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『堀部安嗣作品集』書評

『堀部安嗣作品集』(平凡社)の書評です(『コンフォルト』2015年8月号)。

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リアリティと抽象的思考の往復から生まれるもの
神戸芸術工科大学 花田佳明

 同じ厚さの大型本の1・5倍はあろうかという頁数と重さ。作品集というより植物図鑑のように薄く滑らかな紙の感触。その中に凄まじい密度で図面と写真が詰まっている。見返しに遊びが無く、表紙をめくるといきなり本文が現れる。堀部が本書に込めた思いの強さそのもののような物質性と緊張感だ。
 図面は現状に合わせてすべて修正されたという。100分の1の平・立・断面図や詳細図が揃い、外構や樹木も緻密に描き込まれている。嘘はつきたくないとでもいうような執念だ。
 写真の多くは堀部自身が撮影した。優れた建築家は優れた写真家でもあることが多いとはいえ、他人任せにしない潔癖さに驚いた。どの写真も抒情的な生活感に溢れ、頁を繰る手は何度も止まる。ただし不思議なことに、ほとんどの写真に人影がない。机の上に様々な日常の欠片を残し、住み手だけが突然消えてしまったかのようだ。
 その微かな喪失感から、私は、堀部が幼い頃に父親の書棚にあったギリシャ建築の写真集をずっと眺めていたというエピソードを思い出す。哲人たちの日常が消え、建築だけが建ち続けるギリシャの風景。リアリティと抽象的思考の間を往復しつつ、永遠の時間を凍結した結果とでも言えばよいか。そのような作業が、建築家・堀部安嗣にとっての設計であり、この作品集の編集方針なのだろうと思い至る。
 私は15年前、大雨がもたらした幸運から、「伊豆高原の家」に泊まったことがある。本書を開くと、あのときの夢のような記憶が甦る。それと同時に、「伊豆高原の家」に流れたその後の15年という時間を知っているかのような気持ちにもなる。本書は、堀部の設計した空間を通し、そこで自分が暮したという、あるはずのないもうひとつの人生を想像する機会を与えてくれる。その快楽に浸りたくて、私はかつての堀部少年と同じように、この作品集を書棚から何度も取り出し、眺め続ける
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# by yoshiaki-hanada | 2015-07-10 22:30 | ●花田の日記

『青木淳 ノートブック』(平凡社、2013年)の書評(2013年の『SD』掲載)。

『青木淳 ノートブック』(平凡社、2013年)の書評です(2013年の『SD』掲載)。

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建築的知性の物質化
神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 建築家・青木淳が、『青木淳 ノートブック』というタイトルの不思議な本を世に送り出した。大きさが約34cm×24cm、厚みは4cm弱、本であろうことは何となくわかるが、むしろひと束のB4コピー用紙と言ったほうが似合う物体である。
 彼は、独立した翌年の1992年4月1日以降、設計のためのスケッチやメモをコクヨ製A4サイズのキャンパスノートに書き続けてきた。1冊80頁、ごく普通のノートである。そして20年後の2012年11月22日に104冊目を使い終わり、それらすべての頁を記録したのが本書なのだ・・・という紹介で、この本を見たことのない読者の頭の中にはどのようなイメージが浮かぶだろう。
 ひとつの頁に元のノート16頁が縮小されて納まっている。肉眼で文字や数字をすべて読むのは難しく、ルーペのおまけ付き。初めて本書を手にしたとき、小さなノートが延々と並ぶその光景に言葉を失い、私はこの紙の束を抱えたままソファーにへたり込んだ。
 ところで、私は本書を巡る青木との対談を9月15日に東京の青山ブックセンターで行なった。その依頼を受けたのは8月19日で、ともかく現物を見たいと思ったがまだ印刷中。代わりに104冊のPDFデータを送ってもらい、そのすべて(80頁×104冊=8320頁!)をコンピュータ上でめくっていった。そして対談で取りあげるべき頁などを選んだ自分なりの目次やメモをノート20頁分ほどつくり、完成品を見なくても「これで対談は何とかなる」と考えていた。
 ところがまだ店頭には並んでいない9月4日、彼から実物が送られてきた。宣伝用に一足先に作られたサンプル本を回してくれたのだ。
 段ボールを開くと中から真っ白な塊が現れた。初めて見たその姿は女神のように美しく、表紙も本文頁の手触りもきわめて滑らか、背表紙の無い糸かがり綴じ製本のためすべての頁はノドまで開く。まさに全体が分厚い「ノート」なのだった。しかも長手方向にも湾曲するという、本にしては不思議な挙動。突拍子もない連想だが、巨大なこんにゃくを持っているような気分になった。
 サンプルにはルーペがついてなかったので家にあった天眼鏡越しにさっそく眺め、あらゆる文字や数字が読める高解像度の虜になった。すべての頁がカラー印刷で図も鮮明。しかしすぐに目が疲れて顔を上げる。しばらく休んでは再びレンズ越しにノートを読む。顔を上げる。レンズを覗く。この作業を数回繰り返すうち、私は奇妙な感覚に包まれていた。
 つまり、レンズを通して見ているときは文字も図も意味ある記号として頭にはいる。しかしレンズから目を離して顔を上げた瞬間に、今まで見えていたものすべてがぼんやりとして、紙のかたまりの上の黒い滲みに戻るのだ。一般の本では決して味わえない感覚である。せっかくつかまえたのにすぐ逃げられる。そんな戸惑いと言ってもよいだろう。そしてこのとらえどころのなさは、まさに青木の設計した建築の特徴そのものだということにも気がついた。それを言いたくて彼は現物を送ってきたに違いない。「ああ、また青木君にしてやられた」と背筋が少しひんやりし、PDFデータを通して手にしていた安心感は一瞬にして砕け散った。
 しかし、PDFの画像とはいえ詳細に104冊の全頁を眺めたことにも意味はある。このノートには何が書かれているかが多少は頭に入ったからだ。レンズ越しだとそうはいかない。とりあえず気づいた特徴は以下の通りだ。
●初期のノートには言葉が多く書かれているが、その後は次第に図が多くなる。
●一般的な意味での「スケッチ」もあるが、ひとつのアイディアから展開できる「可能なパターン」を書き尽くそうとした図が多い。決して微妙な線の角度を探るような「スケッチ」ではない。
●結論に至る筋道はあまり書かれていない。最終案に近いコンセプトや姿は早い段階で登場していることが多く、結論はノート以外の場で出ていると思われる。
●青森県立美術館竣工後には、曖昧な言い方だが、アート寄りの描写が増える。
●「動線体」から「モノ」へといった設計手法の変化の節目を示す言葉のようなものは見当たらない。
 こういった内容についてはこれからゆっくり分析すればよい。ただ、今の段階で私が直感的に確信したのは、104冊のノートが、青木の設計のキーワードである「ルールのオーバードライブ」、すなわち自分が決めた手法や約束事を過剰に運用するという作業の実験場だったのだろうということである。
 理工系分野の人は、新しい実験や計算を行なうたびにその結果を記録した「研究ノート」をつけることが多い。そこには個人的な嗜好を挟む余地はなく、仮説とその検証があるのみだ。青木のノートに記された言葉や図にはそれと同じような印象がある。
 言い換えれば、建築について何かが語られているのではなく、建築行為そのものがノートの中で行なわれているという感じなのだ。つまり本書は、建築を言葉と図で語った本ではなく、まさに建築で書いた本であり、比喩としてではなく、文字通り建築を言語化した本、建築を言語として使った本なのである。
 それはまた青木の設計方法ということもできる。ここで詳述する余裕はないが、彼は、建築外の概念を建築によって「表現」するのではなく、建築で建築を書いてきた。その方法と、常に解読作業の反復を読者に強いる本書の造りは全く同じ考え方に拠っている。
 つまり本書は、建築家・青木淳の20年間の建築的思考を、あるいはその結晶としての建築的知性のすべてを、嫉妬を覚えるほどの完全さで物質化したものなのである。このような本の出現は、建築界を超えた事件というべきだろう。
 本書は限定1000部で値段も決して安くはなく、いわゆるアート本という位置づけだ。しかし私は、この本は建築を学ぶ学生や若い設計者にこそ手にしてほしいと願っている。青木淳という建築家の20年間の思考と生き方は、決してお手本とはならないかもしれないけれど、これからの支えとなるに違いないからである。1冊目のノートの1行目に登場し、学部以来30数年つき合ってきた私が保証する。
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# by yoshiaki-hanada | 2015-01-13 23:32 | ●花田の日記

「震災と建築家」についての断片的考察

東北の被災地を写した山岸剛さんの写真を見ていて、阪神大震災のとき、僕もこういう「廃墟」を見てうろたえたなあと思い出した。『群居』に書いた文章を再掲します。読み返すと、あの頃の気分が少し甦る。あれから20年。

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「震災と建築家」についての断片的考察
(『群居』39号、1995年)
神戸山手女子短期大学専任講師 花田佳明

[1]はじめに

 私が神戸の東灘区に住み、建築の設計やら批評やらに関わっているからでしょうか。編集部から「震災と建築家」という仮のタイトルを指定されて原稿依頼をいただきました。
 しかし、〈建築家〉とはいったい何をさしておられるのか、建築雑誌を賑わすいわゆる有名建築家のことなのか、構造や設備の専門家は含むのか、都市計画家(この言葉も曖昧ですが)はどうなのか、建設会社や組織事務所の設計者や技術者はどうなのか・・・、いくらでも疑問は湧き、さらには私自身は含まれるのか、あるいは本誌の性格から想像すればこのタイトルを思いつかれたコアメンバー(?)の方々もそういった分野の専門家が多いと思われますが、彼らはどうなのか、もしその方々も「建築家」ならなぜ御自分と震災との関係についてお書きにならないのか、自分の存在意義に関わるようなことを他人に書かせて平気なのか、等々実に不思議な感じがいたしました。「建築家」はいまだ『広辞苑』には載っていない言葉ですが、そのことの意味があらためてわかったような気もした次第です。
 それならば原稿依頼をお断わりすればよかったのですが、それもできなかった。現地にいる者としての役割というような気もしたからです。つまり「震災」の方は多少はわかるというわけです。
 そして考えてみると、この〈私のしったことではない〉という苛立ちと〈しかし・・としての役割でもあるなあ〉という溜息との共存が、1月17日以来の私の生活の一部にずっと潜んでいる感覚ではないかとも思い当たりました。とりあえずそのようなアンビバレンスの構造について考えてみようと思った次第です。

[2]〈建築家〉って何だ?
 被災直後、現地の瓦礫の山を見た建築関係者を襲った感覚は、ある種の無力感だったといえるだろう。壊れてしまった風景の中を歩き回ることに、たとえ家屋の診断ボランティアという名目があったにせよ、また調査・研究という錦の御旗を掲げていたにせよ、あるいは誰かの救援に向かうというヒロイズムを背負っていたにせよ、そのようなものは、自分がつい数日前まではその構築に関与していた環境の中の、柱一本すらもとに戻す力がないという事実の前では、吹き飛んでしまったのではないだろうか。
 「建築家というのは、地震時にはなんの役にも立たないと痛感した。倒壊現場で家を起こして人を助ける力もないし、倒れかけた家を直す技術も持っていない。情けなかった」(1)という述懐は、特に現地で暮らしていた〈建築家〉に共通するものだったといえるだろう。「消防士になろうかと真剣に考えている」(2)と書いた〈建築家〉まで出現した。
 もちろん〈建築家〉だっていつまでもおセンチな心理状態に甘んじていたわけではなく、さまざまな活動を展開してきた。しかしその質と量は十分ではない、と〈建築家〉を叱る発言も目についた。上記の「消防士」になりたいと書いた〈建築家〉は、「現地取材にやってきたある建築評論家」が、「リアリスティックな、状況認識とそれに対する断片的アイデアの説明に終始する私に、〈建築家らしいロマンティックな提案はないのか。アンドーさんなら、そういうことはいわない〉と煽るように訊ねた」という証言を残している(2)。また地元の「まちづくりプランナー」からは、「私は安藤忠雄さんに頼んでいるんですが、この3カ月間で住宅・都市整備公団にこんなものをと提案した建築家は、彼だけだそうです」(3)という状況批判や、「それをだれがやるかと言うと、建築設計をする人がやるのですよ。そういうマーケットがボンとあるのですから、〈営業もへったくれもない。責務として提案しろ〉ということです」(3)という激やらがとびだしたりもした。
 両者がともに「アンドーさん」の行動を〈建築家〉のひとつの範ととらえていることの面白さや、「マーケットがボンとある」という営業的認識と「責務として」の「提案」という正義論的アジテーションとの不思議な共存やらについては別途詳細に検討する必要があるとしても、ここには、今回の震災に対する〈建築家〉の行動を見るかぎりその職能を再定義する必要があり、そしてなにより〈建築家〉自身がそのことを再認識すべきだという考え方が含意されている。
 しかし、〈建築家〉とは何(様)なんだ?という問題は今に始まったことではない。社会との接点を失い自己満足的議論に終始していたことの弊害が今度の地震で明らかになったのではなく、既に自明のことであったそんな状況の必然的延長線上に今回の「震災と建築家」の問題も乗っているにすぎないのである。
 〈建築家〉の職能や姿勢について「震災」から新たに学ぶものが多くあるとは思えない。むしろ問題は、「建築評論家」や「まちづくりプランナー」を自称する人々が〈建築家〉を自らの外部にある存在として批判できるような社会の構造それじたいの方にあるのではないかと思う。なぜ〈建築家〉の登場を待つんだろう。「建築評論家」や「まちづくりプランナー」が設計をすればいいだけの話だ。本当にそれだけのことだ。
 重要なことは、〈建築家〉待望論や〈建築家〉批判などではない。境界線を引くという行為はそんな議論しか生みださない。このような言説が果たす役割があるとすれば、「建築評論家」としての目利きぶりや「まちづくりプランナー」の社会的地位向上の喧伝でしかないだろう。
 これまで求められてきたことは、そして今回の震災の中で改めて求められていることは、むしろそのような境界線を消滅させる作業なのではないか。行政から市民までのあいだに横たわる〈専門家〉という名の多くの閉じた領域を、もっとダイナミックに交錯させていくシステムの構築こそが必要なのではないか。〈ここから先は建築家の仕事〉という姿勢を肯定するならば、〈そこまでの仕事は行政のもの〉という線引きによって「まちづくりプランナー」の領域を行政が担うことだって可能だろう。私にはその方が好ましくさえ思える。あえて境界を引くならば、優秀な行政と、賢い市民と、市民と契約を交わした設計者がいさえすればよいのである。環境をつくりあげていく作業の中に境界線などあってはならない、という信念は論理的に保持されるべきだと思う。要は〈建築家〉の再定義の必要性などが〈問題〉となるような社会システムでは駄目だということではないだろうか。
 
[3]廃墟という鏡
 もし〈建築家〉に何かを反省させるとすれば、〈君たちには瓦礫の山が美しく見えたんじゃないのか〉と質問するほうが効果的だろう。
 木造住宅が倒壊した多くのエリアでは、概ねその解体作業が終わりつつある。そしてそのあとには広大な更地が広がり、雑草が生え、プレハブ小屋が建ち、住宅メーカーの縄張りがおこなわれている。早いところでは、外構は後回しで薄っぺらな住まいだけが完成したりもしている。もちろん復興の速度と内容は地域によってまちまちであり、基本的には〈何もない空間〉が広がっているという状態だ。
 そういう場所を歩いていると、自分の眼が、たとえば撤去されずに残されたコンクリート基礎やら家具の破片やらの、いわば〈廃墟の名残〉を探していることに気づく。地震以前の風景をしらないひとの目には〈昔からそうだった〉と映る可能性すらある更地の中に、わずかに残された〈廃墟の記憶〉を探そうとしてしまうのである。
 まだ解体されていない建物にでくわすこともある。調整がうまくいかないのだろうか、木造アパートが多い。壁土がなくなり、ばら板の壁がひからびた人骨のように見え、家具や食器や洗濯物がほこりをかぶっている。その〈無力な崩壊感〉があの頃の空気を思いださせてくれる。
 三宮のビル街を歩いていても同じような体験をする。解体の終わった跡地の上に、あるいは建物を覆う仮囲いの向こうに想起するのは、かつての健全な状態の建物ではなく、破壊された姿、廃墟となった姿の方なのである。
 そう。すでに何かを〈懐かしんでいる〉のである。加速度的に取り戻された日常の中で、あのときの〈廃墟〉を思いだすことの快感を、間違いなくあじわい始めている。
 これに似た感覚は、実は地震直後からあったような気がする。三宮の破壊された風景を最初に見たときの印象を、友人たちへの電子メールで「こんなに切ない思いとともに風景を眺めるのは始めてです」と、文字通りおセンチな言葉によって表現してしまったことがある。この言葉に対し〈ある懐かしさ〉を感じるのはいうまでもないこととしても、この表現の裏に、〈廃墟〉をそのような眼差しで見ることへの安住が隠れていたように思うのである。
 何日間も着たままの服装で、しかもときにヘルメットをかぶりマスクをし、さらにはカメラをもって歩いていたのである。いわば、完全に匿名の「眼」そのものになっていたといえるだろう。
 私がそこでやっていたことは、環境と自分との関係回復ではなかっただろうか。〈廃墟〉は確かに眼の前にあるのだが、〈廃墟〉になる前にはそこにいたに違いない自分自身が、その〈廃墟には〉いない。この不在感を埋めるために、つまり〈廃墟の中の〉自分という映像をつくるために、私は歩いていたのではないか。〈廃墟〉となることで風景は私を遠くへ突き放し、その恐怖感から逃れるように、私は環境をひたすら見た。そして、そこに平常時にはない強さで、自分自身の輪郭が浮かび上がってきた。〈廃墟〉になってみて初めて、環境が自己を映す鏡であることを、そしてその自己確認の手ごたえがもたらす快感のようなものを、私は感じていたのではないか。
 あまりにも〈建築家〉風の感傷的形而上学だろうか。私にはそうは思えない。もう少し〈形而下〉的現象を考えてみても、隣近所の人間関係の一時的復活や、街角の炊き出しの盛り上がりや、ボランティア活動の隆盛やらの背後には、同様の〈廃墟崇拝〉のようなものがあったような気がするからである。
 〈廃墟〉の手ごたえにまさる強度をもった〈鏡〉を、なぜ平常時の環境の中につくりだせてこなかったのか、今後の〈復興計画〉はそのような〈廃墟〉以上の強さをもっているのか、そしてその〈計画〉は〈廃墟〉の強さへの絶望感からひとびとを救出できるのか、そういう課題として、〈建築家〉は廃墟への眼差しを厳しく自己告発する必要があるだろう。その精度が悪ければ、〈最終戦争後の廃墟〉に可能性を見いだそうとしたあの宗教集団との違いは、ゼロになる。

[4]廃墟は本当に「開かれた」か
 このような〈廃墟を鏡とする〉眼差しの延長線上に、避難所やテント村に一時的に発生した「コミュニティ」から何かを学ぼうとする姿勢もあるように思われる。予想どおり、テント村の配置図おこしの作業もおこなわれた。その図面が、世界の周縁的集落調査とよく似た絵がらを見せてくれたことも、これまた予想どおりだった。
 たしかに被災後の生活空間の変容ぶりは魅力的な部分をもっていた。被害の少なかった私の場合でも、生活用水確保のために近くの川で水を汲み、マンション内の男手の少ない家庭へ配達をし、飲料水と食料の確保の方法を探し、傾斜地ゆえに周辺地盤を観察し、近所や学生からの相談で住宅診断に行き、避難所の知人に救援物資を届けたりもした。そういった初体験の行為群は、目標が明確な一種の役割行動として、私の中のヒロイズムをくすぐった。
 誤解を恐れずにいえば、被災地のあらゆる空間での行動の背後には、そのような感情があったと思うのである。そしてそれは、余震の恐怖との適度なブレンドを伴う、ある意味で心地よい空間だった。その空間について、私自身次のようなことを書いている(4)。
 
  しかし、生活が住まいの中だけでは成立せず外部へと拡散していく中で、自分の住む土地や建物そして隣人との間に、一時的にせよニヒリズムを超えた眼差しが生まれたことだけは確かなのである。外部にいる他者を支えることが自分を支えてもらうことにつながるという思い、といってもよい。私はそのような感覚が成立する場を、「開かれた」環境と呼びたいと思う。
  住まいという安定した場所を失い、避難所やテントの中に暮らし、大部分の日常生活が他者との支え合いの中に解消してしまった人々も、被災直後はともかく、その後の自立過程の中で同様の感覚を抱いたのではなかろうか。支援の不十分さ故に、「開かれた」環境が完全には発生しきれなかったとしてもである。また支える側、つまり外部に属するボランティアの人々も、住民と同じそんな空間に包まれる体験をしたのではないかと想像している。
  被災後、「街がやさしくなった」といった類の投書や報道をよく見聞きした。情緒的な部分は差し引くにしても、このような感想は、多くの人たちがこれまでにない環境と自己との双方向的な関係を実感したことの証拠ではないだろうか。


そして、そのような「開かれた」環境を体験した市民には、行政の復興計画案は受け入れられるはずがない。なぜならば

  「開かれた」環境を避難所やテントの中に自力で作り上げた実績をもち、その経験を通して、地域という小さな単位が保持してきた「開かれた」コミュニケーションの重要さを再確認したはず

の市民にとって、行政の復興計画案は「閉じた」環境でしかないからだ、と考察したのである。
 このようなストーリー立てはそれほど間違ったものだとは思ってないし、現実の復興計画の可能態のモデルのひとつを描いているとも考えている。ただ、ここで自省的にであれ指摘しておきたいことは、観察者および被観察者がこのような「開かれた」環境を見いだした眼差しとは、すでに述べたような〈廃墟を鏡として自己を映し見る〉視線だったのではないかということである。日常世界のなかに一時的に生じた歪みとしての小世界の中で、その時間的・空間的有限性を暗黙の前提とした「開かれ」方だったということである。だから、それは〈廃墟〉の撤去とともに消えてしまった。〈鏡〉がなければ何も映り込まないからである。
 「当たり前だ」という声が聞こえてきそうだ。「なんせ非常時だったから、みんな協力しただけだ」と。もちろんそれだけのことなのである。
 「開かれた環境」といった表現に自分でも懐疑的になってしまうのは、それが中途半端な「開かれ方」だったからだと思う。行政の無能に対する暴動があったわけでもなければ、首長のリコール運動が起こったわけでもない。ある意味で、被災地は異常な政治的平穏さの中にあったとすらいえる。それをこの国の国民性や阪神間の地域性による美談にしても仕方がない。むしろ、なぜそこまでしか〈開ききれなかった〉のか、これからでも〈開く〉必要があるのではないか、そうじゃないと〈廃墟を鏡として自己を映し見る〉という眼差しの魅惑に負けてしまうのではないか、といいたいだけなのである。
 「とりあえず廃墟から立ち上がろう」的な、文字通り〈廃墟を鏡〉とするシュプレヒコールによって無化される責任論と、正当化される情緒的な〈下町共同体論〉クリシェとに対し、〈建築家〉は今こそ明晰である必要がある。避難所やテント村の「コミュニティ」からは、そういった一時的共同体を市民がゼロから築き上げざるを得ない状況に陥ったとき「コミュニティ」についての研究者が果たせた指導力の小ささへの反省と、市民がそこで学んだものの大きさへの知的な理解を最後まで示し得なかった行政の無能さに対する批判とを引き出すだけで十分なのである。

[5]〈自責のジレンマ〉を越えて
 「何かやらなくてはと思うんだけど、現地にいないからうかつなことをいえない。何をしてほしいか教えてくれ」と、ある〈東京の建築家〉から尋ねられたことがある。きわめて良心的質問だと思った。と同時に、被災地と非被災地、あるいは被災者と非被災者との境界を引くことの困難と無意味さを改めて感じたりもした。
 結局は、数千人もの犠牲者の方々と生き残った者とのあいだ以外には、どのような空間的隔たりがあろうとも、震災に関する境界をお互いに引くべきではないだろうという話をした。「うかつなことをいえない」という思いは、あらゆる場所に存在し得るからだ。
 たしかに、複数の義務が課されたときに、それらは自分の中で加算されるべきだと感じる正義感のようなものを私たちはもっている。しかし同時に、義務とはその遂行可能性を前提にされるべきでもあるだろう。できもしないことに義務感を感じても仕方がない。ただ、その遂行可能性あるいは不可能性の判断は自分自身にまかされるわけだから、悩みが累乗的に増えはする。しかし、まずはそのような〈自責のジレンマ〉とでも呼ぶべきしんどさに慣れるしかないのである。その上で、どこまで効果的な案を発想できるかが勝負となる。
 そういう前提のもと、〈東京の建築家〉に次のような話をした。

   「プロジェクトは〈効果〉をもつ必要がある。それが量的に測れるべきかどうかは別としても、効果の有無あるいは大きさに対する私たちの実感は大切にする必要があるだろう。〈自責のジレンマ〉を自覚したうえでいうならば、〈建築家〉によって提案されたさまざまな仮設住宅プロジェクトの多くは、さほど〈効果的〉だったとは思えない。公共の仮設住宅における玄関や風呂の段差解消のために、大工さんが踏み段づくりをした行動の方が、残念ながらずっと〈効果的〉だった。
   仮設住宅に求められたものが、建設速度と土地と住宅としての仕様だったとすれば、少なくとも前二者に関するかぎりは〈建築家〉の出る幕はなかった。仕様に関しても、仮設住宅と本設住宅との違いは何かという意外に本質的な問題も隠れていて、〈踏み段〉止まりだったというのが現実ではないか。
   本設の住宅について仮設住宅での量的敗北を〈建築家〉があじわわないためには、たとえば住宅メーカーによって大量供給されようとしている住宅の、質的向上を企てるしかないのではないか。広い敷地の中にぽつんとプレハブが建つのなら、まだ許すことができる。なにせ〈農家型〉とでもいうべき建て方の〈伝統〉は守られているのだから。芦屋あたりのお屋敷が住宅メーカーの建物になっていくことを嘆く声は多いが、それがこの国のこの時代の文化なのだと思えば、シニカルな笑いくらいは浮かぼうというものだ。しかし冗談にもならないのは、10数坪の狭小敷地の場合。戦前からの長屋と最近のミニ開発との差こそあれ、今回破壊された住宅のうちのかなりの数はこのような土地の上に建っている。そこに〈農家型〉の構成の家が再び大量に建てられようとしているのである。この国の優れた都市型住居の伝統が、まったく継承されていかないのだ。この放任された無知の量的膨大さだけは許せない気がする。
   誰かそのことを叱れないのか。住宅メーカーのおエラい方々に御注進できる人はいないのか。あなた方は一体何をしてくれようとしているのか、と。せっかくの大量供給のチャンスなのである。それを良質な都市型住居建設の機会として、あるいは少なくとも都市型の暮らしのマナーをアピールする絶好の機会として利用しようという志をもった住宅メーカーはいないのか。何かしたいのなら、そんなメーカーを連れてきてくれ。」

 私自身、全壊した知人の家を一軒設計している。7軒並びの典型的ミニ開発。17坪の敷地である。そこで都市型住居のプロトタイプをめざしている。残り6軒は、「隣が○○ハウスだからうちは××住宅」という状態。とても入り込む余地はない。行政が用意した〈コンサルタント無料派遣つき協調建て替え制度〉など、こんな現実の前では〈制度〉と呼ぶ価値すらない。〈私の設計図を買ってください〉と書いた紙を首から下げて、駅前広場に立った方がまだマシかもしれないのである。せっかくの可能性が、あらゆる場所で摘み取られようとしている。
 「われわれの中には、自然発生的なものは、知的な伝統に組み入れられないという、それが一つの信念になっておりますね」(5)とは、鶴見俊輔が、戦後のヤミ市などにみられた「市民的不服従の論理」をいつの間にか忘れてしまったこの国のダメさ加減を嘆いた言葉である。今回の震災も、結局はそれと同じ道を歩んでいるのではないかという気がする。
 「バカな大人を相手にしても仕方ない。今回、一時的にせよ〈学校〉に行かない日常を体験し、地域社会に片足をつっこむ貴重な経験をした子供たちに期待しよう。彼らを土曜日の午後学校に訪ね、建築のもつ力や都市型の暮らしのマナーや環境を自分でつくる楽しさやらの本格的講義をしたい。そういった議論が、少なくともコンピューターゲームや塾での勉強程度には、十分刺激的で頭の使いがいのあるものだということを教えてやりたい」とは、〈東京の建築家〉に話したもうひとつのアイデアである。
 私たちは震災を通して反射的には多くのものを身につけた。それを、より自覚的な責任や行為へと持続的に変換していくシステム、そしてそのための場所、そういったものを何としても築きあげていく必要がある。

(1)関西建築家ボランティアで活躍する笹木篤氏の発言『日経アーキテクチュア』1995年6月5日号
(2)宮本佳明「月評」『住宅特集』1995年4月号
(3)『日経アーキテクチュア』1995年7月17日号の小林郁雄氏へのインタビュー
(4)「リレー寄稿 戦後近代建築をめぐって」『建設通信新聞』1995年3月10日・3月24日・4月7日
(5)鶴見俊輔「ヤミ市と市民的不服従」『鶴見俊輔著作集第5巻』(筑摩書房、1976年)
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# by yoshiaki-hanada | 2015-01-11 20:37 | ●花田の日記

この夏に大人買いしなさい、たったの1万73円。

2011年8月に作った合計(約)たったの1万円の「夏休みの課題図書」リストを改訂する。
学生諸君、だまされたと思って大人買いしてみよう。
さまざまな分野の入門書である。ここから道は開けて行く。
ただひたすら本を読む夏があってもいい。
合わせてたったの1万73円!

●野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)756円
●吉田洋一・赤 攝也『数学序説』(ちくま学芸文庫)1620円
●石田英敬『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)1404円
●内田 樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)745円
●原武史『知の訓練』(新潮新書)799円
●成田龍一『戦後日本史の考え方・学び方 歴史って何だろう?』(14歳世渡り術、河出書房新社)1296円
●高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)778円
●村上龍『69 sixty nine』(文春文庫)494円
●太田博太郎『日本の建築 歴史と伝統』(ちくま学芸文庫)1296円
●古庄弘枝『沢田マンション物語』(プラスアルファ文庫)885円

ちなみに以前のリストは以下の通り。こちらもチェックして下さい(重複はあり)。
・野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)
・野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)
・石田英敬『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)
・内田 樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
・吉本隆明『日本近代文学の名作』(新潮文庫)
・見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
・瀬山士郎『初めての現代数学』(ハヤカワ文庫NF)
・森村泰昌『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)
・夏目房之介『夏目房之介の漫画学』(ちくま文庫)
・村松貞次郎『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)
・岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)
・今橋映子『フォト・リテラシー』(中公新書)
・柳川範之『独学という道もある』(ちくまプリマー新書)
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# by yoshiaki-hanada | 2014-07-25 19:52 | ●花田の日記

「個室群住居が教えてくれたもの」(黒沢隆『個室群住居』住まい学大系088の栞)

個室群住居が教えてくれたもの
(黒沢隆『個室群住居』住まい学大系088の栞)
花田佳明

 私が黒沢隆の名前と個室群住居という考え方を知ったのは、大学にはいって2年目の年、まだ教養課程の学生で、ひたすら建築学科への進学を夢見ていた頃だった。建築雑誌のバックナンバーや建築書を漁り、雑学を仕入れることに夢中になっていた。
 正確な日付は記憶にないが、神田の古本屋街で蒐集に励んでいた100号までの『都市住宅』、および図書館で借りた三一書房の『現代日本建築家全集』第24巻が出会いの場であったことは間違いない。すぐに個室群住居という考え方の虜になり、友人たちとやっていた勉強会で紹介した憶えがある。今や本格派の社会学者として活躍するS君から、共同体論の面白さを教わった会である。私は、建築という手掛かりを介することで自分が世界や他者とつながる感覚について、そして、その感覚を得たいがために建築を学ぶのだといった青臭い決意について、詩人谷川俊太郎の作品や社会学者見田宗介の論考、そして黒沢の個室群住居をとりあげながらレポートした。さらにまた、教養課程の授業科目でもあった別のゼミでは、『現代日本建築家全集』に載っている「中川邸同居個室群」を参考に、生まれて初めてつくった建築模型をレポート代わりに提出したりもした。
 なぜ個室群住居にあれほど魅了されたのか。今思うと自分でも不思議なほどである。しかしまことに気恥ずかしい限りだが、そこに10代から20代へと移行する時期の、私なりの「青春」があったようにも思うのである。
 地方の高校を卒業し東京でのひとり暮らしを始めた私が必要としていたものは、さまざまな意味での他者との関係であり、それについての論理であった。しかもこの「関係」とは、新しい友人づくりから幼い恋愛感情まで、親への反抗から家族論まで、さらには都市や共同体についての一般的議論までを含む、何とも広大な地平に及ぶものなのであった。大学に入学したばかりの若者の、まさに鬱陶しい観念的青春の幕開けだったわけである。
 ひとが建築を志す理由にはさまざまあるだろうが、私にとってのそれは、造形への興味でもモノづくりへの憧れでもなく、この「他者との関係づくり」を可能にする媒体が自分にとっては建築しかないという確信なのであった。まことに飛躍した論理ではある。しかし私は、住宅やもっと大きな建築、あるいは都市を論じることによって、それぞれに関係する人々とつながり、より抽象的には「世界」と関わることができると本気で思っていた。それ以外の道はないと信じていたのである。
 正確にいえば、そのような言葉を話したり書いたりしながら自分をナビゲートすること自体に酔っていたということだろうが、いずれにしても、貧しい知識と経験だけを手掛かりにそんな観念の迷路を彷徨い始めた建築少年の目には、個室群住居という考え方が、世界と自己とをつなぐ建築的実践の稀有な実例として、あるいはそのような実践の可能性を示す数少ない証拠として、限りなく魅力的な姿に映ったのである。
 本書に収められた個室群住居に関する黒沢の文章を読み返していると、当時のそんな青臭い記憶が甦ってくる。以下、あの頃の熱狂を少し遠くから見直してみたいと思う。
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 黒沢隆という建築家の思考の跡を辿ろうとするとき、最も初期に書かれた「正系の挫折 I 現代住居の問題性」および「現代住居の問題点 2 家庭ホームの消滅」という二つの論文は、きわめて興味深いものだと思われる。これらが発表されたのは、1966年の『建築』5月号と9月号。黒沢は弱冠25歳、日大を卒業した後、東大の生田勉の研究室に出入りしていた頃である。前者は本書にも収録されている。まずはこの二つの論文のトレースから始めたい。
 「正系の挫折 I 現代住居の問題性」は、「1949年、それは異常な年であった」という印象的な言葉で始まっている。黒沢は、保守安定政権の成立、共産党の大躍進、下山・三鷹・松川事件の発生などを例に挙げながら、この年を日本の戦後の希望と不安とが多く交錯した一年として素描した後、「ミース・ファン・デア・ローエの『ファンスワース邸』が紹介されたのは異常な年1949年末の日本であった」と建築に議論を進めていく。ここで試みられているのは、彼に先行する世代の住宅に対する以下のような整理である。

(1)現在は、形や空間が機能とは無関係に与えられるユニバーサル・スペースの時代にある。
(2)丹下健三の自邸は、コアと居住空間を別の階にすることで、ユニバーサル・スペースの考え方をファンスワース邸以上に徹底させた住居である。
(3)しかし丹下邸さえも、可動間仕切りによって〈LR+ΣBR〉という使われ方をしている。つまり一室住居でさえ〈LR+ΣBR〉という一般解によって解かれている(LR=居間、BR=寝室)。
(4)ところで、BRの中には夫婦用の部屋と子供用の部屋があるはずであって、〈LR+ΣBR〉は〈LR+BR+Σ子供部屋〉と書かれるべきである。
(5)この図式を具体化したのが菊竹清訓の「スカイハウス」である。居間と夫婦の寝室を家具によって仕切り、子供部屋は必要に応じてピロティの下にぶら下げるという方法により、〈LR+BR+Σ子供部屋〉は〈(LR+BR)+Σ子供部屋〉に、すなわち〈夫婦の部屋+子供部屋〉にまで抽象化されている。ここでは、夫婦の一体性という近代家族の理念が、見事に空間化されているのである。
(6)さらに、太田邦夫の「山車の家」では、たとえば家の中を動き回る「山車」と呼ばれる装置を導入することによって、部屋の集合としてではなく個別の行為の集合としての住居が構想されている。つまりここでは、一室住居の無プラン性が徹底され、住様式すらが捨てられている。

そして黒沢は、丹下自邸のもつ特性に端を発するこういった一連の流れを日本の現代建築の「正系」と呼び、「スカイハウス」や「山車の家」という最終的な解がでているがゆえにその線上での今後の発展は期待できず、今は「ひとつの歴史的時代の終末」だと結論づけるのである。すなわち「正系の挫折」である。
 4頁ばかりの雑誌論文ということもあり、食い足りなさはある。また現在の私は、「山車の家」についての黒沢の評価に疑問を感じないわけではない。というのも、彼は「山車」を丹下的なメガストラクチャーと同一視している気配があるが、むしろ、行為がモノによってアフォードされているという視点に基づいた、空間の近代的単位化を脱しようとする先駆的事例に思えたりもするからだ。
 しかし、こと住居に関する限り、ユニバーサル・スペースと近代的家族観との関係を整理した試みとしては、そして(こんないい方は失礼かもしれないが)学部をでたばかりの若者の作業としては、相当に優秀かつ早熟な論考だといわざるを得ないだろう。
 そしてこの4ヶ月後に発表された「現代住居の問題点 2 家庭ホームの消滅」という論文において、「個室群住居」というアイディアは世の中にデビューする。ここでは、当時の女性の結婚観や職業観などの変化を統計的に示しつつ、「夫婦の一体性」という近代の倫理が女性を家庭に押し込めてきたことを前提に、以下のような議論が展開されている。

(1)女性の就労人口が増え共稼ぎ夫婦が増加していくことで、夫婦合わせれば社会的には2単位の生活が一般化し、夫婦の一体性という近代家族の特性は崩れていく。
(2)そして、近代社会で構成された〈社会−家庭−個人〉というヒエラルキーが、現代社会では〈社会−個人〉という直接的な関係に転化する。
(3)その結果、封建時代から近代への移行が「家(ルビ:いえ)」の否定であったように、近代から現代への移行は「家庭(ルビ:ホーム)」の否定とならねばならない。
(4)従って、近代住居は夫婦一組の抽象的な人間を仮定してその抽象的人間の生活に応じて機能単位で構成されてきたが、現代住居は家族の成員ひとりひとりの単位で構成される必要がある。
(5)その個人の単位とは、個室を意味する。
(6)ゆえに、現代住居の一般解は〈Σ個室〉である。この現代住居を個室群住居と呼ぶ。

かなり図式的な思考ではあるが、明快な推論である。
 本書にはこの1966年の「現代住居の問題点 2 家庭(ルビ:ホーム)の消滅」は収められておらず、1968年の「個室群住居とは何か」と1971年の「個室群住居の基礎知識」が個室群住居という言葉を使った初期の論文として再録されているが、それよりも早い時期から、というか黒沢のデビューと同時にこの言葉が登場していたという事実は忘れられるべきではないだろう。
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 黒沢の出発点に位置するこのような思考の道筋を改めて辿っていると、私は思わず「ふーっ」と溜息をつきたい気分になってくる。黒沢は、20代の若さでこのような見取り図を描いてしまったのである。その頃の彼の心情がどうだったかは全くわからないが、しかし私の眼には、「見えてしまった」という困惑に彼がとらわれてもおかしくないと思えるほど、それは完結したシナリオと映る。あるいは、そこから脱すること自体が即座に次の課題となるような鮮やかすぎる解答といってもよい。その証拠に、個室群住居というキーワードのもと、その後彼が書いていく文章の多くは、結局この2編の論文が明らかにした図式の反復なのである。しかしそのことは、彼の結論の単純さや新規のアイディアの欠如を意味するものではなく、むしろひとつの論理体系としての完備性を証明するものであることはいうまでもない。
 ここには、その後の彼の言説にも共通するいくつかの特徴を見いだすことができるだろう。一般解指向、歴史的必然性指向、帰納ではなく演繹好み、住宅平面分析時の眼差しの具体性、社会学好み等々である。しかしこのような特徴とは別に、私には、明晰さが抱えざるを得ない悲劇のようなもの、そしてその背後に見え隠れする甘酸っぱいセンチメンタリズムのようなものも見落としてはいけないように思えるのである。黒沢の論理の中にある、このウェットな部分とは何か。
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 一見したところ個人主義的色彩ばかりが目につく個室群住居というアイディアは、しかし一方で、他者とつながることに対する切ないほどの願望や幻想を隠しもった考え方であるように私には思われる。少なくとも私の熱狂を支えたのは、そういった共同幻想とのさらなる共同幻想だった。
 黒沢は、上記の「現代住居の問題点 2 家庭(ルビ:ホーム)の消滅」の中で、「個人」とは「自らを糊するに足る職業をもち、自分のことは黙って自分で処理し、他人を頼らず黙々とそして堂々と生きる」人間であり、彼らの集合体として「社会そのものが巨大な家族であるかのように構成されていくと思われる」と書いている。
 また、彼は同じ論文の中で、家庭の消滅にともない発生する「子供がいかに養育されるか」という問題にも言及し、女性の社会進出にともない、保育園、託児所、乳児院に子供をあずけたり「鍵っ子」が社会問題化している現実にふれながら、多くの人たちは「子供たちの不幸をなげくだろう」が、「家庭(ルビ:ホーム)というものが消滅すべき必然性をもつ以上」、「こうした児童養育のあり方の必然性とその正統性を認めざるをえないのではないだろうか。そして〈現代〉社会における児童養育の方向を、見定めなければならないと思われるのである」とも述べている。
 ここでは「子供の養育」の問題にしかふれられてないが、老人をはじめとするすべての社会的弱者に必要なさまざまな支援についても、同様の判断が可能だと思ってよいだろう。
 私なりに抽象化していえば、家庭に代表される共同体が個人の集合へと解体されると同時に、諸個人の活動を支える住居以外の施設の整備も進み、それまでの住居を含むさまざまなビルデイング・タイプ相互の境界が溶解したその果てに、新たな社会状況が生まれていくだろうという筋書きである。個人および各共同体のエゴイズムが解消し、その先に人間が相互に支え合うシステムのようなものが浮上すると考える社会観と要約してもよい。
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 唐突かもしれないが、冒頭に名前を挙げた社会学者見田宗介の言葉を引用したい。彼が真木悠介の筆名で未来構想の枠組みを描いた書物、そしてそれはまさに私の青春期の支えでもあった『人間解放の理論のために』(筑摩書房、1971年)という書物の中で、見田は次のような二つの方向を示している。

極限の未来において、一切の暴力や欺瞞による支配と抑圧を含まぬ世界というものが、もしも可能であるならば、それはただつぎの二つの方向においてのみ構想しうる。
 すなわち第一に、このような人間たちの〈関係の背反性〉という現実をまず永遠のものとみとめて、これを最も合理的な仕方で調整するシステムを、「有限者の共存の技術」として追求していく方向。そして第二に、このような諸個人の〈関係の背反性〉という現実の構造そのものを、根底から止揚することを追求する方向。
 第一の道を論理的につきつめてゆくと、相剋する無数のエゴの要求を、いわば超多元連立方程式による最適解として解いていこうとするものである。このような方向における理念的な社会のイメージを、ここでは〈最適社会〉とよぼう。
 これにたいして第二の道は、いわば「エゴイズム」としての人間のあり方そのものの止揚を志すものであり、このような方向における理念的な社会のイメージを、ここでは〈コミューン〉とよぼう。

この分類でいけば、黒沢がめざす社会とは、見田のいう意味においての「コミューン」といってよいのではないだろうか。見田はさらに二つの方向を要約し、「〈最適社会〉は、人間存在の個別性の契機を基軸とする型のユートピアであり、〈コミューン〉は人間存在の共同性の契機を基軸とする型のユートピアであるといえよう」と書いているが、まさに黒沢が、住居以外の建物に対して注ごうとした眼差しからは、後者の言葉が喚起する社会の姿が想像されるのである。
 もちろん黒沢の思考、あるいは私の「青臭い」黒沢解釈を批判することは容易だろう。たとえば、「黒沢のいうような個人はあくまでも理念型であって、そんな立派な志を持った個人など実在しない」とか、「現実の社会は『社会そのものが巨大な家族であるかのように』なんてなってないし、むしろワンルームマンションとして具体化した個室群住居の大群が社会を覆っているにすぎないではないか」とか、「個室群住居の存在を支える住居以外の施設の実現性について、個室群住居の提唱者は何らの責任も持ち得ないじゃないか」といった具合である。
 しかし、論理的な厳密さで見田が挿入したただし書きを借りるなら、黒沢が論じようとしたことは「極限の未来」における「もしも可能であるならば」という前提での方法論なのであって、この現実との関係における可能・不可能といった問題だけではないだろうと私は思うのである。そのことを論理の非現実性と指摘する向きもあるかもしれないが、逆にそれを強靱さと感じる立場もあるということである。
 つまり個室群住居は、単に個室あるいは住居だけを問題にしているのではなく、それらと相互補完的な関係にある他のビルディング・タイプの変化を前提にできるような「極限の未来」において、社会全体の仕組みまでをも逆照射する射程を示そうとした考え方だと思うのである。いいかえれば、黒沢が個室群住居という言葉で設計しようとしたものは、単に個室でも住居でもなく、個室群住居という考え方を可能ならしめる社会そのものなのであり、その一見して不可能かと思われる作業への意志を内包した潔さに、私は魅了されたと思うのである。
 そしてやがて、自分自身の直感がとらえた問題をまさに自分自身にとっての切実な唯一性としてとらえ、それへの解答にいたる回路を自分自身にとってのもうひとつの可能な現実として構成し、そしてその回路のどこかの部分を自分が建築化していくのだ、といった抽象的言辞が私の中ではある種のヒロイズムとともに唱えられていったのだが、それはもはや個室群住居からの影響というには申し訳ないほどの、他愛もない「青春」の産物である。
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 実をいうと、私が個室群住居という考え方に魅入られたもうひとつの理由がある。より正確には、本当の理由というべきかもしれない。それは「わたしの個室・ヒロコの個室」という計画である。黒沢とヒロコさんとの新居である。古い日本家屋を改造して個室を二つつくり、まさに個室群住居生活を実践しようとした計画である。私は、その片方の部屋を写した一枚の白黒写真にイカれてしまったのである。『都市住宅』1971年11月号「個の意識と個室の概念」では小さく、同誌1976年3月号「総特集|カタログ『都市住宅』3」では一頁大に掲載された、あの写真である。
 それは黒沢の部屋である。手前にベッドがひとつ見えて、シンプルなテーブルに椅子がふたつ。窓からはいる淡い光でZライトが滲んでいる。内開きのドアからも光がさしていて、平面図をみるとその先が縁側になっている。日曜大工ででも作ったかのような本箱があって、壁にはカレンダーがぶら下がっている。まったくどうということのない部屋なのだが、「青春」期の私はこれにまいってしまったのである。
 この、単に光の状態だけを表わしたかのような写真に自分が何を感じたのか、もはや正確には思い出せないが、しかし、そこにヒロコさんの影、すなわち黒沢の対幻想の相手の存在を読み取っていたことは確かだろう。廊下の向こうにはもうひとつのドアがあって、そこにヒロコさんの部屋がある。まるで二人の兄弟が勉強部屋をもらったかのようなこの空間で、男女の共同生活が一体どう営まれるのか、当時の私にうまく想像できていたとは思わないが、個室と個室のあいだに漂う境界線の不思議な感触だけは感じ取っていたように思う。個室が個室として閉じるのではなく、他者とつながることへの切ない願望を抱いて佇んでいる。そんな感じである。あるいは、この部屋が私自身の個室であり、ドアの向こうには暮らし始めたばかりのトーキョーの闇が広がっていて、さらにその先のどこかに自分自身の対幻想や共同幻想を夢見ていた、といったおセンチな描写をすべきかもしれない。いずれにしても、この一枚の写真に満ちた人恋し気な気配が、私の脳裏には焼きついてしまったのである。
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# by yoshiaki-hanada | 2014-06-09 21:18 | ●花田の日記

「闘う人」とその「後ろ姿」 追悼・鈴木博之先生

花田佳明(神戸芸術工科大学教授)/『日土小学校研究 02』(日本建築学会四国支部、2014年3月刊)所収

 鈴木博之先生が亡くなったという第一報が入ったのは2月6日の夕刻だった。日土小学校の保存再生活動をご一緒した愛媛の武智和臣さんからの電話連絡。自分の耳を疑った。その日は神戸芸工大の卒業制作展前日で、私は会場のひとつである原田の森ギャラリー(元の兵庫県立近代美術館。村野藤吾設計)で学生たちと設営作業を行なっていた。何かの間違いではないかと思い慌ててメールをチェックしたら、東大の建築史研究室から発信された「鈴木博之先生の訃報」が転送されていた。ほぼ展示作業が完了した美術館の中には学生たちの賑やかな声が響き、外は暗くなりかけていた。明日から始まる華やかな展覧会に向けざわついていた気持ちが一瞬にして静かになった。
 私は鈴木先生の研究室に所属したことはない。若き専任講師であった先生による西洋建築史の授業を東大の学部時代に受講し、あとはその著書と建築雑誌等での論稿の言葉を、天から降ってくる宝物と思い拾い集めてきただけである。そんな私が先生の追悼文を書いている。このような分不相応なことができるのも、すべて日土小学校の保存再生活動に鈴木先生が参加して下さったお陰である。
 そのプロセスの中で、私は幸運にもいくつかの鈴木先生像を目に焼きつける機会を得た。もちろん極めて個人的で一方的なものである。しかしそれらの像を重ねてみると、先生の穏やかで柔らかな物腰とは対照的な「闘う人」と、その背後にあって少し影のある「後ろ姿」とが浮かんできた。この2つの言葉を手がかりにして、断片的な記憶とそこから引き出した若干の推論を、出来の悪い学生による最後のレポートとして書き残したい。

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# by yoshiaki-hanada | 2014-05-26 02:10 | ●花田の日記

近代と非近代を巡る瀬戸内の旅

【丹下展カタログ用原稿】

近代と非近代を巡る瀬戸内の旅
神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 瀬戸内海周辺の町には、伝統や歴史や地域といった言葉と現代の建築デザインとの関係をどう捉えるかという問題に対する興味深い解答が点在している。
 たとえば、丹下健三が設計した広島ピースセンター、倉敷市庁舎、香川県庁舎、今治市庁舎、香川県立体育館などは、コンクリートによるル・コルビュジエ的造形を、伝統的木造建築や「縄文的」「弥生的」などの言葉を手がかりに変形しようとして展開された実験の成果だ。建築における近代的なるものに、非近代的なるものがもつ意味を付与する作業と要約できる。
 それに対し、浦辺鎮太郎の大原美術館分館や倉敷アイビースクエア、山本忠司の香川県立武道館や瀬戸内海歴史民俗資料館、大江宏の香川県文化会館や香川県立丸亀武道館、日建設計の別子銅山記念館などは、日本の伝統的建築や自然の風景を出発点に据え、それらをさまざまに変形することによって新しい建築を生み出そうとした実験の成果だ。こちらは逆に、建築における非近代的なるものがもつ意味を、近代的なるものを通して漂白する作業と要約できる。
 そしてもうひとつの興味深い解答が、愛媛県の八幡浜市役所で学校建築や病院関連施設を設計した松村正恒の実践である。
 彼の作品には、非近代的な意味を担う建築的要素は登場しない。例えば日土小学校にはセメント瓦の切妻屋根がのっているが、雨の多い南予地方という土地柄ゆえの必然であって、地域性の表現とは思えない。また、いかにもインターナショナル・スタイル風の水平連続窓が走る立面だが、木造とスチールのハイブリッド構造に基づくカーテンウォールであり、構法上の発想が全く違う。むしろ、建築計画の新しさや建築的構成の明快さを、松村が最も合理的だと考える建築的語彙で抒情的に語り尽くしたというべきだろう。
 彼は後に、「伝統とは、形式の問題ではない。心構えの問題だ」「形は結果である」「伝統を越えたとか、越えぬとか、棒高跳びとは、ワケが違う」「形式だけ拝借して、伝統をうけついだなどとは恐れ入る」(「伝統論私見」『国際建築』1965年1月号)といった言葉を残しているが、そこには意味論的な操作に頼り建築をデザインすることへの疑念が垣間見える。松村のいう「心構え」とは、建築における近代的なるものを、語の本来的な意味においてさらに近代化する意志のことだと要約でき、上記2つの解法とは全く別の方角からの挑戦だったように思われる(詳しくは拙著『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』)。
 瀬戸内で繰り広げられた近代と非近代を巡る実験から学ぶものは実に多い。よい旅を!
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# by yoshiaki-hanada | 2013-08-24 10:34 | ●花田の日記

都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-

『建築と社会』2006年4月号に書いた「都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-」という文章をアップしておく。ツイッターで紹介した「都市という罠」と関連づけて読んでいただけると嬉しいので。これも目にとまりにくい雑誌でしょうし。
 曖昧という批判を覚悟で言えば、金沢21世紀美術館も「外部」に頼ることのない「内部の最大化」による優れた建築ではないかというわけです。

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都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-

神戸芸術工科大学
デザイン学部 環境・建築デザイン学科
教授 花田佳明

 都市史や都市社会学の書物を繙くまでもなく、都市という言葉は、その前に種々の接頭語がつくことで、中世都市、植民都市、田園都市、理想都市、情報都市、世界都市など多種多様なヴァリアントに変身する。それらの共通部分としての都市一般を規定することの難しさは容易に想像できるだろう。
 しかし、高層ビルが建ち並ぶオフィス街の風景から、猥雑な歓楽街や荒涼とした埋め立て地、さらには詩や小説や映像などが喚起するイメージを思い起こせば起こすほど、都市という言葉に拠らずしては手にすることができない何かが自分の中にあることも確かな事実だ。私にはその一般化など到底無理だが、幸い、編集委員会からの依頼文には「私にとっての都市の魅力」を論じろとある。そこで以下、金沢を巡る2つの話題を提供し、都市という言葉に対する若干の個人的考察をおこないたい。

金沢21世紀美術館と「金沢」
 昨年の冬、雪の舞う金沢を訪れ、妹島和世と西沢立衛が設計した金沢21世紀美術館を見学した。それは、美術館を訪れてこれほど楽しんだのも、また現代の公共建築を訪れてこれほど幸福な気持ちになったのも初めてといいたくなるほど印象深い体験だった。
 ご存知の通り、この建物の構成は、大きさや仕様の異なる直方体の展示室を距離を置いて配置し、それらを円形のガラス面で包み込み、全体にフラットな屋根を架けたものだ。外周に沿ったドーナツ状の空間が無料のロビーで、そこから内側の有料展示ゾーンにはいっていく。
 展示室どうしの隙間が通路になっているが、それは網の目のようになっており、経路選択の幅が広い。次はどこへ行くかという意志決定や、ここはどこかという位置確認を迫られる。案内図を手にしていても、迷ったり展示を見落としたりすることもあり、順路に沿って鑑賞する従来の美術館とは異なる行動や感情が誘発される。それが実に新鮮な体験だった。
 さて、この隙間を都市の街路に、その空間体験を都市における逍遙体験になぞらえることは容易なことだ。「都市のように建築をつくる」という常套句も思い出す。しかしそれ以上に私が驚いたのは、金沢の他の場所を歩くとき、金沢21世紀美術館での体験が私の中で繰り返し甦ったということなのである。
 近江町市場の賑やかな商店をひやかし、ひがし茶屋町周辺の細い路地を彷徨い、犀川のほとりの静かな河原にたたずみ、泉鏡花記念館で幻想的な小説の筋を思い出し、そして五木寛之も通ったという喫茶店ローレンスで60年代の雰囲気を追体験しているとき、金沢21世紀美術館の空間が私の頭の中に幾度も現れた。そしてそのつど、自分のいる場所が、金沢21世紀美術館の空間や、開館記念「21世紀の出会い」展の展示作品を通して夢想した何ごとかとつながっていくような感覚に包まれたのだ。それは実に心地よい体験だった。

つながる時空間
 意識の中にそのような接続感を生んだ要因として、まずは金沢21世紀美術館の物理的・空間的特性があげられるだろう。展示室と通路の関係が建築物と道路の関係に似ていること、外周すべてが透明なガラスであるために建物内部の構成が外へ展開していく感じが増幅されること、金沢市の中心部というロケーションが市内の他地域との関係を強く感じさせることなどである。
 さらにこの建物が美術館であり、そこでの展示作品や活動が、そもそも「いま・ここ」ではない時代や場所とのつながりを連想させる機能をもっている点が重要であることはいうまでもない。
 これらに加え、私は、先にあげた金沢市内の別の場所も、物理的・空間的・機能的に、何がしか金沢21世紀美術館と同じような特性をもっており、その構造的類似性によって、離ればなれの場所が私の頭の中でつながったのだろうと想像した。いずれの場所も、路地や迷路といった言葉を連想させる空間性をもっているし、交易、商売、文化などの領域での活動を通して外部世界とつながっていることは明らかだ。
 そして私の中では、こういう感覚と「都市」という言葉とが結びついた。つまり私は、「都市のように」つくられた建築の内部で「都市」を感じたのではなく、その外部において、「都市」という言葉へとつながる感覚を味わったのだ。
 他の時空間への接続感が「都市」という言葉をなぜ引き寄せるのかは説明できない。それこそ「私にとっての」意味しかもたないのかもしれない。しかし結論を先にいえば、私は、そのような現象こそが「都市」という言葉のあらわすものではないかと思うのだ。

もうひとつの「金沢」
 もうひとつの金沢の話。そこに滞在している間中、思い出していた小説がある。吉田健一の『金沢』だ(1)。主人公と金沢の骨董屋との交流を独特の文体で描いた一種のユートピア小説である。それは、次のような文章によって金沢という空間への侵入を開始する。

これは加賀の金沢である(S1)。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの町を廻って展開することになるようなので初めにそのことを断って置かなくてはならない(S2)。併しそれで兼六公園とか誰と誰の出身地とかいうことを考えることもなくて町を流れている犀川と浅野川の二つの川、それに挟まれていて又二つの谷間に分けられてもいるこの町という一つの丘陵地帯、又それを縫っている無数の路次というものが想像出来ればそれでことは足りる(S3)。これは昔風でも所謂、現代的でもなくてただ人間がそこに住んで来たから今も人間が住んでいる建物が並ぶ場所でそれ故に他の方々そうした場所を思わせることからそっちに話が飛ぶことがあるかも知れない(S4)。そのことを一々言う必要もなさそうなのはどこへ飛んで行こうと話は結局はこの町に戻って来る筈だからであるのみならず或る町にいることで人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない(S5)。我々がヘブリデス諸島を見るのは他所に寝ていての夢の中である(S6)。(S1からS6の記号は引用者記入)

 さまざまな時空間が交錯する不思議な印象の文章である。そのメカニズムは、たとえば次のように説明できるだろう。(2)
 まず、S1によって小説の舞台が金沢(=W1)だと指定される(以下、Siによって指定された場所が保証する世界をWiと書く)。
 しかし、S2に進むやすぐに、そのことは柔らかく否定され、W1を包含するより広い世界(=W2)への展開可能性が示唆される。
 さらに、S3で舞台は金沢に戻る気配を示しつつ、しかし、「二つの川」「二つの谷間」「無数の路次」という一般化した要素によって場所が規定されており、W1よりは限定の緩やかな世界(=W3)へと拡張される。
 S4では、広い世界との接続を暗示しつつ、しかも、「昔風でも所謂、現代的でもなくて」と時制の曖昧化もおこなわれた世界(=W4)が示される。
 つまり、W1 →W2→W3→W4と、世界が空間的・時間的に拡張されていく。
ところがS5では、「この町に戻る」とW4からW1への世界の縮小が宣言されたかと思うと、逆に、「人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない」とW1からW4への世界の拡張が表現され、W1からW4までを含み、しかもそれらの順序関係を不問にする上位の世界(=W5)が示される。
 そして最後のS6では、金沢という具体的な場所から始まったW1からW5までの世界の振幅全体を、より大きな「夢の中の世界」に包み込んで終わるのである。
 この導入部は、『金沢』という小説全体の構造を実に上手く暗示している。詳しくは全体を読んでいただくしかないが、次々と大きさの異なる世界を重ね合わせ、仮構の世界が築き上げられていく。個々の世界だけでは意味をなさない。かといって、それらの集合によって明確な全体が構成されるわけでもない。あくまでも、世界間での移動や他の世界との接続が問題にされているのである。
 講談社文芸文庫版の解説で、四方田犬彦は、「優れた文学作品はその中頃のどこかにみずからの雛型を隠しているものである。『金沢』を特徴づけているのはそのどの部分をとり出してもそこに全体が反映されているような、自足した同一律である」と書いているが、Wi間に生まれた関係は、まさに『金沢』という「全体」との「自足した同一律」をもつ「部分」だといえるだろう。

部分と全体
 さて、金沢21世紀美術館によってつながった時空間と、『金沢』におけるWiを対応させて考えるなら、金沢21世紀美術館が生みだしたネットワークと『金沢』という小説の構造は似ているということができるだろう。その特徴を強引に以下のように一般化したい。

 ・全体像は明示されない。
 ・部分は詳細に把握できる。
 ・部分には相互につながっていく仕組みがある。
 ・部分の集合は部分と似た構造をもつ。
 ・どの部分がつながっていくか、どんな速度でつながっていくか等は解釈者によって変化するが、一定の条件を満たすとき、特徴的なネットワークが生みだされる。

 このような状況に出会うとき、私の中に「都市」という言葉が浮かんでくる。内部空間か外部空間か、どんな規模か、3次元の空間か、言葉や映像で描かれた作品かといったことは関係ない。「特徴的なネットワーク」という曖昧な表現が問題をスタート地点に戻す感じはあるが、それこそが「都市」という言葉の「私にとっての魅力」であり、さらにいえば、他者とのあいだに期待するコミュニケーションについての私の価値観でもある。
 部分と全体が似た構造をもちながらつながっていく感じは、町家が集合して都市を形成している姿が具体的でわかりやすい。大通りから路地にはいり土間に入っていくときの、あるいはその逆方向でのスムースな相転移感とでもいう感覚だ。それが途切れたところで「都市」が終わる。
 また、「いま、ここ」でない時空との接続のためには、当然のことながら、空間の中に「歴史」が存在していることが不可欠だ。その場所に過去の手がかりがあれば、人はそれを経由して他の世界へジャンプできる。

「都市」という言葉の罠
 上記のような接続感を生む具体的な例を挙げ始めればきりがない。アルド・ロッシの建築、そのテキスト、イタリアの山岳都市、東京の木造アパートにはさまれた路地、ジョセフ・コーネルの箱の作品、伊達得夫の詩人たちとの交友録『ユリイカ抄』に登場する小さな空間、町家の薄暗い奥座敷、オランダの都市をつなぐグリーンハート、インターネットによるスモールワールド・ネットワーク…、と書けば書くほど「私にとっての」という話になって、当然のことながら恥ずかしくなる。
 逆に、「私にとっての都市」ではないものを記す方が良いかもしれない。
 たとえば、建築家は、外部に対して閉じた表情の住宅デザインを説明するとき、「都市」という言葉を乱発する。具体的な周辺環境から抽象的な社会状況までを一括りにして「都市」と呼び、それにマイナスの評価を与えることで、自身の設計した住宅の窓の少ない外観や中庭型の平面計画を正当化する。「都市」という言葉を仮想の敵と位置づけ、それから身を守るというイメージを導くわけだ。
 あるいは、「都市再生」とか「都市再開発」といった語法は、「都市」という言葉を無定義のまま使うことで、何を再生し何を再開発するのかという行為の対象や、さらには行為の主体までを隠蔽する。「再生」の対象としての「都市」と「再開発」の対象としての「都市」とはいったい何が違うのだろう。そんなことすらわからない。ここでは「都市」が都合の良い味方となる。
 こういった事例に共通するのは、「都市」という言葉によって、曖昧な主語や目的語としての「全体」が仮定されている点だ。しかし実際にはそのような「全体」は存在しない。そこに「都市」という言葉の危険な罠があると私は思う。
 存在するのは「都市」的な「部分」だけなのだ。それらは3次元の空間として具体化したり、言葉によるテキストであったり、さまざまな姿をとるだろう。しかし、それらが「いま、ここ」以外の時空間と接続していく力をもつ限り、「都市」は、無限の、しかも虚構のテキストとして人々の中に生成し続けるだろう。私たちはそのような「都市」だけを認めるべきなのだ。


(1)吉田健一『金沢』(河出書房、1973年)、あるいは、吉田健一『金沢・酒宴』(講談社文芸文庫、1990年)。
(2)拙稿「アンリアル・シティ─テキストの虚構性について」『建築文化』(1983年4月号)で同様の分析をおこなったことをお断りしておく。
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# by yoshiaki-hanada | 2012-01-07 15:52 | ●花田の日記

このサイトについて

花田研究室のこれまでと現在の活動紹介、卒論・卒制・修論等のタイトル一覧、花田が日々考えているあれやこれやなどを紹介するサイトです。いずれの記事へもコメントは自由。ただし、私が直接存じ上げない方は、簡単な自己紹介をしていただくようお願いします。なお管理者(神戸芸術工科大学花田研究室)が内容・形式等に問題があると判断した場合、削除することがあります。
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# by yoshiaki-hanada | 2011-12-31 23:59 | ●花田の日記

「学級新聞みたいな新聞」(『室内』1999年11月号)

地方紙の重要性を内田樹が書いている
それで思い出したのが、日土小学校のある愛媛県八幡浜市での経験。
小さな町なのに新聞が3紙も出ていたのだ(今はおそらく2紙)。
そのことを『室内』1999年11月号の「百家争鳴」欄に書いたことがある。
『室内』はもうないし、昔の文章で文体がやや恥ずかしくもあるが、勝手に再録しておきます。
後日、この記事を読んだ東京在住の八幡浜出身の方から、『室内』の読者欄に懐かしいという投稿があった。

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学級新聞みたいな新聞

花田佳明

 7月24日、日本建築学会四国支部50周年記念事業の一環として、愛媛県八幡浜市で、「子どもと学校建築‐松村正恒の作品を通して‐」というシンポジウムが開かれた。松村正恒とは、蔵田周忠や土浦亀城のもとで学んだ後、八幡浜市職員として、昭和30年代、日土小学校などの斬新な木造モダニズム建築を設計した建築家。数年前、「あいつは泣きながらシャッターを切っていた」と噂がたつほど彼の建物に感動した僕は、それ以来、松村研究に入れ込んでいるが、今回はパネラーとして参加し、彼の魅力を喋ってきた。
 松村について知りたい方は、『再読/日本のモダンアーキテクチャー』(彰国社)という本の中の僕の文章でも読んで下さいとちゃっかり宣伝しておくとして、今回紹介したいのはその後日談。シンポジウム終了後、いくつかの地元新聞が記事にしてくれたのだが、そのうちの一紙の話である。
 「八幡濱新聞」という名のその新聞を受け取ったとき、僕は思わず声に出して言ってしまった。「えーっ、こんな新聞あるの!」。B3サイズ1枚きりの日刊紙。薄い紙の両面にびっしりと印刷されている。トップが今回のシンポジウム。「建築家・松村正恒の軌跡しのぶ‐今も全国にファンが…」と大きな活字が踊っている。記事の中に、「…をコーディネーター(調整者)に、パネラー(出場者)は…」という微笑ましい注を見い出して、僕の感激は高まっていく。
 目を移すと、「和気あいあい市民球技大会 800人の参加で快汗」、「朝採り野菜や骨董も 川之内地区初の試み『とうげ市場』」、「一番人気はアジ おさかな牧場初日は1600尾」等の町の話題。「日録 昭和の八幡浜」という連載には、昭和13年7月の市財政、あるいは南米への海外移住の宣伝映画会のことなどが書いてある。その他、エッセイ、4コマ漫画、連載小説、テレビ欄等があり、広告は地元関係ばかりで紙面の約4分の1。
 学生のひとりが、「学級新聞みたいですね」と名言をはいた。同僚の先生にも見せ、ふたりで、「こんな新聞が毎日出てるなんて、日本もまだすてたもんじゃないね」と頷き合った。そんな感想を、新聞を送ってくれた地元のOさんにしたためた。
 するとしばらくして、「その後の掲載記事がありますので、近々お送りします」と彼からのEメール。何だろうと思っていたら、またまた「八幡濱新聞」が送られてきた。開封一番、今度は思わず声を出して笑ってしまった。
 「卓上一言」という、天声人語みたいなコラム欄が、僕らの「…日本もまだすてたもんじゃないね」発言の引用から始まり、あのときのシンポジウムに参加した先生(僕です)から本紙へのお褒めの言葉が届いた 件がびっしりと書いてある。「わが身を褒めるは一のバカ」と自戒しつつも、うちは広告収入に頼る「盆暮新聞」とは違うのだ、地方紙はやはり大事だぞと啖呵のひとつもきってみた、そんな名調子のコラムだった。さらに「二面に関連記事」とあり、裏返すともっと大きな囲み記事。そこに、僕の手紙がファックスでOさんから送られてきたという種明かし。そして、その手紙とシンポジウム記事の一部が再録されていた。
 自分の書いた文章がこんなに喜ばれたのは、生まれて初めての経験である。正直言って、こちらも嬉しくて仕方がない。いったいどんな人が作っている新聞だろう。いずれ編集部を訪ねてみたいと思ったりするが、今は勝手な想像を楽しんでいる。
 なお今回は、「ゴミ処理早期対応・受入れを 関係7町の議長が市に要望書」という見出しの、ダイオキシン削減問題がトップ記事。再び同僚に見せ、「民主主義の原点だよねえ」と頷き合ったのである。
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# by yoshiaki-hanada | 2011-10-29 13:06 | ●花田の日記

『設計の設計』の藤村龍至さんの文章について

『設計の設計』(INAX出版)の中の藤村龍至さんの文章中に私のブログへの言及があることに気づき購入した。
私のブログが取り上げられているのは、「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節(143〜149頁)の中の「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」という部分だ。一読し気になった点が少しあるので書いておきたい。いずれもその内容ではなく、本づくりを巡る初歩的作業と判断に関することばかりだ。

(1)事実誤認
149頁★4に私がアトリエを主宰していると書いてあるが私はそのようなことはしていない。著者あるいは編集者は確認作業をおこなったのだろうか。

(2)奇妙な日本語
「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」の冒頭(143頁)に「花田は・・・批判を述べて下さっています」とあるが、「花田」という敬称を略した表記と「下さる」という敬語の組み合わせは奇妙な日本語である。同様の表現は149頁の★4・★6にもある(「花田は・・・もっておられ」「花田は・・・くださっています」)。単なる日本語の間違いとはいえ、書かれた本人としては気持ちが悪い。
そもそもこのような文章において敬語表現を用いないことは常識だろう。実際、この節における濱野智史氏と松川昌平氏についての言及では、「濱野は・・・と指摘した上で、・・・と言います」とか「松川昌平は・・・として批判する」といったように一般的表記になっている。校正作業の中で、著者も編集者もこの奇妙な日本語に疑問を感じなかったのだろうか。

(3)ウェブサイトに書いた文章へ言及することがもつ問題への配慮の欠如
藤村氏が言及しているのは私が自分のブログに書いた文章である。私が勤務する神戸芸術工科大学でおこなわれた彼の講演会の前後に、ブログで藤村氏の文章を分析したものだ。そこからいくつかのフレーズが引用され藤村氏が反論等をおこなっている。
たしかにURLが明記してあるので読者は私の文章を読むことはできる。しかしこうやって引用されてみると、わざわざこのURLをパソコンに打ち込み私の文章を読む人がどれほどいるだろうかと考え込まざるをえない。
もちろん、書物からの引用であっても読者が原典を見るかどうかわからないという意味では同じである。だから私が気にするのはそのことではない。
「10+1」のウェブサイトに掲載されていたときなら、私のブログのURLにはリンクが張られクリックするだけで読むことができた。したがって、議論も一定のバランスの中で成立していただろう。しかしURLを示す記号は書籍化された途端にリンクが切れ、ただの文字になってしまう。その際に生じるアクセスへの意志と機会そして情報量の圧倒的な減少についての配慮が全くないことが気になるのだ。原文の一部掲載等、いろいろな工夫があったはずだ。ウェブサイトの文章を書籍へと固定化する際に生じる問題について、著者と編集者は何かを考えたのだろうか。
ちなみに、松川氏については本書の中に収められた文章への言及だが、濱野氏についてはウェブサイト掲載の文章への言及であり、私と同じ問題がある。

(4)そもそもなぜ「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節が必要なのか
藤村さんの言う「超線形設計プロセス」について私がブロブで指摘した内容は、本書に書かれた彼の「超線形設計プロセス」に関する文章においては言及も反映もされていない。ならばどうして「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」という項をわざわざ別に設ける必要があったのだろう。採用に値しない内容だと判断した言説なら無視すればよいだけのことである。学会等の投稿論文査読において「条件付き採用」とか「要再査読」になったのとはわけが違う。どのような論理的欠陥を指摘されようとも、著者が正しいと思う主張を書けばよいだけのことだ。濱野氏と松川氏からの指摘についても同様の扱いがなされている。したがって、「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節をわざわざ設けた著者と編集者の考え方が私には理解できない。

繰り返すが、以上指摘したことはすべて、書かれた文章の内容ではなく、本づくりにおける初歩的作業と判断に関する問題ばかりだ。余計なひと言になるが、藤村さんと編集者は、この文章に関する限りもう少し丁寧な仕事をすべきだったと私は思う。「内容」についての感想は、藤村さんが言及した私の以下の2つのブログ記事ですでに述べたことから特段の変化はない。お読みいただければ幸いです。

勉強会で考えたこと(2010年7月4日)
その後考えたこと(2010年7月9日)
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# by yoshiaki-hanada | 2011-10-01 15:52 | ●花田の日記

110918 夏の思い出(3)とも言い難い身辺雑記

東京にいる間にヨコハマトリエンナーレ2011にも行った(ところで、ヨコハマトリエンナーレ、横浜トリエンナーレ、よこはまトリエンナーレといろんな表記があるがどれが正しいんだろう)。

会場が何箇所かあるわけだが、メイン会場の横浜美術館はつらかった。
ひとつの問題は美術館そのものの空間だ。これは如何ともし難いだろうが、内外ともに大仰なデザインは作品を殺す。1989年竣工で丹下事務所の設計であり、翌1990年竣工の都庁にそっくりだ。
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そこにごった煮のように並べられた美術品を見ていると、全部が田中功起の作品なんだという悪い冗談すら思い浮かぶ。
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展示計画ももうひとつ。集められた多種多様な作品群の相互関係がわからない。逆にわかりやすすぎて困る例も。石田徹也の隣にマグリット。どういう関係があるんだろうと思うと、両方に「階段」がある。それで並べたんですよね、きっと。そうは思いたくないけど。
そういう空間が団体の小・中学生や家族連れでごった返している光景は、残念ながらとても貧しいものだった。
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一方、日本郵船海岸通倉庫(Bank ART Studio NYK)会場はとてもよかった。古い倉庫に手を入れた空間が何より素晴らしく、それにマッチした作品が置かれている。子どもたちを連れてくるならこちらにすべきだ。
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最後に1階の本屋さんで、『アーバンデザイナー 北沢猛』を買った。
神戸にもこういう人がいてほしい。
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# by yoshiaki-hanada | 2011-09-18 09:14 | ●花田の日記

110917 夏の思い出(2)とも言い難い身辺雑記

ゼミ旅行のあとは、ぐだぐだになった。
8月14日から母親の初盆のために実家に帰ったまではよかったが、15日午後にお坊さんがお経をあげて帰った途端、へなへなと倒れ込んでダウン。
これが熱中症かと思って冷たいシャワーを浴びたら唇や掌が白くなる。
何だかおかしいと思い高校の同級生の医者(整形外科!)に電話。
すぐ来いというので病院に行きとりあえず熱を測ると38.7度。
そこに冷たいシャワーだから無謀だった。
血液検査もしたが問題はなく、いわゆる夏風邪だろうということで点滴を受け薬をもらう。
しかしウィルスだから抗生物質は効かない。
「まああとは頑張れ」という感じで送り出される。
結局それから1週間、寝込んでしまった。
お墓の掃除もできず予定を早めて帰神。
帰ってからも熱と下痢。
「夏風邪」なんていう言葉では実態をあらわしてない。
冬のインフルエンザのような強烈さだった
こういうときこそツイッターだと思い毎日の様子も呟いてみた。
枕元に積んだ本も少し読んだ。
・『大学とは何か』(吉見俊哉、岩波新書)は大学の歴史に関する基礎知識獲得に格好の本だった。
・『人間と国家 上・下』(坂本義和、岩波新書)には東大紛争の章に特別補佐仲間として鈴木成文先生の名も登場。
・『昭和二十年夏、僕は兵士だった』(梯久美子、新潮文庫)には、元海軍士官・池田武邦氏へのインタビューもあった。

そうこうしているうちに何とか回復。3キロ痩せていた。


8月23日(火)からは建築学会大会で上京。
学科の同僚と受賞した教育賞の講演も(代表で川北さんがやってくれたのでらくちん)。
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会場となったのは「早稲田キャンパス」。
理工学部のある「西早稲田キャンパス」にはもちろん何度か行ったことがあるが、大隈講堂のあある「早稲田キャンパス」は大学受験のとき以来だと気がついた。あれから30数年。試験が終わり教室に夕陽が射していた光景を覚えている。
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夕方は、新宿オペラシティの「家の外の都市(まち)の中の家」展へ。
アトリエワンの縮尺2分の1模型は楽しみだったのでじっくり見たが、「ハウス&アトリエ・ワン」でどうしてもスケールが間違っているように思えてならない。
よおーく観察して原因に気がついた。
本物は鉄骨造の建物で柱は白く塗ってある。しかし模型は木の素地のまま。それが縮尺2分の1ともなると3〜4寸の木の柱に見える。しかし実際は10数センチ角くらいはあるだろうボックス柱。その差が奇妙な印象を生むのである(たぶん)。

夜はアイシオールの事務所にお邪魔してちょうど届いた山海の珍味のお相伴にあずかった。ごちそうさまでした。
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# by yoshiaki-hanada | 2011-09-18 00:51 | ●花田の日記

110915 立松久昌さんのこと

コンフォルト編集長の多田君枝さんが、9月14日が立松久昌さんの命日だったとツイートされている
情けないことに僕はすっかり忘れており、思わずリツイートした次第。
さらに多田さんは、立松さんが編集した伊藤ていじの『建築家・休兵衛』のことに触れている
「下地がないと読みづらいかもしれないけれど、私はあの本、大好きなのでした。伊藤ていじ先生の文章、読み終えてしまうのがもったいないほどです」と。
そうか、立松さんといえば多田さんはこの本を挙げるのか。
実は僕にとってもこれはとても思い出深い本なのだった。

立松さんの名前を知らない人も多いだろう。
1931年生まれ。早稲田大学文学部を出て彰国社へ入社。その後『住宅建築』の創刊に参加し、編集長を長くつとめた方である。
伝説の編集者のひとりといってよいだろう。

僕は2度しかお話ししたことがない。
今考えると後悔だらけだ。
最初は2001年の秋。
僕の研究室出身の波多野章子さんは現在『住宅建築』編集部で活躍しているが、当時その入社の可能性について同誌と関係の深いある建築家の方に聞いたところ、「立松さんに話しておいたから」とおっしゃるので打診の電話を入れたのである。
波多野さんが修士2年の秋。いっしょに中国地方へ木造郵便局探しの旅に出ていて、山口県から電話した。
いきなり「そんな話聞いてねえなあ」とべらんめい調で言われあせったが、「そんなはずはないですから」と僕は必死に食い下がった。そして、波多野さんは立松さんが指定した新宿の「昼でも飲める店」で一対一の面接を受けることになり、どういうわけか(いや、当然のことながら、笑)合格した。

実はその前から、神戸芸工大で鈴木成文先生から立松さんの名前は聞いていた。
お二人は大の親友なのである。
自分で書くのは恥ずかしいが、「立松さんが花田さんの文章をほめてるよ」というような話を、鈴木先生からときどきうかがっていたのだ。

だからいちどお目にかからねばと思ってはいたが、別のルートから「とても怖い人だ」という噂も聞こえてきて、気の弱い僕はなかなか連絡を入れられず、上記の電話が初めて立松さんの声を聞く機会になったのだ。

実際にお目にかかったのはその少しあとの2001年12月。
住宅建築編集部の忘年会に初めて参加したのである。
両国のちゃんこ屋の2階。波多野さんも一緒だった。
その日の午後、まだ表参道にあったコンフォルト編集部に行き、そのまま多田さんと豊永さんに連れて行かれたということだったかもしれない。

そこで初めて立松さんに挨拶した。
初対面にもかかわらず優しくお相手して下さり、『住宅建築』に集ういろいろな建築家の方に紹介された。そして最後に「これの書評を書け」と『建築家・休兵衛』を渡されたのだ。
発行日は2001年12月25日。まさにできたてほやほやの本だった。

その頃『住宅建築』には「私の本棚から」という見開き2頁のコーナーがあり、そこに載せるからということだった。
僕も1997年2月号で「松村建築を知るために」と題して松村正恒関連の本について書いていたので多少要領がわかり、嬉しさもありで快諾した。

ところが帰りの新幹線の中で読み始めても、なんとも頭にはいらない。
多田さんは「下地がないと読みづらいかもしれないけれど」と書いているが、とにかく「困ったなあ、えらいこと引き受けてしまったなあ」というのが正直な気持ちだった。

それでも何とか書き上げ、2002年7月号に掲載された。
もう何も思い出せないが、年末に頼まれて掲載が翌年の7月号だから、よほど苦労したのだろう。
「合格」だったのかどうかもよくわからない。
手元には傍線や疑問符をいっぱい書き込んだ『建築家・休兵衛』が残っているだけである。

そして立松さんは、翌2003年の9月14日に亡くなった。
彼が愛した母校・麻布学園の講堂で開かれたお別れの会に出席した。
きちんとお話をうかがっておくべきだったという思いは、1年後にいただいた『追悼 立松久昌』という冊子でほんの少し解消したが、いうまでもなく後悔の方が何倍も大きい。

恥を忍んで立松さんからの宿題への答案を貼っておきます。

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人を語って建築を論ず/『住宅建築』2002年7月号
神戸芸術工科大学助教授 花田佳明

 伊藤ていじ著『建築家・休兵衛』を私の本棚から取り出し、御紹介したいと思います。本書は、飛騨高山の吉島家7代目・休兵衛こと吉島忠男さんについての物語です。と書くと、まだお読みになってない方で、吉島家住宅も吉島忠男さんの作品も、そして著者の伊藤ていじさんのことも、さらには「建築Library」というシリーズをもよく御存知の皆さんなら、それらが組み合わさって生まれた本書に対し、あらかじめひとつのイメージを抱かれるのではないでしょうか。つまり、思わず姿勢を正したくなるような厳格な建築家の物語を。少なくとも私はそんな予想のもとで読み始めました。しかし、最初の頁からその思い込みは打ち砕かれ、意外な展開に驚きながら途中で引き返す手だてもなく、そのまま蟻地獄の中に落ちていったという次第です。
 私は何に戸惑ってしまったのか。それは、伊藤ていじという名代の建築史家が描く吉島忠男という建築家の特異な(と私には思えた)姿と、そして、伊藤ていじが吉島忠男に注ぐ眼差しの尋常ならざる(と私には思えた)熱さなのだと思います。言いかえれば、建築を論じることを放棄したのかと思うほど人を語ることに情熱を注いだ本書を前に、それでよいのだろうか、いやそれもありかもしれないと、自分の中の根っこのひとつが揺さぶられてしまったということだろうと思うのです。
               □
 とにもかくにも、私は吉島忠男さんがこういう方だとは想像だにしませんでした。何しろ驚いてしまいました。「こういう」とはいかにも曖昧で失礼な書き方ですが、読者としては本書が唯一の手がかりです。伊藤さんの言葉を借りるなら、吉島さんは「生まれてこのかた天動説の人で、他人は自分のまわりを廻っていると信じている」人物ということになる。
 日本大学の卒業設計はたいへんな物量と内容の出来なのに、自分が納得できるまで手を入れ続け、締め切りを過ぎても提出しない。卒業後勤めた丹下事務所では、「大将」として振る舞いすぎて周囲との関係がうまくいかず、勝手に事務所を飛び出してしまう。伊藤さんが吉島家住宅の維持を応援するためにと思って紹介した8枚程度の原稿書き仕事に、吉島さんは「明日の世界における建築創造」なる大論文を勝手に書いて喜んでいる。せっかく依頼された住宅設計も、予算やスケジュールを守らない。大きな借金を抱えていても欲しいものは買ってしまう。そして、気を揉み、後始末に走るのはいつも伊藤さん。
 詳しくは本書を読んでいただくしかありません。書かれているエピソードへの解釈もさまざまでしょう。本書の記述だけで吉島さんの人柄を判断できるはずもありません。しかし、少なくとも本書において伊藤さんが描いた人物像は、私が想像している一般的な建築設計者の姿とはかけ離れたものでした。むしろ、太宰治、田中英光、檀一雄、中村うさぎなんて名前を連想したことを白状します。つまり、生来的なある弱さを(意識的かどうかは別にしても)表現の武器にした作家たちです。いろいろな考え方はあるでしょうが、そのような方法によって獲得された作家性と建築とを結びつけず、あるいは、少なくとも結びつけたくないと思って生きて来たつもりの私としては、吉島さんの奔放さにも、そしてそんな彼につきあう伊藤さんの忍耐力にも、新鮮な驚きと激しい当惑とを感じたという次第でした。
 このような、吉島さんに対する私の驚きや当惑に拍車をかけたのが、本書で採用されたふたつの記述スタイルです。
 ひとつは、年長者が年下の、いわば弟子とも呼べる人物の人生を描いたという手法です。本書によれば、伊藤さんと吉島さんの出会いは1955年。伊藤さんが二川幸夫氏らと民家の調査・撮影に飛び回っていた頃だと思われます。伊藤さんは30代前半、吉島さんは高校1年生の若さです。それ以来、師弟関係ともいえる長いつきあいが続いてきた。
 したがって、その顛末を描いた本書は吉島さんの伝記だといってよいでしょう。しかし伝記といえば、一般には弟子が先生のことを書く、あるいは若い研究者が年長の歴史的人物のことを書くというのが相場です。いずれにせよ、そこでの視線は下から上へ向かっている。
 ところが、本書ではその関係が完全に逆転しているのです。つまり、師匠が弟子の人生を描いている。そういうことは、夭折した弟子を悲しむ弔辞くらいしか私には思いつかない。ボードレールとランボーの関係を連想しもしましたが、それはまあ悪い冗談にしかなりません。多少の例外があるとすれば、その家族が書いたような場合でしょうか。少し似ているなと思い出したのは、高橋たか子が亡夫・高橋和巳のことを書いた『高橋和巳の思い出』(構想社、1977年)という書物です。帯に「哀しい人」と書かれていたことを覚えています。文学のことと自分のことしか考えていない(と妻には思えた)和巳の日常生活を赤裸々に描き、その和巳を「哀しい人」と呼びつつも、しかしその才能を神格化し彼から離れることができなかった妻・たか子によるこの伝記に、批判も含めてさまざまな反響があったことは御記憶の方も多いでしょう。本書の不思議さに悩むあまりの愚行とお許しいただきたいのですが、高橋和巳=「哀しい人」=吉島さん、高橋たか子=伊藤さんという図式を連想して楽しみました。
 しかし、その場合ですら視線はいわば水平にしか走らない。上から下へと向かう視線によって書かれた本書が、きわめて異色の伝記だということは明らかでしょう。そのようなスタイルをとったことのなかに、吉島さんに対する伊藤さんの思いの強さが象徴的に表われていると思います。
 もうひとつは文体です。本書は、一種の私信のような、あるいは語りのような調子をもった文体で書かれている。伊藤さんの独白あり、伊藤さんと吉島さんの会話あり、過去の出来事を地の文とした回想ありといった具合です。ときには、いつのまにかカギカッコなしで、地の文全部が伊藤さんから吉島さんへの語りかけになったところまでありました。まさに、自由自在で名調子の語り口です。
 それは、決して論文の文体ではありません。つまり、ここにある言葉は、対象を深く解析し何らかの仮説を実証するような力はもっていない。本書をいくら読んでも吉島さんという建築家像が一意的に定義されるようなことは起こらない。また、批評の文体でもないでしょう。本書が、吉島さんという建築家や彼をめぐるさまざまな出来事に何らかの評価を与えるために書かれたとは考え難い。
 むしろ、伊藤さんはそれらの文体を捨てることで、何かを書くために考えるという思考のスタイルをも同時に放棄し、そのかわり、何かを考えるために語ろうとして、あるいは迷うために語ろうとして本書のスタイルを選んだといえるのではないでしょうか。本書の物語的な、あるいは口語調の文体からは、橋本治や山形浩生の仕事へとまたもや突拍子もない連想をしたのですが、それは、言葉の内容よりもむしろ形式がもつ破壊力に何かを賭ける心意気を共通して感じたからに他なりません。
 では、伊藤さんは本書によって何を考えようとしたのか。私たちは本書からいったい何を読みとればよいのでしょう。
 あとがきのなかで伊藤さんは、「『いま』この本をなぜ書くのか」を説明しています。その「理由はいたってかんたん」であって、「ひとつは、私は吉島さんの一家の人たちが好きなのである。/他のひとつは、義理だ」とあります。「義理」とは、もちろん7代目休兵衛・吉島忠男さんに対するものではありません。その父である先代の6代目休兵衛・重平さんに対する思いです。伊藤さんは、かつて重平さんが、「ありがとうございます。私の家の事をよく言って下さって」と「着物姿で正座をし、扇子をおかれておっしゃったあの作法を忘れてはいない」と書いています。その「さしずめ戦国武将なら命をかけて誓っているのと」同じような姿に心打たれたわけですね。
 したがって、伊藤さんには、先代から家と息子を託されたというような思いもあったに違いない。伝統という重みを背負い込んでしまった吉島家の人々の、深い苦悩を描きたいとも考えられたことでしょう。あるいは、歴史家と文化財、歴史家と建築家との新しい関係を示したかったのかもしれません。さらにいえば、吉島さんや吉島家と深い絆で結ばれてしまった伊藤さんにとって、それらを対象化する行為はもはや原理的に成立せず、吉島さんの伝記は、結局のところ伊藤さん自身の自伝(の一部)を語る作業だったと解釈できるようにも思います。そして、本書はそれらのことを実に巧みに成し遂げた。人を語った建築書という、希有な領域の可能性を示すことにも成功した。
               □
 しかし、です。こうやっていろいろ考えてきても、やはり冒頭に書いた戸惑いは私の中から消えないのですね。人を語ることと建築を論じることとの関係です。本書の中で、伊藤さんは吉島さんの設計した建築については多くをふれてはおられない。もちろんいくつかのエピソードは書かれているし、畑亮氏らによる美しい写真も添えられています。しかし、エピソードはあくまで完成までの人間関係の顛末記であり、逆に、写真は人のいない見慣れた竣工写真ばかりです。つまり、人を語るという手法をとった興味深い本書の中で、建築はいささか脇に追いやられているような感じがします。目的が違うよといわれるかもしれません。しかし、人と建築とはいわば車の両輪です。本書の意味は、建築の世界において人について語られることが少なかったことへの痛烈な批判でもあるでしょうが、そこに建築が登場しないなら相変わらずの一輪走行。片手落ち状態は同じなのではないでしょうか。その不安定さが本書に対する唯一最大の不満なのです。
 伊藤さんの数多い著作のうち、本書を読みながら思い出したのが、『現代建築愚作論』(彰国社、1961年)と『重源』(新潮社、1994年)です。『現代建築愚作論』の著者は「八田利也」という名前ですが、伊藤ていじ・磯崎新・川上秀光さんたちの共同のペンネームであることは改めて説明するまでもないでしょう。40年前の書物とはいえ、現代建築および現代建築家への辛辣な批判の書として、その価値は全く衰えてないといえるでしょう。また、『重源』については私のような歴史音痴に解説などできません。東大寺の再興に尽くした人物の物語。小説のような構成が話題になったことは記憶に新しいところです。
 変な連想ばかりしていますが、本書は、「八田利也」魂を芯にもち『重源』の語り口を纏って生まれた子供ではないかと思いました。だとすれば、と勝手な前提のもとで考えますが、『現代建築愚作論』において反語的に描かれた本来的な建築家像(の一端)を、伊藤さんは吉島さんに見い出しているということでしょうか。そして、重源においてそうだったように、吉島さんを語ることが「人生においては何が本当に重要なのか、その意味を考えさせてくれる」(『重源』まえがき)ということなのでしょうか。また、本書のあとがきで伊藤さんは、「何よりも僕は、『追っかけ』は趣味ではない。そういう人については、書きたいという連中が、この世にはたくさんいる」と述べたうえで、吉島さんの本を書く決意と意義とを御本人に伝えていますが、吉島さんが「追っかけ」の対象ではない理由は何なのでしょうか。さらにもうひとつ思い出すのは、『GA JAPAN』での連載「口説・日本建築史」の初回です(『GA JAPAN』N0.41)。それは、「残念なことであるが、現代建築家の中でも模倣し、てんとして恥じない人がいる。多くは常習者である。しかもそういうのが、国の建物にもあれば、民間の建物にもある」といった、日本の現代建築への厳しい批判からスタートしている。まさに「八田利也」魂だなあと感じ入ったことでしたが、そのような評価において、本書で試みられた人への問いはどう扱われるべきなのでしょうか。人を語るように建築を語ることは可能だといえるのでしょうか。
 本書の頁を繰るたびにそういった愚問がわきあがり、やはり刺激的な書物なのだと感じ入ります。そして、こんな堂々巡りのつぶやきが生む空気の揺れは、あの高山の蔵の中の吉島さんにも伝わるんだという奇妙な連帯を感じながら、本書をひとまず本棚に戻そうと思います。
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# by yoshiaki-hanada | 2011-09-15 20:59 | ●花田の日記

110913 夏の思い出(1)ゼミ旅行

いやあ、ツイッター恐るべし。
6月14日にツイート開始以来、ブログへの書き込みがどんどんどんどんおっくうになってしまった。今こうして書いていても、なんというか、長いなあ、間延びしてるなあ、と感じてしまう。
しかし、間もなく後期の授業も始まるし、虫の声も聞こえてくるし、まずはゼミ旅行の写真くらい貼っておこう。

■8月6日(金)〜8日(月):ゼミ旅行
例年同様、日土小学校での「夏の建築学校」に参加し、四国の建築を見るツアー。
●6日(金)
レンタカーにて、ゼミの4年生・2名+院生・3名+花田研OG石坂美樹さん(元GA JAPAN編集部)+助手の金子さんとともに大学を早朝に出発し今治へ。まずは、丹下健三の愛媛信用金庫常盤町支店、愛媛信用金庫今治支店、今治市庁舎・公会堂・市民会館。
いずれもその小振りなスケール感が印象的。常盤町支店の裏側は完全に住宅のスケールだ。
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今治支店も見かけはごついが違和感なし。コンクリートの角をピン角にしたり丸面取りにしたり、梁の構成をあれこれいじったりして、古代というか和というか伝統というか、何かそういった意味のようなものを造形によって表現しようとしている、とまあ常識的解釈だが、でもそれを香川県庁舎の「垂木に似せたコンクリートの梁」のような一発勝負ではなく、実にちまちまといろいろな部位でやっていることを再認識した。
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今治市庁舎・公会堂・市民会館は、現在保存問題で揺れている。たとえば、ドコモモジャパンから出した保存要望書はこれ。何より3つの建物によって囲まれた広場が印象的だ。市庁舎の前に公共建築群で囲まれた市民のための場を作るという理念が、とても気持ちの良いスケールで具体化されている。こういう空間、ありそうでないのでは。何とか保存改修になってほしい。形態操作はこれもかなり複雑。
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なお、これは翌日見たのだが、港のそばにある盧花徳冨健次郎の碑。丹下さんの設計である。建物と違いシンプルな幾何学が意外。淡路の戦没者の慰霊塔を見たときの感じと似ている。
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そこからしまなみ海道を通って大三島の伊東豊雄ミュージアムへ。
鉄板を使った幾何学的建物という予備知識からは、素材と造形の力強さを前に出した空間を予想していたのだが、それは大きく外れていた。内装の仕上げも施されているし、展示もきわめて大人しい。
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再現されたシルバーハットも、「あの住宅が体験できるんだ!」という勝手な期待からすると、元のリビングまわりの建具は設置されていないなどの変更があり肩すかし感がある。そもそもロケーションが違いすぎるし。もちろんワークショップ等に使うためというような理由があるのだろうが・・。
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夜は、島内のときわ旅館へ。離れを独占して宴会。ゼミ旅行には便利な宿だった。

●7日(土)
すでに貼った今治の盧花徳冨健次郎の碑を見て、一路、八幡浜の日土小学校へ。
途中、松村建築のうち一番古い(昭和25年竣工)現存物件である川之内小学校を見学。
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保存再生工事が終わってから2度目の「夏の建築学校」だ。
今年は、武蔵工大(現在の東京都市大)建築学科の同窓会「如学会」の皆さん30数名もご参加ということで、昨年よりも参加者が多く大盛況。以下の写真にはあまり人が写ってないのですが、僕自身は写真を撮る暇もないくらい忙しかったので、現場はもっとごった返した雰囲気でした。
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シンポジウムには京都工芸繊維大の松隈洋さんに来てもらい、日本のモダニズム建築の流れの中での松村正恒の位置づけ(の難しさ)というようなお話をいただく。
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夜は関係者で宴会。学生諸君も理科大山名研の諸君と宴会。

●8日(日)
八幡浜港に近くにあるかまぼこ板を使ったモニュメントを見学。コンペで日大の佐藤光彦研の案が実現したもの。花田研の学生も応募したがだめだった。学生が悔しがりながら写真を撮る(笑)。
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一路、豊島美術館へ。一旦岡山の宇野へ橋で渡り、フェリー。
これはすごかった。
内藤礼の作品と建築とがまさに一体になっている。
一体どういうメカであの水が湧き出ているのか。
一体どういう仕上げによってあんなに上手く水が動くのか。
施工者もすごい。
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というようなわけでゼミ旅行は終了。

最後に、豊島へ移動中の女々しいツイート。でもホントにそう感じたのだった。

「日土小学校での「夏の建築学校」無事終了。ただ今学生諸君と豊島へ高速道路を移動中。年に一度の恋人との逢瀬はあっという間に終わり、寂しい。講演とかあるから写真も撮れない、川側に回って夏の輝く姿も見ていない。せっかく会ったのにろくに喋ることなく別れたデート、みたいだ。」
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# by yoshiaki-hanada | 2011-09-14 02:50 | ●花田の日記