駅構内で倒れ、7日午前1時過ぎに亡くなったということが分ってきた.まさに,現役のままの死,だった.
3月11日が告別式.鈴木先生のご自宅にも近い護国寺に多くの人びとが集まった.そこには,私がかつて教わった先生方から,私の学生だった若者まで,実に幅広い年齢層の人びとがいた.そして,そういえばどの人も「現役の」鈴木先生と直かに接したのだと気づいた瞬間,「鈴木先生らしいなあ」と私は少し嬉しくなった.

人生の4つの時期
鈴木先生の82年間の人生は,およそ4つの時期に分けられるだろう.1927年に生まれ,東京大学を卒業するまでの22年間.吉武泰水(1916-2003年)のもとで大学院生として研究を始め,東京大学を退官するまでの38年間のうち,教授となった14年間とそれ以前の24年間.そして神戸芸工大の設立に関わり,学長を経て亡くなるまでの22年間だ.
鈴木先生は,フランス文学者・鈴木信太郎を父に生まれ,昭和初期の華やかな都市生活から空襲による自宅焼失まで,まさに激動の昭和を経験した.当時の暮らしぶりは『住まいを語る』(建築資料研究社)に詳しいが、伝統的な続き間座敷の空間と、父・信太郎の持ち込むヨーロッパの香りが交錯する豊かなものだった。
東京大学時代の業績については,あらためて述べるまでもない.スラム街の調査,戦後復興期の住宅政策への参加,51Cと呼ばれた1951年度の公営住宅住戸標準プランの設計,学校や病院の計画,高度成長期以降の集合住宅への提案,より一般的・伝統的・地域的な住まいや暮らしの調査や記録などをおこない,さらに中国や韓国の住まいへと研究対象は拡大した.その全体像は,東京大学退官時に編まれた『建築計画学の足跡―東京大学建築計画研究室1942~1988年』にまとめられている.
しかし,鈴木先生をいっそう鈴木先生らしくしたのは,その生涯の4分の1以上を占めた神戸芸工大時代ではなかったか.私が鈴木先生の謦咳に接したのは,まさにその時期である.まだ日建設計大阪本社に勤めていた頃,私は鈴木先生が神戸に来られたという話を聞き,開学間もない神戸芸工大を訪れた.東京から関西に来てひとりいる寂しさを,母校の匂いを嗅ぐことで紛らわしたかったのだ.しかし,学科棟の屋上へ上り,キャンパスを見渡しながら神戸芸工大への熱い思いを語る鈴木先生の姿は,東京大学でのイメージとは違っていた.そこには研究者というよりも,教育者としての鈴木先生がいた.

神戸芸術工科大学での4つの業績
鈴木先生の神戸芸工大での業績は,大きく4つに分けられるだろう.
まずは何よりも教育だ.授業はもちろん,学園祭,ゼミ旅行,学生との飲み会や勉強会に膨大な時間とエネルギーを注がれた.その対象は学長退任後の学生にもおよび,多くの若者が,鈴木先生を介する以外には手に入らない知識と経験と人脈を得た.
2つ目は,東京大学時代の業績に対する自己評価だ.鈴木先生は,51C型住戸プランが安易な近代建築批判の道具に使われる愚を正すべく,シンポジウム(「『51C』は呪縛か」2004年2月)に参加し,さらに『五一C白書―私の建築計画学戦後史』(住まいの図書館出版局)を上梓された.それらを通して,設計当時の事実を正確に伝え、その限界にも言及し,さらに建築計画学のあるべき姿も主張された.研究者としてまことに勇気ある仕事だった.
3つ目は,ユニークな暮らしの実践である.子供がなく奥様も他界されたため,鈴木先生は大学近くの団地に神戸の住まいを構え,東京のご自宅には,神戸芸工大の卒業生を「書生」として同居させた.そして,それぞれの家で「文文会」や「土曜の会」という集まりを定期的に開催し,多くの在校生や卒業生を集め,彼らを激励し続けたのだ.それはまさに,鈴木先生が主張した「住宅を開く」ことの実践とも思え,私はその執念に感動した.
4つ目は,継続的なメッセージの発信である.その象徴が,学長時代の「学長日記」と、亡くなる直前まで続いた「文文日記」だ.いずれもインターネット上で公開され,1年ごとに出版された.日常の些細なことから,教育論,建築計画学への思い,スキーや自転車の旅、闘病記,さらには政治や社会に対する厳しい批判まで,実にさまざまなことが書き続けられ,多くの読者はその行動力と精神力に驚嘆した.そこには,正論であることを照れず,常に主張し続けよというメッセージも潜んでいた.

告別式のあと,神戸芸工大の卒業生が留守番をするご自宅に立ち寄った.当然のことながら,鈴木先生の数日前までの暮らしや作業がそのまま残されていて,不思議な感覚に包まれた.しかしそれは,「最後まで学び、そして遊び続けよ」という叱咤激励とも思え,自分の中にぽかりと空いていた空洞に何かが埋め込まれたような気持ちになった.神戸芸工大でご一緒した時間の中で,私は結局のところそのことを教わったのだ.先生という言葉の優しい響きが似合う先生だった.
by yoshiaki-hanada | 2010-06-02 09:48
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