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『建築と社会』2006年4月号に書いた「都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと-」という文章をアップしておく。ツイッターで紹介した「都市という罠」と関連づけて読んでいただけると嬉しいので。これも目にとまりにくい雑誌でしょうし。
曖昧という批判を覚悟で言えば、金沢21世紀美術館も「外部」に頼ることのない「内部の最大化」による優れた建築ではないかというわけです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 都市という言葉のあらわすもの-2つの「金沢」で考えたこと- 神戸芸術工科大学 デザイン学部 環境・建築デザイン学科 教授 花田佳明 都市史や都市社会学の書物を繙くまでもなく、都市という言葉は、その前に種々の接頭語がつくことで、中世都市、植民都市、田園都市、理想都市、情報都市、世界都市など多種多様なヴァリアントに変身する。それらの共通部分としての都市一般を規定することの難しさは容易に想像できるだろう。 しかし、高層ビルが建ち並ぶオフィス街の風景から、猥雑な歓楽街や荒涼とした埋め立て地、さらには詩や小説や映像などが喚起するイメージを思い起こせば起こすほど、都市という言葉に拠らずしては手にすることができない何かが自分の中にあることも確かな事実だ。私にはその一般化など到底無理だが、幸い、編集委員会からの依頼文には「私にとっての都市の魅力」を論じろとある。そこで以下、金沢を巡る2つの話題を提供し、都市という言葉に対する若干の個人的考察をおこないたい。 金沢21世紀美術館と「金沢」 昨年の冬、雪の舞う金沢を訪れ、妹島和世と西沢立衛が設計した金沢21世紀美術館を見学した。それは、美術館を訪れてこれほど楽しんだのも、また現代の公共建築を訪れてこれほど幸福な気持ちになったのも初めてといいたくなるほど印象深い体験だった。 ご存知の通り、この建物の構成は、大きさや仕様の異なる直方体の展示室を距離を置いて配置し、それらを円形のガラス面で包み込み、全体にフラットな屋根を架けたものだ。外周に沿ったドーナツ状の空間が無料のロビーで、そこから内側の有料展示ゾーンにはいっていく。 展示室どうしの隙間が通路になっているが、それは網の目のようになっており、経路選択の幅が広い。次はどこへ行くかという意志決定や、ここはどこかという位置確認を迫られる。案内図を手にしていても、迷ったり展示を見落としたりすることもあり、順路に沿って鑑賞する従来の美術館とは異なる行動や感情が誘発される。それが実に新鮮な体験だった。 さて、この隙間を都市の街路に、その空間体験を都市における逍遙体験になぞらえることは容易なことだ。「都市のように建築をつくる」という常套句も思い出す。しかしそれ以上に私が驚いたのは、金沢の他の場所を歩くとき、金沢21世紀美術館での体験が私の中で繰り返し甦ったということなのである。 近江町市場の賑やかな商店をひやかし、ひがし茶屋町周辺の細い路地を彷徨い、犀川のほとりの静かな河原にたたずみ、泉鏡花記念館で幻想的な小説の筋を思い出し、そして五木寛之も通ったという喫茶店ローレンスで60年代の雰囲気を追体験しているとき、金沢21世紀美術館の空間が私の頭の中に幾度も現れた。そしてそのつど、自分のいる場所が、金沢21世紀美術館の空間や、開館記念「21世紀の出会い」展の展示作品を通して夢想した何ごとかとつながっていくような感覚に包まれたのだ。それは実に心地よい体験だった。 つながる時空間 意識の中にそのような接続感を生んだ要因として、まずは金沢21世紀美術館の物理的・空間的特性があげられるだろう。展示室と通路の関係が建築物と道路の関係に似ていること、外周すべてが透明なガラスであるために建物内部の構成が外へ展開していく感じが増幅されること、金沢市の中心部というロケーションが市内の他地域との関係を強く感じさせることなどである。 さらにこの建物が美術館であり、そこでの展示作品や活動が、そもそも「いま・ここ」ではない時代や場所とのつながりを連想させる機能をもっている点が重要であることはいうまでもない。 これらに加え、私は、先にあげた金沢市内の別の場所も、物理的・空間的・機能的に、何がしか金沢21世紀美術館と同じような特性をもっており、その構造的類似性によって、離ればなれの場所が私の頭の中でつながったのだろうと想像した。いずれの場所も、路地や迷路といった言葉を連想させる空間性をもっているし、交易、商売、文化などの領域での活動を通して外部世界とつながっていることは明らかだ。 そして私の中では、こういう感覚と「都市」という言葉とが結びついた。つまり私は、「都市のように」つくられた建築の内部で「都市」を感じたのではなく、その外部において、「都市」という言葉へとつながる感覚を味わったのだ。 他の時空間への接続感が「都市」という言葉をなぜ引き寄せるのかは説明できない。それこそ「私にとっての」意味しかもたないのかもしれない。しかし結論を先にいえば、私は、そのような現象こそが「都市」という言葉のあらわすものではないかと思うのだ。 もうひとつの「金沢」 もうひとつの金沢の話。そこに滞在している間中、思い出していた小説がある。吉田健一の『金沢』だ(1)。主人公と金沢の骨董屋との交流を独特の文体で描いた一種のユートピア小説である。それは、次のような文章によって金沢という空間への侵入を開始する。 これは加賀の金沢である(S1)。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの町を廻って展開することになるようなので初めにそのことを断って置かなくてはならない(S2)。併しそれで兼六公園とか誰と誰の出身地とかいうことを考えることもなくて町を流れている犀川と浅野川の二つの川、それに挟まれていて又二つの谷間に分けられてもいるこの町という一つの丘陵地帯、又それを縫っている無数の路次というものが想像出来ればそれでことは足りる(S3)。これは昔風でも所謂、現代的でもなくてただ人間がそこに住んで来たから今も人間が住んでいる建物が並ぶ場所でそれ故に他の方々そうした場所を思わせることからそっちに話が飛ぶことがあるかも知れない(S4)。そのことを一々言う必要もなさそうなのはどこへ飛んで行こうと話は結局はこの町に戻って来る筈だからであるのみならず或る町にいることで人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない(S5)。我々がヘブリデス諸島を見るのは他所に寝ていての夢の中である(S6)。(S1からS6の記号は引用者記入) さまざまな時空間が交錯する不思議な印象の文章である。そのメカニズムは、たとえば次のように説明できるだろう。(2) まず、S1によって小説の舞台が金沢(=W1)だと指定される(以下、Siによって指定された場所が保証する世界をWiと書く)。 しかし、S2に進むやすぐに、そのことは柔らかく否定され、W1を包含するより広い世界(=W2)への展開可能性が示唆される。 さらに、S3で舞台は金沢に戻る気配を示しつつ、しかし、「二つの川」「二つの谷間」「無数の路次」という一般化した要素によって場所が規定されており、W1よりは限定の緩やかな世界(=W3)へと拡張される。 S4では、広い世界との接続を暗示しつつ、しかも、「昔風でも所謂、現代的でもなくて」と時制の曖昧化もおこなわれた世界(=W4)が示される。 つまり、W1 →W2→W3→W4と、世界が空間的・時間的に拡張されていく。 ところがS5では、「この町に戻る」とW4からW1への世界の縮小が宣言されたかと思うと、逆に、「人間が実際にそこにいる間中そこに縛り付けられているとは限らない」とW1からW4への世界の拡張が表現され、W1からW4までを含み、しかもそれらの順序関係を不問にする上位の世界(=W5)が示される。 そして最後のS6では、金沢という具体的な場所から始まったW1からW5までの世界の振幅全体を、より大きな「夢の中の世界」に包み込んで終わるのである。 この導入部は、『金沢』という小説全体の構造を実に上手く暗示している。詳しくは全体を読んでいただくしかないが、次々と大きさの異なる世界を重ね合わせ、仮構の世界が築き上げられていく。個々の世界だけでは意味をなさない。かといって、それらの集合によって明確な全体が構成されるわけでもない。あくまでも、世界間での移動や他の世界との接続が問題にされているのである。 講談社文芸文庫版の解説で、四方田犬彦は、「優れた文学作品はその中頃のどこかにみずからの雛型を隠しているものである。『金沢』を特徴づけているのはそのどの部分をとり出してもそこに全体が反映されているような、自足した同一律である」と書いているが、Wi間に生まれた関係は、まさに『金沢』という「全体」との「自足した同一律」をもつ「部分」だといえるだろう。 部分と全体 さて、金沢21世紀美術館によってつながった時空間と、『金沢』におけるWiを対応させて考えるなら、金沢21世紀美術館が生みだしたネットワークと『金沢』という小説の構造は似ているということができるだろう。その特徴を強引に以下のように一般化したい。 ・全体像は明示されない。 ・部分は詳細に把握できる。 ・部分には相互につながっていく仕組みがある。 ・部分の集合は部分と似た構造をもつ。 ・どの部分がつながっていくか、どんな速度でつながっていくか等は解釈者によって変化するが、一定の条件を満たすとき、特徴的なネットワークが生みだされる。 このような状況に出会うとき、私の中に「都市」という言葉が浮かんでくる。内部空間か外部空間か、どんな規模か、3次元の空間か、言葉や映像で描かれた作品かといったことは関係ない。「特徴的なネットワーク」という曖昧な表現が問題をスタート地点に戻す感じはあるが、それこそが「都市」という言葉の「私にとっての魅力」であり、さらにいえば、他者とのあいだに期待するコミュニケーションについての私の価値観でもある。 部分と全体が似た構造をもちながらつながっていく感じは、町家が集合して都市を形成している姿が具体的でわかりやすい。大通りから路地にはいり土間に入っていくときの、あるいはその逆方向でのスムースな相転移感とでもいう感覚だ。それが途切れたところで「都市」が終わる。 また、「いま、ここ」でない時空との接続のためには、当然のことながら、空間の中に「歴史」が存在していることが不可欠だ。その場所に過去の手がかりがあれば、人はそれを経由して他の世界へジャンプできる。 「都市」という言葉の罠 上記のような接続感を生む具体的な例を挙げ始めればきりがない。アルド・ロッシの建築、そのテキスト、イタリアの山岳都市、東京の木造アパートにはさまれた路地、ジョセフ・コーネルの箱の作品、伊達得夫の詩人たちとの交友録『ユリイカ抄』に登場する小さな空間、町家の薄暗い奥座敷、オランダの都市をつなぐグリーンハート、インターネットによるスモールワールド・ネットワーク…、と書けば書くほど「私にとっての」という話になって、当然のことながら恥ずかしくなる。 逆に、「私にとっての都市」ではないものを記す方が良いかもしれない。 たとえば、建築家は、外部に対して閉じた表情の住宅デザインを説明するとき、「都市」という言葉を乱発する。具体的な周辺環境から抽象的な社会状況までを一括りにして「都市」と呼び、それにマイナスの評価を与えることで、自身の設計した住宅の窓の少ない外観や中庭型の平面計画を正当化する。「都市」という言葉を仮想の敵と位置づけ、それから身を守るというイメージを導くわけだ。 あるいは、「都市再生」とか「都市再開発」といった語法は、「都市」という言葉を無定義のまま使うことで、何を再生し何を再開発するのかという行為の対象や、さらには行為の主体までを隠蔽する。「再生」の対象としての「都市」と「再開発」の対象としての「都市」とはいったい何が違うのだろう。そんなことすらわからない。ここでは「都市」が都合の良い味方となる。 こういった事例に共通するのは、「都市」という言葉によって、曖昧な主語や目的語としての「全体」が仮定されている点だ。しかし実際にはそのような「全体」は存在しない。そこに「都市」という言葉の危険な罠があると私は思う。 存在するのは「都市」的な「部分」だけなのだ。それらは3次元の空間として具体化したり、言葉によるテキストであったり、さまざまな姿をとるだろう。しかし、それらが「いま、ここ」以外の時空間と接続していく力をもつ限り、「都市」は、無限の、しかも虚構のテキストとして人々の中に生成し続けるだろう。私たちはそのような「都市」だけを認めるべきなのだ。 注 (1)吉田健一『金沢』(河出書房、1973年)、あるいは、吉田健一『金沢・酒宴』(講談社文芸文庫、1990年)。 (2)拙稿「アンリアル・シティ─テキストの虚構性について」『建築文化』(1983年4月号)で同様の分析をおこなったことをお断りしておく。
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地方紙の重要性を内田樹が書いている。
それで思い出したのが、日土小学校のある愛媛県八幡浜市での経験。 小さな町なのに新聞が3紙も出ていたのだ(今はおそらく2紙)。 そのことを『室内』1999年11月号の「百家争鳴」欄に書いたことがある。 『室内』はもうないし、昔の文章で文体がやや恥ずかしくもあるが、勝手に再録しておきます。 後日、この記事を読んだ東京在住の八幡浜出身の方から、『室内』の読者欄に懐かしいという投稿があった。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 学級新聞みたいな新聞 花田佳明 7月24日、日本建築学会四国支部50周年記念事業の一環として、愛媛県八幡浜市で、「子どもと学校建築‐松村正恒の作品を通して‐」というシンポジウムが開かれた。松村正恒とは、蔵田周忠や土浦亀城のもとで学んだ後、八幡浜市職員として、昭和30年代、日土小学校などの斬新な木造モダニズム建築を設計した建築家。数年前、「あいつは泣きながらシャッターを切っていた」と噂がたつほど彼の建物に感動した僕は、それ以来、松村研究に入れ込んでいるが、今回はパネラーとして参加し、彼の魅力を喋ってきた。 松村について知りたい方は、『再読/日本のモダンアーキテクチャー』(彰国社)という本の中の僕の文章でも読んで下さいとちゃっかり宣伝しておくとして、今回紹介したいのはその後日談。シンポジウム終了後、いくつかの地元新聞が記事にしてくれたのだが、そのうちの一紙の話である。 「八幡濱新聞」という名のその新聞を受け取ったとき、僕は思わず声に出して言ってしまった。「えーっ、こんな新聞あるの!」。B3サイズ1枚きりの日刊紙。薄い紙の両面にびっしりと印刷されている。トップが今回のシンポジウム。「建築家・松村正恒の軌跡しのぶ‐今も全国にファンが…」と大きな活字が踊っている。記事の中に、「…をコーディネーター(調整者)に、パネラー(出場者)は…」という微笑ましい注を見い出して、僕の感激は高まっていく。 目を移すと、「和気あいあい市民球技大会 800人の参加で快汗」、「朝採り野菜や骨董も 川之内地区初の試み『とうげ市場』」、「一番人気はアジ おさかな牧場初日は1600尾」等の町の話題。「日録 昭和の八幡浜」という連載には、昭和13年7月の市財政、あるいは南米への海外移住の宣伝映画会のことなどが書いてある。その他、エッセイ、4コマ漫画、連載小説、テレビ欄等があり、広告は地元関係ばかりで紙面の約4分の1。 学生のひとりが、「学級新聞みたいですね」と名言をはいた。同僚の先生にも見せ、ふたりで、「こんな新聞が毎日出てるなんて、日本もまだすてたもんじゃないね」と頷き合った。そんな感想を、新聞を送ってくれた地元のOさんにしたためた。 するとしばらくして、「その後の掲載記事がありますので、近々お送りします」と彼からのEメール。何だろうと思っていたら、またまた「八幡濱新聞」が送られてきた。開封一番、今度は思わず声を出して笑ってしまった。 「卓上一言」という、天声人語みたいなコラム欄が、僕らの「…日本もまだすてたもんじゃないね」発言の引用から始まり、あのときのシンポジウムに参加した先生(僕です)から本紙へのお褒めの言葉が届いた 件がびっしりと書いてある。「わが身を褒めるは一のバカ」と自戒しつつも、うちは広告収入に頼る「盆暮新聞」とは違うのだ、地方紙はやはり大事だぞと啖呵のひとつもきってみた、そんな名調子のコラムだった。さらに「二面に関連記事」とあり、裏返すともっと大きな囲み記事。そこに、僕の手紙がファックスでOさんから送られてきたという種明かし。そして、その手紙とシンポジウム記事の一部が再録されていた。 自分の書いた文章がこんなに喜ばれたのは、生まれて初めての経験である。正直言って、こちらも嬉しくて仕方がない。いったいどんな人が作っている新聞だろう。いずれ編集部を訪ねてみたいと思ったりするが、今は勝手な想像を楽しんでいる。 なお今回は、「ゴミ処理早期対応・受入れを 関係7町の議長が市に要望書」という見出しの、ダイオキシン削減問題がトップ記事。再び同僚に見せ、「民主主義の原点だよねえ」と頷き合ったのである。
『設計の設計』(INAX出版)の中の藤村龍至さんの文章中に私のブログへの言及があることに気づき購入した。
私のブログが取り上げられているのは、「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節(143〜149頁)の中の「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」という部分だ。一読し気になった点が少しあるので書いておきたい。いずれもその内容ではなく、本づくりを巡る初歩的作業と判断に関することばかりだ。 (1)事実誤認 149頁★4に私がアトリエを主宰していると書いてあるが私はそのようなことはしていない。著者あるいは編集者は確認作業をおこなったのだろうか。 (2)奇妙な日本語 「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」の冒頭(143頁)に「花田は・・・批判を述べて下さっています」とあるが、「花田」という敬称を略した表記と「下さる」という敬語の組み合わせは奇妙な日本語である。同様の表現は149頁の★4・★6にもある(「花田は・・・もっておられ」「花田は・・・くださっています」)。単なる日本語の間違いとはいえ、書かれた本人としては気持ちが悪い。 そもそもこのような文章において敬語表現を用いないことは常識だろう。実際、この節における濱野智史氏と松川昌平氏についての言及では、「濱野は・・・と指摘した上で、・・・と言います」とか「松川昌平は・・・として批判する」といったように一般的表記になっている。校正作業の中で、著者も編集者もこの奇妙な日本語に疑問を感じなかったのだろうか。 (3)ウェブサイトに書いた文章へ言及することがもつ問題への配慮の欠如 藤村氏が言及しているのは私が自分のブログに書いた文章である。私が勤務する神戸芸術工科大学でおこなわれた彼の講演会の前後に、ブログで藤村氏の文章を分析したものだ。そこからいくつかのフレーズが引用され藤村氏が反論等をおこなっている。 たしかにURLが明記してあるので読者は私の文章を読むことはできる。しかしこうやって引用されてみると、わざわざこのURLをパソコンに打ち込み私の文章を読む人がどれほどいるだろうかと考え込まざるをえない。 もちろん、書物からの引用であっても読者が原典を見るかどうかわからないという意味では同じである。だから私が気にするのはそのことではない。 「10+1」のウェブサイトに掲載されていたときなら、私のブログのURLにはリンクが張られクリックするだけで読むことができた。したがって、議論も一定のバランスの中で成立していただろう。しかしURLを示す記号は書籍化された途端にリンクが切れ、ただの文字になってしまう。その際に生じるアクセスへの意志と機会そして情報量の圧倒的な減少についての配慮が全くないことが気になるのだ。原文の一部掲載等、いろいろな工夫があったはずだ。ウェブサイトの文章を書籍へと固定化する際に生じる問題について、著者と編集者は何かを考えたのだろうか。 ちなみに、松川氏については本書の中に収められた文章への言及だが、濱野氏についてはウェブサイト掲載の文章への言及であり、私と同じ問題がある。 (4)そもそもなぜ「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節が必要なのか 藤村さんの言う「超線形設計プロセス」について私がブロブで指摘した内容は、本書に書かれた彼の「超線形設計プロセス」に関する文章においては言及も反映もされていない。ならばどうして「花田佳明による批判 — 恣意性の限界2」という項をわざわざ別に設ける必要があったのだろう。採用に値しない内容だと判断した言説なら無視すればよいだけのことである。学会等の投稿論文査読において「条件付き採用」とか「要再査読」になったのとはわけが違う。どのような論理的欠陥を指摘されようとも、著者が正しいと思う主張を書けばよいだけのことだ。濱野氏と松川氏からの指摘についても同様の扱いがなされている。したがって、「「超線形設計プロセス論」への批判的検討」という節をわざわざ設けた著者と編集者の考え方が私には理解できない。 繰り返すが、以上指摘したことはすべて、書かれた文章の内容ではなく、本づくりにおける初歩的作業と判断に関する問題ばかりだ。余計なひと言になるが、藤村さんと編集者は、この文章に関する限りもう少し丁寧な仕事をすべきだったと私は思う。「内容」についての感想は、藤村さんが言及した私の以下の2つのブログ記事ですでに述べたことから特段の変化はない。お読みいただければ幸いです。 ・勉強会で考えたこと(2010年7月4日) ・その後考えたこと(2010年7月9日)
東京にいる間にヨコハマトリエンナーレ2011にも行った(ところで、ヨコハマトリエンナーレ、横浜トリエンナーレ、よこはまトリエンナーレといろんな表記があるがどれが正しいんだろう)。
会場が何箇所かあるわけだが、メイン会場の横浜美術館はつらかった。 ひとつの問題は美術館そのものの空間だ。これは如何ともし難いだろうが、内外ともに大仰なデザインは作品を殺す。1989年竣工で丹下事務所の設計であり、翌1990年竣工の都庁にそっくりだ。 ![]() そこにごった煮のように並べられた美術品を見ていると、全部が田中功起の作品なんだという悪い冗談すら思い浮かぶ。 ![]() 展示計画ももうひとつ。集められた多種多様な作品群の相互関係がわからない。逆にわかりやすすぎて困る例も。石田徹也の隣にマグリット。どういう関係があるんだろうと思うと、両方に「階段」がある。それで並べたんですよね、きっと。そうは思いたくないけど。 そういう空間が団体の小・中学生や家族連れでごった返している光景は、残念ながらとても貧しいものだった。 ![]() 一方、日本郵船海岸通倉庫(Bank ART Studio NYK)会場はとてもよかった。古い倉庫に手を入れた空間が何より素晴らしく、それにマッチした作品が置かれている。子どもたちを連れてくるならこちらにすべきだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 最後に1階の本屋さんで、『アーバンデザイナー 北沢猛』を買った。 神戸にもこういう人がいてほしい。 ![]()
ゼミ旅行のあとは、ぐだぐだになった。
8月14日から母親の初盆のために実家に帰ったまではよかったが、15日午後にお坊さんがお経をあげて帰った途端、へなへなと倒れ込んでダウン。 これが熱中症かと思って冷たいシャワーを浴びたら唇や掌が白くなる。 何だかおかしいと思い高校の同級生の医者(整形外科!)に電話。 すぐ来いというので病院に行きとりあえず熱を測ると38.7度。 そこに冷たいシャワーだから無謀だった。 血液検査もしたが問題はなく、いわゆる夏風邪だろうということで点滴を受け薬をもらう。 しかしウィルスだから抗生物質は効かない。 「まああとは頑張れ」という感じで送り出される。 結局それから1週間、寝込んでしまった。 お墓の掃除もできず予定を早めて帰神。 帰ってからも熱と下痢。 「夏風邪」なんていう言葉では実態をあらわしてない。 冬のインフルエンザのような強烈さだった こういうときこそツイッターだと思い毎日の様子も呟いてみた。 枕元に積んだ本も少し読んだ。 ・『大学とは何か』(吉見俊哉、岩波新書)は大学の歴史に関する基礎知識獲得に格好の本だった。 ・『人間と国家 上・下』(坂本義和、岩波新書)には東大紛争の章に特別補佐仲間として鈴木成文先生の名も登場。 ・『昭和二十年夏、僕は兵士だった』(梯久美子、新潮文庫)には、元海軍士官・池田武邦氏へのインタビューもあった。 そうこうしているうちに何とか回復。3キロ痩せていた。 ● 8月23日(火)からは建築学会大会で上京。 学科の同僚と受賞した教育賞の講演も(代表で川北さんがやってくれたのでらくちん)。 ![]() 会場となったのは「早稲田キャンパス」。 理工学部のある「西早稲田キャンパス」にはもちろん何度か行ったことがあるが、大隈講堂のあある「早稲田キャンパス」は大学受験のとき以来だと気がついた。あれから30数年。試験が終わり教室に夕陽が射していた光景を覚えている。 ![]() 夕方は、新宿オペラシティの「家の外の都市(まち)の中の家」展へ。 アトリエワンの縮尺2分の1模型は楽しみだったのでじっくり見たが、「ハウス&アトリエ・ワン」でどうしてもスケールが間違っているように思えてならない。 よおーく観察して原因に気がついた。 本物は鉄骨造の建物で柱は白く塗ってある。しかし模型は木の素地のまま。それが縮尺2分の1ともなると3〜4寸の木の柱に見える。しかし実際は10数センチ角くらいはあるだろうボックス柱。その差が奇妙な印象を生むのである(たぶん)。 夜はアイシオールの事務所にお邪魔してちょうど届いた山海の珍味のお相伴にあずかった。ごちそうさまでした。 ![]()
コンフォルト編集長の多田君枝さんが、9月14日が立松久昌さんの命日だったとツイートされている。
情けないことに僕はすっかり忘れており、思わずリツイートした次第。 さらに多田さんは、立松さんが編集した伊藤ていじの『建築家・休兵衛』のことに触れている。 「下地がないと読みづらいかもしれないけれど、私はあの本、大好きなのでした。伊藤ていじ先生の文章、読み終えてしまうのがもったいないほどです」と。 そうか、立松さんといえば多田さんはこの本を挙げるのか。 実は僕にとってもこれはとても思い出深い本なのだった。 立松さんの名前を知らない人も多いだろう。 1931年生まれ。早稲田大学文学部を出て彰国社へ入社。その後『住宅建築』の創刊に参加し、編集長を長くつとめた方である。 伝説の編集者のひとりといってよいだろう。 僕は2度しかお話ししたことがない。 今考えると後悔だらけだ。 最初は2001年の秋。 僕の研究室出身の波多野章子さんは現在『住宅建築』編集部で活躍しているが、当時その入社の可能性について同誌と関係の深いある建築家の方に聞いたところ、「立松さんに話しておいたから」とおっしゃるので打診の電話を入れたのである。 波多野さんが修士2年の秋。いっしょに中国地方へ木造郵便局探しの旅に出ていて、山口県から電話した。 いきなり「そんな話聞いてねえなあ」とべらんめい調で言われあせったが、「そんなはずはないですから」と僕は必死に食い下がった。そして、波多野さんは立松さんが指定した新宿の「昼でも飲める店」で一対一の面接を受けることになり、どういうわけか(いや、当然のことながら、笑)合格した。 実はその前から、神戸芸工大で鈴木成文先生から立松さんの名前は聞いていた。 お二人は大の親友なのである。 自分で書くのは恥ずかしいが、「立松さんが花田さんの文章をほめてるよ」というような話を、鈴木先生からときどきうかがっていたのだ。 だからいちどお目にかからねばと思ってはいたが、別のルートから「とても怖い人だ」という噂も聞こえてきて、気の弱い僕はなかなか連絡を入れられず、上記の電話が初めて立松さんの声を聞く機会になったのだ。 実際にお目にかかったのはその少しあとの2001年12月。 住宅建築編集部の忘年会に初めて参加したのである。 両国のちゃんこ屋の2階。波多野さんも一緒だった。 その日の午後、まだ表参道にあったコンフォルト編集部に行き、そのまま多田さんと豊永さんに連れて行かれたということだったかもしれない。 そこで初めて立松さんに挨拶した。 初対面にもかかわらず優しくお相手して下さり、『住宅建築』に集ういろいろな建築家の方に紹介された。そして最後に「これの書評を書け」と『建築家・休兵衛』を渡されたのだ。 発行日は2001年12月25日。まさにできたてほやほやの本だった。 その頃『住宅建築』には「私の本棚から」という見開き2頁のコーナーがあり、そこに載せるからということだった。 僕も1997年2月号で「松村建築を知るために」と題して松村正恒関連の本について書いていたので多少要領がわかり、嬉しさもありで快諾した。 ところが帰りの新幹線の中で読み始めても、なんとも頭にはいらない。 多田さんは「下地がないと読みづらいかもしれないけれど」と書いているが、とにかく「困ったなあ、えらいこと引き受けてしまったなあ」というのが正直な気持ちだった。 それでも何とか書き上げ、2002年7月号に掲載された。 もう何も思い出せないが、年末に頼まれて掲載が翌年の7月号だから、よほど苦労したのだろう。 「合格」だったのかどうかもよくわからない。 手元には傍線や疑問符をいっぱい書き込んだ『建築家・休兵衛』が残っているだけである。 そして立松さんは、翌2003年の9月14日に亡くなった。 彼が愛した母校・麻布学園の講堂で開かれたお別れの会に出席した。 きちんとお話をうかがっておくべきだったという思いは、1年後にいただいた『追悼 立松久昌』という冊子でほんの少し解消したが、いうまでもなく後悔の方が何倍も大きい。 恥を忍んで立松さんからの宿題への答案を貼っておきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人を語って建築を論ず/『住宅建築』2002年7月号 神戸芸術工科大学助教授 花田佳明 伊藤ていじ著『建築家・休兵衛』を私の本棚から取り出し、御紹介したいと思います。本書は、飛騨高山の吉島家7代目・休兵衛こと吉島忠男さんについての物語です。と書くと、まだお読みになってない方で、吉島家住宅も吉島忠男さんの作品も、そして著者の伊藤ていじさんのことも、さらには「建築Library」というシリーズをもよく御存知の皆さんなら、それらが組み合わさって生まれた本書に対し、あらかじめひとつのイメージを抱かれるのではないでしょうか。つまり、思わず姿勢を正したくなるような厳格な建築家の物語を。少なくとも私はそんな予想のもとで読み始めました。しかし、最初の頁からその思い込みは打ち砕かれ、意外な展開に驚きながら途中で引き返す手だてもなく、そのまま蟻地獄の中に落ちていったという次第です。 私は何に戸惑ってしまったのか。それは、伊藤ていじという名代の建築史家が描く吉島忠男という建築家の特異な(と私には思えた)姿と、そして、伊藤ていじが吉島忠男に注ぐ眼差しの尋常ならざる(と私には思えた)熱さなのだと思います。言いかえれば、建築を論じることを放棄したのかと思うほど人を語ることに情熱を注いだ本書を前に、それでよいのだろうか、いやそれもありかもしれないと、自分の中の根っこのひとつが揺さぶられてしまったということだろうと思うのです。 □ とにもかくにも、私は吉島忠男さんがこういう方だとは想像だにしませんでした。何しろ驚いてしまいました。「こういう」とはいかにも曖昧で失礼な書き方ですが、読者としては本書が唯一の手がかりです。伊藤さんの言葉を借りるなら、吉島さんは「生まれてこのかた天動説の人で、他人は自分のまわりを廻っていると信じている」人物ということになる。 日本大学の卒業設計はたいへんな物量と内容の出来なのに、自分が納得できるまで手を入れ続け、締め切りを過ぎても提出しない。卒業後勤めた丹下事務所では、「大将」として振る舞いすぎて周囲との関係がうまくいかず、勝手に事務所を飛び出してしまう。伊藤さんが吉島家住宅の維持を応援するためにと思って紹介した8枚程度の原稿書き仕事に、吉島さんは「明日の世界における建築創造」なる大論文を勝手に書いて喜んでいる。せっかく依頼された住宅設計も、予算やスケジュールを守らない。大きな借金を抱えていても欲しいものは買ってしまう。そして、気を揉み、後始末に走るのはいつも伊藤さん。 詳しくは本書を読んでいただくしかありません。書かれているエピソードへの解釈もさまざまでしょう。本書の記述だけで吉島さんの人柄を判断できるはずもありません。しかし、少なくとも本書において伊藤さんが描いた人物像は、私が想像している一般的な建築設計者の姿とはかけ離れたものでした。むしろ、太宰治、田中英光、檀一雄、中村うさぎなんて名前を連想したことを白状します。つまり、生来的なある弱さを(意識的かどうかは別にしても)表現の武器にした作家たちです。いろいろな考え方はあるでしょうが、そのような方法によって獲得された作家性と建築とを結びつけず、あるいは、少なくとも結びつけたくないと思って生きて来たつもりの私としては、吉島さんの奔放さにも、そしてそんな彼につきあう伊藤さんの忍耐力にも、新鮮な驚きと激しい当惑とを感じたという次第でした。 このような、吉島さんに対する私の驚きや当惑に拍車をかけたのが、本書で採用されたふたつの記述スタイルです。 ひとつは、年長者が年下の、いわば弟子とも呼べる人物の人生を描いたという手法です。本書によれば、伊藤さんと吉島さんの出会いは1955年。伊藤さんが二川幸夫氏らと民家の調査・撮影に飛び回っていた頃だと思われます。伊藤さんは30代前半、吉島さんは高校1年生の若さです。それ以来、師弟関係ともいえる長いつきあいが続いてきた。 したがって、その顛末を描いた本書は吉島さんの伝記だといってよいでしょう。しかし伝記といえば、一般には弟子が先生のことを書く、あるいは若い研究者が年長の歴史的人物のことを書くというのが相場です。いずれにせよ、そこでの視線は下から上へ向かっている。 ところが、本書ではその関係が完全に逆転しているのです。つまり、師匠が弟子の人生を描いている。そういうことは、夭折した弟子を悲しむ弔辞くらいしか私には思いつかない。ボードレールとランボーの関係を連想しもしましたが、それはまあ悪い冗談にしかなりません。多少の例外があるとすれば、その家族が書いたような場合でしょうか。少し似ているなと思い出したのは、高橋たか子が亡夫・高橋和巳のことを書いた『高橋和巳の思い出』(構想社、1977年)という書物です。帯に「哀しい人」と書かれていたことを覚えています。文学のことと自分のことしか考えていない(と妻には思えた)和巳の日常生活を赤裸々に描き、その和巳を「哀しい人」と呼びつつも、しかしその才能を神格化し彼から離れることができなかった妻・たか子によるこの伝記に、批判も含めてさまざまな反響があったことは御記憶の方も多いでしょう。本書の不思議さに悩むあまりの愚行とお許しいただきたいのですが、高橋和巳=「哀しい人」=吉島さん、高橋たか子=伊藤さんという図式を連想して楽しみました。 しかし、その場合ですら視線はいわば水平にしか走らない。上から下へと向かう視線によって書かれた本書が、きわめて異色の伝記だということは明らかでしょう。そのようなスタイルをとったことのなかに、吉島さんに対する伊藤さんの思いの強さが象徴的に表われていると思います。 もうひとつは文体です。本書は、一種の私信のような、あるいは語りのような調子をもった文体で書かれている。伊藤さんの独白あり、伊藤さんと吉島さんの会話あり、過去の出来事を地の文とした回想ありといった具合です。ときには、いつのまにかカギカッコなしで、地の文全部が伊藤さんから吉島さんへの語りかけになったところまでありました。まさに、自由自在で名調子の語り口です。 それは、決して論文の文体ではありません。つまり、ここにある言葉は、対象を深く解析し何らかの仮説を実証するような力はもっていない。本書をいくら読んでも吉島さんという建築家像が一意的に定義されるようなことは起こらない。また、批評の文体でもないでしょう。本書が、吉島さんという建築家や彼をめぐるさまざまな出来事に何らかの評価を与えるために書かれたとは考え難い。 むしろ、伊藤さんはそれらの文体を捨てることで、何かを書くために考えるという思考のスタイルをも同時に放棄し、そのかわり、何かを考えるために語ろうとして、あるいは迷うために語ろうとして本書のスタイルを選んだといえるのではないでしょうか。本書の物語的な、あるいは口語調の文体からは、橋本治や山形浩生の仕事へとまたもや突拍子もない連想をしたのですが、それは、言葉の内容よりもむしろ形式がもつ破壊力に何かを賭ける心意気を共通して感じたからに他なりません。 では、伊藤さんは本書によって何を考えようとしたのか。私たちは本書からいったい何を読みとればよいのでしょう。 あとがきのなかで伊藤さんは、「『いま』この本をなぜ書くのか」を説明しています。その「理由はいたってかんたん」であって、「ひとつは、私は吉島さんの一家の人たちが好きなのである。/他のひとつは、義理だ」とあります。「義理」とは、もちろん7代目休兵衛・吉島忠男さんに対するものではありません。その父である先代の6代目休兵衛・重平さんに対する思いです。伊藤さんは、かつて重平さんが、「ありがとうございます。私の家の事をよく言って下さって」と「着物姿で正座をし、扇子をおかれておっしゃったあの作法を忘れてはいない」と書いています。その「さしずめ戦国武将なら命をかけて誓っているのと」同じような姿に心打たれたわけですね。 したがって、伊藤さんには、先代から家と息子を託されたというような思いもあったに違いない。伝統という重みを背負い込んでしまった吉島家の人々の、深い苦悩を描きたいとも考えられたことでしょう。あるいは、歴史家と文化財、歴史家と建築家との新しい関係を示したかったのかもしれません。さらにいえば、吉島さんや吉島家と深い絆で結ばれてしまった伊藤さんにとって、それらを対象化する行為はもはや原理的に成立せず、吉島さんの伝記は、結局のところ伊藤さん自身の自伝(の一部)を語る作業だったと解釈できるようにも思います。そして、本書はそれらのことを実に巧みに成し遂げた。人を語った建築書という、希有な領域の可能性を示すことにも成功した。 □ しかし、です。こうやっていろいろ考えてきても、やはり冒頭に書いた戸惑いは私の中から消えないのですね。人を語ることと建築を論じることとの関係です。本書の中で、伊藤さんは吉島さんの設計した建築については多くをふれてはおられない。もちろんいくつかのエピソードは書かれているし、畑亮氏らによる美しい写真も添えられています。しかし、エピソードはあくまで完成までの人間関係の顛末記であり、逆に、写真は人のいない見慣れた竣工写真ばかりです。つまり、人を語るという手法をとった興味深い本書の中で、建築はいささか脇に追いやられているような感じがします。目的が違うよといわれるかもしれません。しかし、人と建築とはいわば車の両輪です。本書の意味は、建築の世界において人について語られることが少なかったことへの痛烈な批判でもあるでしょうが、そこに建築が登場しないなら相変わらずの一輪走行。片手落ち状態は同じなのではないでしょうか。その不安定さが本書に対する唯一最大の不満なのです。 伊藤さんの数多い著作のうち、本書を読みながら思い出したのが、『現代建築愚作論』(彰国社、1961年)と『重源』(新潮社、1994年)です。『現代建築愚作論』の著者は「八田利也」という名前ですが、伊藤ていじ・磯崎新・川上秀光さんたちの共同のペンネームであることは改めて説明するまでもないでしょう。40年前の書物とはいえ、現代建築および現代建築家への辛辣な批判の書として、その価値は全く衰えてないといえるでしょう。また、『重源』については私のような歴史音痴に解説などできません。東大寺の再興に尽くした人物の物語。小説のような構成が話題になったことは記憶に新しいところです。 変な連想ばかりしていますが、本書は、「八田利也」魂を芯にもち『重源』の語り口を纏って生まれた子供ではないかと思いました。だとすれば、と勝手な前提のもとで考えますが、『現代建築愚作論』において反語的に描かれた本来的な建築家像(の一端)を、伊藤さんは吉島さんに見い出しているということでしょうか。そして、重源においてそうだったように、吉島さんを語ることが「人生においては何が本当に重要なのか、その意味を考えさせてくれる」(『重源』まえがき)ということなのでしょうか。また、本書のあとがきで伊藤さんは、「何よりも僕は、『追っかけ』は趣味ではない。そういう人については、書きたいという連中が、この世にはたくさんいる」と述べたうえで、吉島さんの本を書く決意と意義とを御本人に伝えていますが、吉島さんが「追っかけ」の対象ではない理由は何なのでしょうか。さらにもうひとつ思い出すのは、『GA JAPAN』での連載「口説・日本建築史」の初回です(『GA JAPAN』N0.41)。それは、「残念なことであるが、現代建築家の中でも模倣し、てんとして恥じない人がいる。多くは常習者である。しかもそういうのが、国の建物にもあれば、民間の建物にもある」といった、日本の現代建築への厳しい批判からスタートしている。まさに「八田利也」魂だなあと感じ入ったことでしたが、そのような評価において、本書で試みられた人への問いはどう扱われるべきなのでしょうか。人を語るように建築を語ることは可能だといえるのでしょうか。 本書の頁を繰るたびにそういった愚問がわきあがり、やはり刺激的な書物なのだと感じ入ります。そして、こんな堂々巡りのつぶやきが生む空気の揺れは、あの高山の蔵の中の吉島さんにも伝わるんだという奇妙な連帯を感じながら、本書をひとまず本棚に戻そうと思います。
いやあ、ツイッター恐るべし。
6月14日にツイート開始以来、ブログへの書き込みがどんどんどんどんおっくうになってしまった。今こうして書いていても、なんというか、長いなあ、間延びしてるなあ、と感じてしまう。 しかし、間もなく後期の授業も始まるし、虫の声も聞こえてくるし、まずはゼミ旅行の写真くらい貼っておこう。 ■8月6日(金)〜8日(月):ゼミ旅行 例年同様、日土小学校での「夏の建築学校」に参加し、四国の建築を見るツアー。 ●6日(金) レンタカーにて、ゼミの4年生・2名+院生・3名+花田研OG石坂美樹さん(元GA JAPAN編集部)+助手の金子さんとともに大学を早朝に出発し今治へ。まずは、丹下健三の愛媛信用金庫常盤町支店、愛媛信用金庫今治支店、今治市庁舎・公会堂・市民会館。 いずれもその小振りなスケール感が印象的。常盤町支店の裏側は完全に住宅のスケールだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() 今治支店も見かけはごついが違和感なし。コンクリートの角をピン角にしたり丸面取りにしたり、梁の構成をあれこれいじったりして、古代というか和というか伝統というか、何かそういった意味のようなものを造形によって表現しようとしている、とまあ常識的解釈だが、でもそれを香川県庁舎の「垂木に似せたコンクリートの梁」のような一発勝負ではなく、実にちまちまといろいろな部位でやっていることを再認識した。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 今治市庁舎・公会堂・市民会館は、現在保存問題で揺れている。たとえば、ドコモモジャパンから出した保存要望書はこれ。何より3つの建物によって囲まれた広場が印象的だ。市庁舎の前に公共建築群で囲まれた市民のための場を作るという理念が、とても気持ちの良いスケールで具体化されている。こういう空間、ありそうでないのでは。何とか保存改修になってほしい。形態操作はこれもかなり複雑。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() なお、これは翌日見たのだが、港のそばにある盧花徳冨健次郎の碑。丹下さんの設計である。建物と違いシンプルな幾何学が意外。淡路の戦没者の慰霊塔を見たときの感じと似ている。 ![]() ![]() そこからしまなみ海道を通って大三島の伊東豊雄ミュージアムへ。 鉄板を使った幾何学的建物という予備知識からは、素材と造形の力強さを前に出した空間を予想していたのだが、それは大きく外れていた。内装の仕上げも施されているし、展示もきわめて大人しい。 ![]() ![]() ![]() ![]() 再現されたシルバーハットも、「あの住宅が体験できるんだ!」という勝手な期待からすると、元のリビングまわりの建具は設置されていないなどの変更があり肩すかし感がある。そもそもロケーションが違いすぎるし。もちろんワークショップ等に使うためというような理由があるのだろうが・・。 ![]() ![]() ![]() ![]() 夜は、島内のときわ旅館へ。離れを独占して宴会。ゼミ旅行には便利な宿だった。 ●7日(土) すでに貼った今治の盧花徳冨健次郎の碑を見て、一路、八幡浜の日土小学校へ。 途中、松村建築のうち一番古い(昭和25年竣工)現存物件である川之内小学校を見学。 ![]() ![]() ![]() 保存再生工事が終わってから2度目の「夏の建築学校」だ。 今年は、武蔵工大(現在の東京都市大)建築学科の同窓会「如学会」の皆さん30数名もご参加ということで、昨年よりも参加者が多く大盛況。以下の写真にはあまり人が写ってないのですが、僕自身は写真を撮る暇もないくらい忙しかったので、現場はもっとごった返した雰囲気でした。 ![]() ![]() ![]() ![]() シンポジウムには京都工芸繊維大の松隈洋さんに来てもらい、日本のモダニズム建築の流れの中での松村正恒の位置づけ(の難しさ)というようなお話をいただく。 ![]() ![]() ![]() 夜は関係者で宴会。学生諸君も理科大山名研の諸君と宴会。 ●8日(日) 八幡浜港に近くにあるかまぼこ板を使ったモニュメントを見学。コンペで日大の佐藤光彦研の案が実現したもの。花田研の学生も応募したがだめだった。学生が悔しがりながら写真を撮る(笑)。 ![]() 一路、豊島美術館へ。一旦岡山の宇野へ橋で渡り、フェリー。 これはすごかった。 内藤礼の作品と建築とがまさに一体になっている。 一体どういうメカであの水が湧き出ているのか。 一体どういう仕上げによってあんなに上手く水が動くのか。 施工者もすごい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() というようなわけでゼミ旅行は終了。 最後に、豊島へ移動中の女々しいツイート。でもホントにそう感じたのだった。 「日土小学校での「夏の建築学校」無事終了。ただ今学生諸君と豊島へ高速道路を移動中。年に一度の恋人との逢瀬はあっという間に終わり、寂しい。講演とかあるから写真も撮れない、川側に回って夏の輝く姿も見ていない。せっかく会ったのにろくに喋ることなく別れたデート、みたいだ。」
2年生向けにやっている「建築空間のデザイン」の最終回。建築についての屁理屈のこね方である。
今日は補講。 1コマ15回厳守という文科省からのありがたーい御指示のお陰である。 これから試験期間があって夏休みは10日からだ。 日土小学校と松村正恒についての詳しい紹介(今年はあちこちで話しているのに芸工大ではやっていなかった。まさに灯台下暗し)をしたあと、建築情報はどこにあるのかという話をした。 読んでほしい本、本屋さん、見るべきサイトなどの紹介である。 1年生のときに「入門編」をしているのだが、今日は「応用編」。 「issuu」に「architecture portfolio」って入れてみてね、なんていう話である。 最後に付け加えたのは、いろんな分野の概要を摑むための入門書紹介。 乱暴は承知だが、文庫と新書でまとめました。 夏目さんの本だけ新刊が無くアマゾンの古本で1円のがあった。 合わせてたったの1万92円! 学生にはだまされたと思って大人買いをするよう言ったのだが、さて。 あまり現実の寂しい光景を書きたくはないが、学生諸君の豆知識が少なすぎる。 あれこれ開かれるワークショップや学生作品の品評会に参加するのも結構だが、ただひたすら本を読む夏があってもいい。 ・野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)735円 ・野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)756円 ・石田英敬『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)1365円 ・内田 樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)725円 ・吉本隆明『日本近代文学の名作』(新潮文庫)420円 ・見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)735円 ・瀬山士郎『初めての現代数学』(ハヤカワ文庫NF)777円 ・森村泰昌『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)1050円 ・夏目房之介『夏目房之介の漫画学』(ちくま文庫)(古本1円から) ・村松貞次郎『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)1155円 ・岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)819円 ・今橋映子『フォト・リテラシー』(中公新書)819円 ・柳川範之『独学という道もある』(ちくまプリマー新書)735円
わーわーと喋り散らした一日。
ツイッターに吸い上げているのでブログもそれなりに意味のある内容にしたいと思うが、今日は身辺雑記を書き散らす。 ● 本日は、午前中ゼミ。といってもゼミ旅行の相談。 8月7日(日)の日土小学校での「夏の建築学校」を真ん中に据え、6日に大三島の伊東豊雄ミュージアム、8日に豊島の西沢さんのミュージアムを見て神戸に帰ろうという計画だ。 ● 午後は、卒論の中間発表会。 問題設定と研究方法が不明快な発表に対し、気がついたことを正直に言う。 というか、僕ならこうする、ということをどんどん言う。 ● そのあとの学生の様子を見ているとわかるが、みんないささか打たれ弱い。 こちらが何か指摘すると、議論を吹きかけられたというより、叱られたというような反応になる。 そうじゃないよ、君自身を批判したりしてるんじゃない。 そんなことに僕は何の関心もない。 君が喋ったその言葉の内容と構造を批判してるだけ。 どうしてそれがわからないんだろう。 論理の欠陥を指摘しているだけである。 君の欠陥を指摘しているわけではない。 間違いは間違い、それだけのこと。 そういう指摘を受け、その内容を自分の頭で咀嚼し、「あ、なるほど」とすぐに思わないことが不思議でならない。 誰が何と言おうが、地球は平らじゃないし、三角形の内角の和は180度に決まっている。 ● 最後に、「卒論は「探偵ナイトスクープ」と同じ」という話をした(→wiki)。 何を知りたいのかがはっきりしたか問題設定(視聴者からの依頼葉書) →まずは現地へ行き行動開始(依頼者のお宅訪問)→関係者へのヒアリング(ご近所探索) →分からないことは専門家に聞く(お医者さんや動植物の専門家などの手配) →浮上した新情報を確認する(依頼者と探偵の面白いやり取り) →どこへでもかけつける(・・というわけで種子島にやって来ました、という軽いフットワーク) →必要なら実験もする(最近では「お姉ちゃんを貸してあげる」実験が最高だった) →得られた情報を合体して推理し、答にいたる(キダタローら顧問からのお褒めの言葉をもらう)。 こういうステップを踏みさえすればいいのだ。 ● ゼミ生にはいつも言うが、論文(=卒論)とは、「自分だけが知っていることを誰にでもわかる言葉で書いたもの」でなくてはならない。 「誰でもが知っていることを自分にしかわからない言葉で書いたもの」は論文じゃない。 どうかそのことに気づいてほしい。 いうまでもなく、「探偵ナイトスクープ」が面白いのは、まさに「探偵だけが知っていることを誰にでもわかる言葉で喋る」からだ。 学生諸君、「探偵ナイトスクープ」みたいに楽しい卒論、書いてくれよー。 もちろん相談には遠慮なくきてください。 ● 発表会終了後、ゼミ生と研究室にやってきた学生に延々と卒論指南。 その後編集者Kさんから電話でさらにわーわー。 家に帰ったら、暑さと冷房としゃべくりで疲れきっていた。 宿題原稿、積ん読本、ともに登攀できず。
先週半ば、思いもしないプレゼントが届いた。
送り主は鹿島出版会の川尻さん。『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』の編集者だ。 予告メールがあったのだが、その日は帰りが遅くて宅急便を受け取れず、わくわくしながら翌朝を待った。 ちょっと厚みのある梱包なので、配達の人の手元を見た瞬間は「最近作った本でも送って下さったのかな」と思ったが、受け取ってみると非常に軽く本ではない。 訝しく思いながら開けてびっくり玉手箱。 松村本のための特性ケース、函、なのであった。 松村本のカバーをはずすと現れる表紙と裏表紙には、日土小学校の矩計図を印刷した。 その見本刷りの余分なものが何枚かあり、それを取っておいて函に仕上げて下さったのだ。 添えられた手紙によれば限定3個。 僕と川尻さん、そして両者をつないでくれた南洋堂書店の新宮君用である。 お礼の言葉もありません。 この編集者といっしょに本を作ったんだという感慨を新たにした。 ありがとうございました。 ![]() ![]() ![]() ![]() トンボなどがあり、見本刷りの紙だとわかる。
僕の『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』について、倉方俊輔さんが書評を書いて下さった。「10+1」のウェヴサイトの「いま読みたい書籍」という書評特集のひとつだ。
まず本の内容については、こちらの狙いを十分に掬い取って過分ともいえる評価をいただいており感激した。心からお礼申し上げます。 それと同時に(というかそれ以上にといってもよいが)嬉しかったのは、本の「形式」に関していただいた評価である。 つまり倉方さんは、「モノグラフの領分──『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』/『村野藤吾の建築 昭和・戦前』」というタイトルからもわかるように、「併せて1500ページ以上」ある2冊に対し、そのページ数の多さ(笑)と「モノグラフ」という「形式」上の2つの共通点を見出し、そのことの意義を論じて下さっているのだ。 これは僕自身が、まさにあの本(およびその原本である博士論文)を書きながら考えていたこととぴたりと重なる。 あの本の執筆作業は、日本には個々の建築家をじっくりと論じたモノグラフがどうしてこんなに少ないんだろうという疑問に始まり、そしてそういうものを実際に書いてみるとそれが実に楽しいということの発見で終わった。わかった事実とそれへの解釈を「延々と」書き続け、それらだけを手がかりにしてものを考える作業である。 というか、書いているうちに、一般に「研究論文」と呼ばれるものと評伝や伝記とのあいだを縫うようなものになるといいいなというイメージがわいてきたというのが正直なところだ。 あ、それと、松村さんには作品集がないので、図面や写真を出来るだけ多く、しかも大きく入れようとしたという意味では作品集との境界も意識した。 そういったことが可能になったのは、出発点が博士論文であったからこそとも考えている。 つまり、分量の制限なくものが書ける数少ない機会だからである。 字数制限を気にすることなく、第1章から順に「わかった事実とそれへの解釈を「延々と」書き続ける」とああなったのである。
7月2日(土)は、京都工芸繊維大学の白井晟一展とシンポジムに行ってきた。それらの詳しいレポートはどなたかにお任せするとして、自分用にメモしておきたいのは、刻印したような精緻な実施設計図を見、パネリストの発言を聞いているうちに僕の中に込み上げてきた妄想についてである。
自分が多少詳しく知っている数少ないことに引き寄せた語り口の退屈さはわかったうえでと前置きはしたいのだが、白井晟一と松村正恒の人生が意外に重なって見えたという話である。 どういうことかといえば、 (1)1960年代前半くらいまでの白井の仕事[秋ノ宮村役場・松井田町役場等の秋田県内の小規模公共建築、試作小住宅・増田夫妻のアトリエ等の木造小住宅]と、松村正恒の八幡浜市役所での仕事(1947〜1960年)はある類似性をもつ。 (2)1963年以降の、親和銀行東京支店・同大波止支店・同本店・松濤美術館・石水館などの重厚な白井の一群の建物と、1960年に独立したあとの松村作品はある類似性をもつ。 (1)において両者を結ぶのは、民主的な新しい社会を作ろうとした戦後の地方自治体あるいは首長の見識の空間化ということである。 (2)において両者を結ぶのは、公共建築における(1)の実験的実践が終わったあと、民間の建物を設計するようになって陥った建築家のニヒリズムあるいはデカダンスとでも呼ぶべき状態である。 いずれもなかなか理解していただけないだろう。 とくに(2)は。 規模も意匠もコストも違いすぎる。 ただ、松村が「民間の建物では冒険ができない」と言って使い慣れたヴォキャブラリーで市中の匿名の建築といった風情のものを作り続けたことと、白井が大きな建築的テーマの具体化というよりは、自分の好みのヴォキャブラリーによって、明確な言葉では表現し難い意匠の建物を作り続けたことに、建築家の後半の人生におけるひとつの似た心情の反映を感じ取ってしまったというわけだ。 言い換えるなら、磯崎さんは白井のデザインをマニエリスティックと位置づけたが、むしろアノニマスというべきではないかということである。 名付けられないアノニマスな建築のために、深く精密に、しかし一種のオートマティズムの中でおこなわれた設計。 アフォリズム的語り口と書に対する偏愛ぶりも似ているだろう。 つまり、建築ではないそれらの道具によって、世界を丸ごと捉えようとする姿勢の類似性だ。 そしてその世界理解を、(たとえば磯崎さんのようには)建築へと直截的に投影することをしなかった点においても、である。 建築的ヴォキャブラリーの違いは仕方がない。 (これこそあやふやな話であるが)白井はヨーロッパの伝統的・古典的建築から自分のテイストを独学で築き、松村はモダニズム建築を素直に学習した。 しかしそういったヴォキャブラリー自体は大きな問題ではなかったのではないか。 松村は白井より8歳ほど若いが、ともに大正デモクラシーの洗礼を受け、日本の戦前期の右傾化を目撃した。 そのような背景のもと、白井と松村が戦後社会を歩んだ姿勢や思い描いた社会像に、いささかの類似性が生まれたのもありえない話ではないのではないか。 そのような方向から白井を考え直すと、少し違ったものが見えるのではないか。 こんなことを考えたのも、松村が、宮内嘉久が企画編集し白井も参加した『風声』や『燎』といった、僕にはやや大仰に思えた同人誌に加わっていたことに少し違和感を覚えていたからである。 しかしそこには、戦争を挟んで生きたどうし、何らかの空気のようなものを共有する気分があったのかもしれない。 こんなアバウトなことを考えてみると、僕の中では、ひとつの疑問が少し解消したという話である。 もう少し勉強してみます。
6月25日(土)の午前中は、夕方からの東京/南洋堂でのレクチャーに向かう前に、芦屋市にある「松橋邸」という住宅の見学会に行った。石本喜久治の設計で1935年に完成した建物だ。写真は撮らせていただいたが、ウェブ上で掲載しない約束である。道路からの外観1枚だけでお許しを。内外装とも非常に状態が良く感激した。家具も当時のまま残っていた。
この日は200人以上の一般の方も訪れた。残念ながら解体されることが決まっている。オーナーの方もいろいろと努力されたあとの苦渋の決断。東京の原美術館のような転用でもできたらよかったのでしょうが・・。神戸新聞の記事。 ![]()
日土小学校の見学会と夏の建築学校2011の内容が決まりました。
多くの方の御参加を期待しています。 ![]() 夏の建築学校2011 【夏の建築学校】日土小学校保存再生と松村正恒 ■日時 8月7日(日曜日) ・見学会 9:00 ~ 16:00 ・夏の建築学校 13:00 ~ 15:00 コーディネーター 曲田清維 ( 愛媛大学 教授) 第一部 学習会 松隈 洋(京都工芸繊維大学 教授) ー木造モダニズムと日土小学校の価値ー 花田佳明(神戸芸術工科大学 教授) ー建築稼・松村正恒の考えたことー 第二部 みんなで語ろう日土小 日土小学校卒業生 松村正恒後輩 改修工事関係者 来場者の方々ほか ■会場 八幡浜市立日土小学校 西校舎1階(新校舎) ■所在地 八幡浜市立日土小学校 八幡浜市日土町2-851 ■見学については時間内に自由に見学してください。但し、校長室、職員室及び保健室は立ち入りを制限させていただきます。 ■駐車場は、日土小学校運動場で、台数に限りがありますのでなるべく乗り合わせでお願いします。また、小学校周辺の道路は狭いので路上駐車はご遠慮下さい ■主催:八幡浜市教育委員会 共催:(社)日本建築学会四国支部 愛媛支所 ■後援:(社)日本建築家協会四国支部 (社)愛媛県建築士会 (社)愛媛県建築士事務所協会 ■参加費:無料 ■問い合わせ先 和田建築設計工房( 担当:名本) TEL089-962-6366 八幡浜市教育委員会学校教育課 TEL0894-22-3111
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