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『堀部安嗣作品集』書評

『堀部安嗣作品集』(平凡社)の書評です(『コンフォルト』2015年8月号)。

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リアリティと抽象的思考の往復から生まれるもの
神戸芸術工科大学 花田佳明

 同じ厚さの大型本の1・5倍はあろうかという頁数と重さ。作品集というより植物図鑑のように薄く滑らかな紙の感触。その中に凄まじい密度で図面と写真が詰まっている。見返しに遊びが無く、表紙をめくるといきなり本文が現れる。堀部が本書に込めた思いの強さそのもののような物質性と緊張感だ。
 図面は現状に合わせてすべて修正されたという。100分の1の平・立・断面図や詳細図が揃い、外構や樹木も緻密に描き込まれている。嘘はつきたくないとでもいうような執念だ。
 写真の多くは堀部自身が撮影した。優れた建築家は優れた写真家でもあることが多いとはいえ、他人任せにしない潔癖さに驚いた。どの写真も抒情的な生活感に溢れ、頁を繰る手は何度も止まる。ただし不思議なことに、ほとんどの写真に人影がない。机の上に様々な日常の欠片を残し、住み手だけが突然消えてしまったかのようだ。
 その微かな喪失感から、私は、堀部が幼い頃に父親の書棚にあったギリシャ建築の写真集をずっと眺めていたというエピソードを思い出す。哲人たちの日常が消え、建築だけが建ち続けるギリシャの風景。リアリティと抽象的思考の間を往復しつつ、永遠の時間を凍結した結果とでも言えばよいか。そのような作業が、建築家・堀部安嗣にとっての設計であり、この作品集の編集方針なのだろうと思い至る。
 私は15年前、大雨がもたらした幸運から、「伊豆高原の家」に泊まったことがある。本書を開くと、あのときの夢のような記憶が甦る。それと同時に、「伊豆高原の家」に流れたその後の15年という時間を知っているかのような気持ちにもなる。本書は、堀部の設計した空間を通し、そこで自分が暮したという、あるはずのないもうひとつの人生を想像する機会を与えてくれる。その快楽に浸りたくて、私はかつての堀部少年と同じように、この作品集を書棚から何度も取り出し、眺め続ける
# by yoshiaki-hanada | 2015-07-10 22:30 | ●花田の日記

『青木淳 ノートブック』(平凡社、2013年)の書評(2013年の『SD』掲載)。

『青木淳 ノートブック』(平凡社、2013年)の書評です(2013年の『SD』掲載)。

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建築的知性の物質化
神戸芸術工科大学教授 花田佳明

 建築家・青木淳が、『青木淳 ノートブック』というタイトルの不思議な本を世に送り出した。大きさが約34cm×24cm、厚みは4cm弱、本であろうことは何となくわかるが、むしろひと束のB4コピー用紙と言ったほうが似合う物体である。
 彼は、独立した翌年の1992年4月1日以降、設計のためのスケッチやメモをコクヨ製A4サイズのキャンパスノートに書き続けてきた。1冊80頁、ごく普通のノートである。そして20年後の2012年11月22日に104冊目を使い終わり、それらすべての頁を記録したのが本書なのだ・・・という紹介で、この本を見たことのない読者の頭の中にはどのようなイメージが浮かぶだろう。
 ひとつの頁に元のノート16頁が縮小されて納まっている。肉眼で文字や数字をすべて読むのは難しく、ルーペのおまけ付き。初めて本書を手にしたとき、小さなノートが延々と並ぶその光景に言葉を失い、私はこの紙の束を抱えたままソファーにへたり込んだ。
 ところで、私は本書を巡る青木との対談を9月15日に東京の青山ブックセンターで行なった。その依頼を受けたのは8月19日で、ともかく現物を見たいと思ったがまだ印刷中。代わりに104冊のPDFデータを送ってもらい、そのすべて(80頁×104冊=8320頁!)をコンピュータ上でめくっていった。そして対談で取りあげるべき頁などを選んだ自分なりの目次やメモをノート20頁分ほどつくり、完成品を見なくても「これで対談は何とかなる」と考えていた。
 ところがまだ店頭には並んでいない9月4日、彼から実物が送られてきた。宣伝用に一足先に作られたサンプル本を回してくれたのだ。
 段ボールを開くと中から真っ白な塊が現れた。初めて見たその姿は女神のように美しく、表紙も本文頁の手触りもきわめて滑らか、背表紙の無い糸かがり綴じ製本のためすべての頁はノドまで開く。まさに全体が分厚い「ノート」なのだった。しかも長手方向にも湾曲するという、本にしては不思議な挙動。突拍子もない連想だが、巨大なこんにゃくを持っているような気分になった。
 サンプルにはルーペがついてなかったので家にあった天眼鏡越しにさっそく眺め、あらゆる文字や数字が読める高解像度の虜になった。すべての頁がカラー印刷で図も鮮明。しかしすぐに目が疲れて顔を上げる。しばらく休んでは再びレンズ越しにノートを読む。顔を上げる。レンズを覗く。この作業を数回繰り返すうち、私は奇妙な感覚に包まれていた。
 つまり、レンズを通して見ているときは文字も図も意味ある記号として頭にはいる。しかしレンズから目を離して顔を上げた瞬間に、今まで見えていたものすべてがぼんやりとして、紙のかたまりの上の黒い滲みに戻るのだ。一般の本では決して味わえない感覚である。せっかくつかまえたのにすぐ逃げられる。そんな戸惑いと言ってもよいだろう。そしてこのとらえどころのなさは、まさに青木の設計した建築の特徴そのものだということにも気がついた。それを言いたくて彼は現物を送ってきたに違いない。「ああ、また青木君にしてやられた」と背筋が少しひんやりし、PDFデータを通して手にしていた安心感は一瞬にして砕け散った。
 しかし、PDFの画像とはいえ詳細に104冊の全頁を眺めたことにも意味はある。このノートには何が書かれているかが多少は頭に入ったからだ。レンズ越しだとそうはいかない。とりあえず気づいた特徴は以下の通りだ。
●初期のノートには言葉が多く書かれているが、その後は次第に図が多くなる。
●一般的な意味での「スケッチ」もあるが、ひとつのアイディアから展開できる「可能なパターン」を書き尽くそうとした図が多い。決して微妙な線の角度を探るような「スケッチ」ではない。
●結論に至る筋道はあまり書かれていない。最終案に近いコンセプトや姿は早い段階で登場していることが多く、結論はノート以外の場で出ていると思われる。
●青森県立美術館竣工後には、曖昧な言い方だが、アート寄りの描写が増える。
●「動線体」から「モノ」へといった設計手法の変化の節目を示す言葉のようなものは見当たらない。
 こういった内容についてはこれからゆっくり分析すればよい。ただ、今の段階で私が直感的に確信したのは、104冊のノートが、青木の設計のキーワードである「ルールのオーバードライブ」、すなわち自分が決めた手法や約束事を過剰に運用するという作業の実験場だったのだろうということである。
 理工系分野の人は、新しい実験や計算を行なうたびにその結果を記録した「研究ノート」をつけることが多い。そこには個人的な嗜好を挟む余地はなく、仮説とその検証があるのみだ。青木のノートに記された言葉や図にはそれと同じような印象がある。
 言い換えれば、建築について何かが語られているのではなく、建築行為そのものがノートの中で行なわれているという感じなのだ。つまり本書は、建築を言葉と図で語った本ではなく、まさに建築で書いた本であり、比喩としてではなく、文字通り建築を言語化した本、建築を言語として使った本なのである。
 それはまた青木の設計方法ということもできる。ここで詳述する余裕はないが、彼は、建築外の概念を建築によって「表現」するのではなく、建築で建築を書いてきた。その方法と、常に解読作業の反復を読者に強いる本書の造りは全く同じ考え方に拠っている。
 つまり本書は、建築家・青木淳の20年間の建築的思考を、あるいはその結晶としての建築的知性のすべてを、嫉妬を覚えるほどの完全さで物質化したものなのである。このような本の出現は、建築界を超えた事件というべきだろう。
 本書は限定1000部で値段も決して安くはなく、いわゆるアート本という位置づけだ。しかし私は、この本は建築を学ぶ学生や若い設計者にこそ手にしてほしいと願っている。青木淳という建築家の20年間の思考と生き方は、決してお手本とはならないかもしれないけれど、これからの支えとなるに違いないからである。1冊目のノートの1行目に登場し、学部以来30数年つき合ってきた私が保証する。
# by yoshiaki-hanada | 2015-01-13 23:32 | ●花田の日記

「震災と建築家」についての断片的考察

東北の被災地を写した山岸剛さんの写真を見ていて、阪神大震災のとき、僕もこういう「廃墟」を見てうろたえたなあと思い出した。『群居』に書いた文章を再掲します。読み返すと、あの頃の気分が少し甦る。あれから20年。

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「震災と建築家」についての断片的考察
(『群居』39号、1995年)
神戸山手女子短期大学専任講師 花田佳明

[1]はじめに

 私が神戸の東灘区に住み、建築の設計やら批評やらに関わっているからでしょうか。編集部から「震災と建築家」という仮のタイトルを指定されて原稿依頼をいただきました。
 しかし、〈建築家〉とはいったい何をさしておられるのか、建築雑誌を賑わすいわゆる有名建築家のことなのか、構造や設備の専門家は含むのか、都市計画家(この言葉も曖昧ですが)はどうなのか、建設会社や組織事務所の設計者や技術者はどうなのか・・・、いくらでも疑問は湧き、さらには私自身は含まれるのか、あるいは本誌の性格から想像すればこのタイトルを思いつかれたコアメンバー(?)の方々もそういった分野の専門家が多いと思われますが、彼らはどうなのか、もしその方々も「建築家」ならなぜ御自分と震災との関係についてお書きにならないのか、自分の存在意義に関わるようなことを他人に書かせて平気なのか、等々実に不思議な感じがいたしました。「建築家」はいまだ『広辞苑』には載っていない言葉ですが、そのことの意味があらためてわかったような気もした次第です。
 それならば原稿依頼をお断わりすればよかったのですが、それもできなかった。現地にいる者としての役割というような気もしたからです。つまり「震災」の方は多少はわかるというわけです。
 そして考えてみると、この〈私のしったことではない〉という苛立ちと〈しかし・・としての役割でもあるなあ〉という溜息との共存が、1月17日以来の私の生活の一部にずっと潜んでいる感覚ではないかとも思い当たりました。とりあえずそのようなアンビバレンスの構造について考えてみようと思った次第です。

[2]〈建築家〉って何だ?
 被災直後、現地の瓦礫の山を見た建築関係者を襲った感覚は、ある種の無力感だったといえるだろう。壊れてしまった風景の中を歩き回ることに、たとえ家屋の診断ボランティアという名目があったにせよ、また調査・研究という錦の御旗を掲げていたにせよ、あるいは誰かの救援に向かうというヒロイズムを背負っていたにせよ、そのようなものは、自分がつい数日前まではその構築に関与していた環境の中の、柱一本すらもとに戻す力がないという事実の前では、吹き飛んでしまったのではないだろうか。
 「建築家というのは、地震時にはなんの役にも立たないと痛感した。倒壊現場で家を起こして人を助ける力もないし、倒れかけた家を直す技術も持っていない。情けなかった」(1)という述懐は、特に現地で暮らしていた〈建築家〉に共通するものだったといえるだろう。「消防士になろうかと真剣に考えている」(2)と書いた〈建築家〉まで出現した。
 もちろん〈建築家〉だっていつまでもおセンチな心理状態に甘んじていたわけではなく、さまざまな活動を展開してきた。しかしその質と量は十分ではない、と〈建築家〉を叱る発言も目についた。上記の「消防士」になりたいと書いた〈建築家〉は、「現地取材にやってきたある建築評論家」が、「リアリスティックな、状況認識とそれに対する断片的アイデアの説明に終始する私に、〈建築家らしいロマンティックな提案はないのか。アンドーさんなら、そういうことはいわない〉と煽るように訊ねた」という証言を残している(2)。また地元の「まちづくりプランナー」からは、「私は安藤忠雄さんに頼んでいるんですが、この3カ月間で住宅・都市整備公団にこんなものをと提案した建築家は、彼だけだそうです」(3)という状況批判や、「それをだれがやるかと言うと、建築設計をする人がやるのですよ。そういうマーケットがボンとあるのですから、〈営業もへったくれもない。責務として提案しろ〉ということです」(3)という激やらがとびだしたりもした。
 両者がともに「アンドーさん」の行動を〈建築家〉のひとつの範ととらえていることの面白さや、「マーケットがボンとある」という営業的認識と「責務として」の「提案」という正義論的アジテーションとの不思議な共存やらについては別途詳細に検討する必要があるとしても、ここには、今回の震災に対する〈建築家〉の行動を見るかぎりその職能を再定義する必要があり、そしてなにより〈建築家〉自身がそのことを再認識すべきだという考え方が含意されている。
 しかし、〈建築家〉とは何(様)なんだ?という問題は今に始まったことではない。社会との接点を失い自己満足的議論に終始していたことの弊害が今度の地震で明らかになったのではなく、既に自明のことであったそんな状況の必然的延長線上に今回の「震災と建築家」の問題も乗っているにすぎないのである。
 〈建築家〉の職能や姿勢について「震災」から新たに学ぶものが多くあるとは思えない。むしろ問題は、「建築評論家」や「まちづくりプランナー」を自称する人々が〈建築家〉を自らの外部にある存在として批判できるような社会の構造それじたいの方にあるのではないかと思う。なぜ〈建築家〉の登場を待つんだろう。「建築評論家」や「まちづくりプランナー」が設計をすればいいだけの話だ。本当にそれだけのことだ。
 重要なことは、〈建築家〉待望論や〈建築家〉批判などではない。境界線を引くという行為はそんな議論しか生みださない。このような言説が果たす役割があるとすれば、「建築評論家」としての目利きぶりや「まちづくりプランナー」の社会的地位向上の喧伝でしかないだろう。
 これまで求められてきたことは、そして今回の震災の中で改めて求められていることは、むしろそのような境界線を消滅させる作業なのではないか。行政から市民までのあいだに横たわる〈専門家〉という名の多くの閉じた領域を、もっとダイナミックに交錯させていくシステムの構築こそが必要なのではないか。〈ここから先は建築家の仕事〉という姿勢を肯定するならば、〈そこまでの仕事は行政のもの〉という線引きによって「まちづくりプランナー」の領域を行政が担うことだって可能だろう。私にはその方が好ましくさえ思える。あえて境界を引くならば、優秀な行政と、賢い市民と、市民と契約を交わした設計者がいさえすればよいのである。環境をつくりあげていく作業の中に境界線などあってはならない、という信念は論理的に保持されるべきだと思う。要は〈建築家〉の再定義の必要性などが〈問題〉となるような社会システムでは駄目だということではないだろうか。
 
[3]廃墟という鏡
 もし〈建築家〉に何かを反省させるとすれば、〈君たちには瓦礫の山が美しく見えたんじゃないのか〉と質問するほうが効果的だろう。
 木造住宅が倒壊した多くのエリアでは、概ねその解体作業が終わりつつある。そしてそのあとには広大な更地が広がり、雑草が生え、プレハブ小屋が建ち、住宅メーカーの縄張りがおこなわれている。早いところでは、外構は後回しで薄っぺらな住まいだけが完成したりもしている。もちろん復興の速度と内容は地域によってまちまちであり、基本的には〈何もない空間〉が広がっているという状態だ。
 そういう場所を歩いていると、自分の眼が、たとえば撤去されずに残されたコンクリート基礎やら家具の破片やらの、いわば〈廃墟の名残〉を探していることに気づく。地震以前の風景をしらないひとの目には〈昔からそうだった〉と映る可能性すらある更地の中に、わずかに残された〈廃墟の記憶〉を探そうとしてしまうのである。
 まだ解体されていない建物にでくわすこともある。調整がうまくいかないのだろうか、木造アパートが多い。壁土がなくなり、ばら板の壁がひからびた人骨のように見え、家具や食器や洗濯物がほこりをかぶっている。その〈無力な崩壊感〉があの頃の空気を思いださせてくれる。
 三宮のビル街を歩いていても同じような体験をする。解体の終わった跡地の上に、あるいは建物を覆う仮囲いの向こうに想起するのは、かつての健全な状態の建物ではなく、破壊された姿、廃墟となった姿の方なのである。
 そう。すでに何かを〈懐かしんでいる〉のである。加速度的に取り戻された日常の中で、あのときの〈廃墟〉を思いだすことの快感を、間違いなくあじわい始めている。
 これに似た感覚は、実は地震直後からあったような気がする。三宮の破壊された風景を最初に見たときの印象を、友人たちへの電子メールで「こんなに切ない思いとともに風景を眺めるのは始めてです」と、文字通りおセンチな言葉によって表現してしまったことがある。この言葉に対し〈ある懐かしさ〉を感じるのはいうまでもないこととしても、この表現の裏に、〈廃墟〉をそのような眼差しで見ることへの安住が隠れていたように思うのである。
 何日間も着たままの服装で、しかもときにヘルメットをかぶりマスクをし、さらにはカメラをもって歩いていたのである。いわば、完全に匿名の「眼」そのものになっていたといえるだろう。
 私がそこでやっていたことは、環境と自分との関係回復ではなかっただろうか。〈廃墟〉は確かに眼の前にあるのだが、〈廃墟〉になる前にはそこにいたに違いない自分自身が、その〈廃墟には〉いない。この不在感を埋めるために、つまり〈廃墟の中の〉自分という映像をつくるために、私は歩いていたのではないか。〈廃墟〉となることで風景は私を遠くへ突き放し、その恐怖感から逃れるように、私は環境をひたすら見た。そして、そこに平常時にはない強さで、自分自身の輪郭が浮かび上がってきた。〈廃墟〉になってみて初めて、環境が自己を映す鏡であることを、そしてその自己確認の手ごたえがもたらす快感のようなものを、私は感じていたのではないか。
 あまりにも〈建築家〉風の感傷的形而上学だろうか。私にはそうは思えない。もう少し〈形而下〉的現象を考えてみても、隣近所の人間関係の一時的復活や、街角の炊き出しの盛り上がりや、ボランティア活動の隆盛やらの背後には、同様の〈廃墟崇拝〉のようなものがあったような気がするからである。
 〈廃墟〉の手ごたえにまさる強度をもった〈鏡〉を、なぜ平常時の環境の中につくりだせてこなかったのか、今後の〈復興計画〉はそのような〈廃墟〉以上の強さをもっているのか、そしてその〈計画〉は〈廃墟〉の強さへの絶望感からひとびとを救出できるのか、そういう課題として、〈建築家〉は廃墟への眼差しを厳しく自己告発する必要があるだろう。その精度が悪ければ、〈最終戦争後の廃墟〉に可能性を見いだそうとしたあの宗教集団との違いは、ゼロになる。

[4]廃墟は本当に「開かれた」か
 このような〈廃墟を鏡とする〉眼差しの延長線上に、避難所やテント村に一時的に発生した「コミュニティ」から何かを学ぼうとする姿勢もあるように思われる。予想どおり、テント村の配置図おこしの作業もおこなわれた。その図面が、世界の周縁的集落調査とよく似た絵がらを見せてくれたことも、これまた予想どおりだった。
 たしかに被災後の生活空間の変容ぶりは魅力的な部分をもっていた。被害の少なかった私の場合でも、生活用水確保のために近くの川で水を汲み、マンション内の男手の少ない家庭へ配達をし、飲料水と食料の確保の方法を探し、傾斜地ゆえに周辺地盤を観察し、近所や学生からの相談で住宅診断に行き、避難所の知人に救援物資を届けたりもした。そういった初体験の行為群は、目標が明確な一種の役割行動として、私の中のヒロイズムをくすぐった。
 誤解を恐れずにいえば、被災地のあらゆる空間での行動の背後には、そのような感情があったと思うのである。そしてそれは、余震の恐怖との適度なブレンドを伴う、ある意味で心地よい空間だった。その空間について、私自身次のようなことを書いている(4)。
 
  しかし、生活が住まいの中だけでは成立せず外部へと拡散していく中で、自分の住む土地や建物そして隣人との間に、一時的にせよニヒリズムを超えた眼差しが生まれたことだけは確かなのである。外部にいる他者を支えることが自分を支えてもらうことにつながるという思い、といってもよい。私はそのような感覚が成立する場を、「開かれた」環境と呼びたいと思う。
  住まいという安定した場所を失い、避難所やテントの中に暮らし、大部分の日常生活が他者との支え合いの中に解消してしまった人々も、被災直後はともかく、その後の自立過程の中で同様の感覚を抱いたのではなかろうか。支援の不十分さ故に、「開かれた」環境が完全には発生しきれなかったとしてもである。また支える側、つまり外部に属するボランティアの人々も、住民と同じそんな空間に包まれる体験をしたのではないかと想像している。
  被災後、「街がやさしくなった」といった類の投書や報道をよく見聞きした。情緒的な部分は差し引くにしても、このような感想は、多くの人たちがこれまでにない環境と自己との双方向的な関係を実感したことの証拠ではないだろうか。


そして、そのような「開かれた」環境を体験した市民には、行政の復興計画案は受け入れられるはずがない。なぜならば

  「開かれた」環境を避難所やテントの中に自力で作り上げた実績をもち、その経験を通して、地域という小さな単位が保持してきた「開かれた」コミュニケーションの重要さを再確認したはず

の市民にとって、行政の復興計画案は「閉じた」環境でしかないからだ、と考察したのである。
 このようなストーリー立てはそれほど間違ったものだとは思ってないし、現実の復興計画の可能態のモデルのひとつを描いているとも考えている。ただ、ここで自省的にであれ指摘しておきたいことは、観察者および被観察者がこのような「開かれた」環境を見いだした眼差しとは、すでに述べたような〈廃墟を鏡として自己を映し見る〉視線だったのではないかということである。日常世界のなかに一時的に生じた歪みとしての小世界の中で、その時間的・空間的有限性を暗黙の前提とした「開かれ」方だったということである。だから、それは〈廃墟〉の撤去とともに消えてしまった。〈鏡〉がなければ何も映り込まないからである。
 「当たり前だ」という声が聞こえてきそうだ。「なんせ非常時だったから、みんな協力しただけだ」と。もちろんそれだけのことなのである。
 「開かれた環境」といった表現に自分でも懐疑的になってしまうのは、それが中途半端な「開かれ方」だったからだと思う。行政の無能に対する暴動があったわけでもなければ、首長のリコール運動が起こったわけでもない。ある意味で、被災地は異常な政治的平穏さの中にあったとすらいえる。それをこの国の国民性や阪神間の地域性による美談にしても仕方がない。むしろ、なぜそこまでしか〈開ききれなかった〉のか、これからでも〈開く〉必要があるのではないか、そうじゃないと〈廃墟を鏡として自己を映し見る〉という眼差しの魅惑に負けてしまうのではないか、といいたいだけなのである。
 「とりあえず廃墟から立ち上がろう」的な、文字通り〈廃墟を鏡〉とするシュプレヒコールによって無化される責任論と、正当化される情緒的な〈下町共同体論〉クリシェとに対し、〈建築家〉は今こそ明晰である必要がある。避難所やテント村の「コミュニティ」からは、そういった一時的共同体を市民がゼロから築き上げざるを得ない状況に陥ったとき「コミュニティ」についての研究者が果たせた指導力の小ささへの反省と、市民がそこで学んだものの大きさへの知的な理解を最後まで示し得なかった行政の無能さに対する批判とを引き出すだけで十分なのである。

[5]〈自責のジレンマ〉を越えて
 「何かやらなくてはと思うんだけど、現地にいないからうかつなことをいえない。何をしてほしいか教えてくれ」と、ある〈東京の建築家〉から尋ねられたことがある。きわめて良心的質問だと思った。と同時に、被災地と非被災地、あるいは被災者と非被災者との境界を引くことの困難と無意味さを改めて感じたりもした。
 結局は、数千人もの犠牲者の方々と生き残った者とのあいだ以外には、どのような空間的隔たりがあろうとも、震災に関する境界をお互いに引くべきではないだろうという話をした。「うかつなことをいえない」という思いは、あらゆる場所に存在し得るからだ。
 たしかに、複数の義務が課されたときに、それらは自分の中で加算されるべきだと感じる正義感のようなものを私たちはもっている。しかし同時に、義務とはその遂行可能性を前提にされるべきでもあるだろう。できもしないことに義務感を感じても仕方がない。ただ、その遂行可能性あるいは不可能性の判断は自分自身にまかされるわけだから、悩みが累乗的に増えはする。しかし、まずはそのような〈自責のジレンマ〉とでも呼ぶべきしんどさに慣れるしかないのである。その上で、どこまで効果的な案を発想できるかが勝負となる。
 そういう前提のもと、〈東京の建築家〉に次のような話をした。

   「プロジェクトは〈効果〉をもつ必要がある。それが量的に測れるべきかどうかは別としても、効果の有無あるいは大きさに対する私たちの実感は大切にする必要があるだろう。〈自責のジレンマ〉を自覚したうえでいうならば、〈建築家〉によって提案されたさまざまな仮設住宅プロジェクトの多くは、さほど〈効果的〉だったとは思えない。公共の仮設住宅における玄関や風呂の段差解消のために、大工さんが踏み段づくりをした行動の方が、残念ながらずっと〈効果的〉だった。
   仮設住宅に求められたものが、建設速度と土地と住宅としての仕様だったとすれば、少なくとも前二者に関するかぎりは〈建築家〉の出る幕はなかった。仕様に関しても、仮設住宅と本設住宅との違いは何かという意外に本質的な問題も隠れていて、〈踏み段〉止まりだったというのが現実ではないか。
   本設の住宅について仮設住宅での量的敗北を〈建築家〉があじわわないためには、たとえば住宅メーカーによって大量供給されようとしている住宅の、質的向上を企てるしかないのではないか。広い敷地の中にぽつんとプレハブが建つのなら、まだ許すことができる。なにせ〈農家型〉とでもいうべき建て方の〈伝統〉は守られているのだから。芦屋あたりのお屋敷が住宅メーカーの建物になっていくことを嘆く声は多いが、それがこの国のこの時代の文化なのだと思えば、シニカルな笑いくらいは浮かぼうというものだ。しかし冗談にもならないのは、10数坪の狭小敷地の場合。戦前からの長屋と最近のミニ開発との差こそあれ、今回破壊された住宅のうちのかなりの数はこのような土地の上に建っている。そこに〈農家型〉の構成の家が再び大量に建てられようとしているのである。この国の優れた都市型住居の伝統が、まったく継承されていかないのだ。この放任された無知の量的膨大さだけは許せない気がする。
   誰かそのことを叱れないのか。住宅メーカーのおエラい方々に御注進できる人はいないのか。あなた方は一体何をしてくれようとしているのか、と。せっかくの大量供給のチャンスなのである。それを良質な都市型住居建設の機会として、あるいは少なくとも都市型の暮らしのマナーをアピールする絶好の機会として利用しようという志をもった住宅メーカーはいないのか。何かしたいのなら、そんなメーカーを連れてきてくれ。」

 私自身、全壊した知人の家を一軒設計している。7軒並びの典型的ミニ開発。17坪の敷地である。そこで都市型住居のプロトタイプをめざしている。残り6軒は、「隣が○○ハウスだからうちは××住宅」という状態。とても入り込む余地はない。行政が用意した〈コンサルタント無料派遣つき協調建て替え制度〉など、こんな現実の前では〈制度〉と呼ぶ価値すらない。〈私の設計図を買ってください〉と書いた紙を首から下げて、駅前広場に立った方がまだマシかもしれないのである。せっかくの可能性が、あらゆる場所で摘み取られようとしている。
 「われわれの中には、自然発生的なものは、知的な伝統に組み入れられないという、それが一つの信念になっておりますね」(5)とは、鶴見俊輔が、戦後のヤミ市などにみられた「市民的不服従の論理」をいつの間にか忘れてしまったこの国のダメさ加減を嘆いた言葉である。今回の震災も、結局はそれと同じ道を歩んでいるのではないかという気がする。
 「バカな大人を相手にしても仕方ない。今回、一時的にせよ〈学校〉に行かない日常を体験し、地域社会に片足をつっこむ貴重な経験をした子供たちに期待しよう。彼らを土曜日の午後学校に訪ね、建築のもつ力や都市型の暮らしのマナーや環境を自分でつくる楽しさやらの本格的講義をしたい。そういった議論が、少なくともコンピューターゲームや塾での勉強程度には、十分刺激的で頭の使いがいのあるものだということを教えてやりたい」とは、〈東京の建築家〉に話したもうひとつのアイデアである。
 私たちは震災を通して反射的には多くのものを身につけた。それを、より自覚的な責任や行為へと持続的に変換していくシステム、そしてそのための場所、そういったものを何としても築きあげていく必要がある。

(1)関西建築家ボランティアで活躍する笹木篤氏の発言『日経アーキテクチュア』1995年6月5日号
(2)宮本佳明「月評」『住宅特集』1995年4月号
(3)『日経アーキテクチュア』1995年7月17日号の小林郁雄氏へのインタビュー
(4)「リレー寄稿 戦後近代建築をめぐって」『建設通信新聞』1995年3月10日・3月24日・4月7日
(5)鶴見俊輔「ヤミ市と市民的不服従」『鶴見俊輔著作集第5巻』(筑摩書房、1976年)
# by yoshiaki-hanada | 2015-01-11 20:37 | ●花田の日記

この夏に大人買いしなさい、たったの1万73円。

2011年8月に作った合計(約)たったの1万円の「夏休みの課題図書」リストを改訂する。
学生諸君、だまされたと思って大人買いしてみよう。
さまざまな分野の入門書である。ここから道は開けて行く。
ただひたすら本を読む夏があってもいい。
合わせてたったの1万73円!

●野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)756円
●吉田洋一・赤 攝也『数学序説』(ちくま学芸文庫)1620円
●石田英敬『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)1404円
●内田 樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)745円
●原武史『知の訓練』(新潮新書)799円
●成田龍一『戦後日本史の考え方・学び方 歴史って何だろう?』(14歳世渡り術、河出書房新社)1296円
●高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)778円
●村上龍『69 sixty nine』(文春文庫)494円
●太田博太郎『日本の建築 歴史と伝統』(ちくま学芸文庫)1296円
●古庄弘枝『沢田マンション物語』(プラスアルファ文庫)885円

ちなみに以前のリストは以下の通り。こちらもチェックして下さい(重複はあり)。
・野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)
・野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)
・石田英敬『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)
・内田 樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
・吉本隆明『日本近代文学の名作』(新潮文庫)
・見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
・瀬山士郎『初めての現代数学』(ハヤカワ文庫NF)
・森村泰昌『美術の解剖学講義』(ちくま学芸文庫)
・夏目房之介『夏目房之介の漫画学』(ちくま文庫)
・村松貞次郎『日本近代建築の歴史』(岩波現代文庫)
・岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書)
・今橋映子『フォト・リテラシー』(中公新書)
・柳川範之『独学という道もある』(ちくまプリマー新書)
# by yoshiaki-hanada | 2014-07-25 19:52 | ●花田の日記

「個室群住居が教えてくれたもの」(黒沢隆『個室群住居』住まい学大系088の栞)

個室群住居が教えてくれたもの
(黒沢隆『個室群住居』住まい学大系088の栞)
花田佳明

 私が黒沢隆の名前と個室群住居という考え方を知ったのは、大学にはいって2年目の年、まだ教養課程の学生で、ひたすら建築学科への進学を夢見ていた頃だった。建築雑誌のバックナンバーや建築書を漁り、雑学を仕入れることに夢中になっていた。
 正確な日付は記憶にないが、神田の古本屋街で蒐集に励んでいた100号までの『都市住宅』、および図書館で借りた三一書房の『現代日本建築家全集』第24巻が出会いの場であったことは間違いない。すぐに個室群住居という考え方の虜になり、友人たちとやっていた勉強会で紹介した憶えがある。今や本格派の社会学者として活躍するS君から、共同体論の面白さを教わった会である。私は、建築という手掛かりを介することで自分が世界や他者とつながる感覚について、そして、その感覚を得たいがために建築を学ぶのだといった青臭い決意について、詩人谷川俊太郎の作品や社会学者見田宗介の論考、そして黒沢の個室群住居をとりあげながらレポートした。さらにまた、教養課程の授業科目でもあった別のゼミでは、『現代日本建築家全集』に載っている「中川邸同居個室群」を参考に、生まれて初めてつくった建築模型をレポート代わりに提出したりもした。
 なぜ個室群住居にあれほど魅了されたのか。今思うと自分でも不思議なほどである。しかしまことに気恥ずかしい限りだが、そこに10代から20代へと移行する時期の、私なりの「青春」があったようにも思うのである。
 地方の高校を卒業し東京でのひとり暮らしを始めた私が必要としていたものは、さまざまな意味での他者との関係であり、それについての論理であった。しかもこの「関係」とは、新しい友人づくりから幼い恋愛感情まで、親への反抗から家族論まで、さらには都市や共同体についての一般的議論までを含む、何とも広大な地平に及ぶものなのであった。大学に入学したばかりの若者の、まさに鬱陶しい観念的青春の幕開けだったわけである。
 ひとが建築を志す理由にはさまざまあるだろうが、私にとってのそれは、造形への興味でもモノづくりへの憧れでもなく、この「他者との関係づくり」を可能にする媒体が自分にとっては建築しかないという確信なのであった。まことに飛躍した論理ではある。しかし私は、住宅やもっと大きな建築、あるいは都市を論じることによって、それぞれに関係する人々とつながり、より抽象的には「世界」と関わることができると本気で思っていた。それ以外の道はないと信じていたのである。
 正確にいえば、そのような言葉を話したり書いたりしながら自分をナビゲートすること自体に酔っていたということだろうが、いずれにしても、貧しい知識と経験だけを手掛かりにそんな観念の迷路を彷徨い始めた建築少年の目には、個室群住居という考え方が、世界と自己とをつなぐ建築的実践の稀有な実例として、あるいはそのような実践の可能性を示す数少ない証拠として、限りなく魅力的な姿に映ったのである。
 本書に収められた個室群住居に関する黒沢の文章を読み返していると、当時のそんな青臭い記憶が甦ってくる。以下、あの頃の熱狂を少し遠くから見直してみたいと思う。
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 黒沢隆という建築家の思考の跡を辿ろうとするとき、最も初期に書かれた「正系の挫折 I 現代住居の問題性」および「現代住居の問題点 2 家庭ホームの消滅」という二つの論文は、きわめて興味深いものだと思われる。これらが発表されたのは、1966年の『建築』5月号と9月号。黒沢は弱冠25歳、日大を卒業した後、東大の生田勉の研究室に出入りしていた頃である。前者は本書にも収録されている。まずはこの二つの論文のトレースから始めたい。
 「正系の挫折 I 現代住居の問題性」は、「1949年、それは異常な年であった」という印象的な言葉で始まっている。黒沢は、保守安定政権の成立、共産党の大躍進、下山・三鷹・松川事件の発生などを例に挙げながら、この年を日本の戦後の希望と不安とが多く交錯した一年として素描した後、「ミース・ファン・デア・ローエの『ファンスワース邸』が紹介されたのは異常な年1949年末の日本であった」と建築に議論を進めていく。ここで試みられているのは、彼に先行する世代の住宅に対する以下のような整理である。

(1)現在は、形や空間が機能とは無関係に与えられるユニバーサル・スペースの時代にある。
(2)丹下健三の自邸は、コアと居住空間を別の階にすることで、ユニバーサル・スペースの考え方をファンスワース邸以上に徹底させた住居である。
(3)しかし丹下邸さえも、可動間仕切りによって〈LR+ΣBR〉という使われ方をしている。つまり一室住居でさえ〈LR+ΣBR〉という一般解によって解かれている(LR=居間、BR=寝室)。
(4)ところで、BRの中には夫婦用の部屋と子供用の部屋があるはずであって、〈LR+ΣBR〉は〈LR+BR+Σ子供部屋〉と書かれるべきである。
(5)この図式を具体化したのが菊竹清訓の「スカイハウス」である。居間と夫婦の寝室を家具によって仕切り、子供部屋は必要に応じてピロティの下にぶら下げるという方法により、〈LR+BR+Σ子供部屋〉は〈(LR+BR)+Σ子供部屋〉に、すなわち〈夫婦の部屋+子供部屋〉にまで抽象化されている。ここでは、夫婦の一体性という近代家族の理念が、見事に空間化されているのである。
(6)さらに、太田邦夫の「山車の家」では、たとえば家の中を動き回る「山車」と呼ばれる装置を導入することによって、部屋の集合としてではなく個別の行為の集合としての住居が構想されている。つまりここでは、一室住居の無プラン性が徹底され、住様式すらが捨てられている。

そして黒沢は、丹下自邸のもつ特性に端を発するこういった一連の流れを日本の現代建築の「正系」と呼び、「スカイハウス」や「山車の家」という最終的な解がでているがゆえにその線上での今後の発展は期待できず、今は「ひとつの歴史的時代の終末」だと結論づけるのである。すなわち「正系の挫折」である。
 4頁ばかりの雑誌論文ということもあり、食い足りなさはある。また現在の私は、「山車の家」についての黒沢の評価に疑問を感じないわけではない。というのも、彼は「山車」を丹下的なメガストラクチャーと同一視している気配があるが、むしろ、行為がモノによってアフォードされているという視点に基づいた、空間の近代的単位化を脱しようとする先駆的事例に思えたりもするからだ。
 しかし、こと住居に関する限り、ユニバーサル・スペースと近代的家族観との関係を整理した試みとしては、そして(こんないい方は失礼かもしれないが)学部をでたばかりの若者の作業としては、相当に優秀かつ早熟な論考だといわざるを得ないだろう。
 そしてこの4ヶ月後に発表された「現代住居の問題点 2 家庭ホームの消滅」という論文において、「個室群住居」というアイディアは世の中にデビューする。ここでは、当時の女性の結婚観や職業観などの変化を統計的に示しつつ、「夫婦の一体性」という近代の倫理が女性を家庭に押し込めてきたことを前提に、以下のような議論が展開されている。

(1)女性の就労人口が増え共稼ぎ夫婦が増加していくことで、夫婦合わせれば社会的には2単位の生活が一般化し、夫婦の一体性という近代家族の特性は崩れていく。
(2)そして、近代社会で構成された〈社会−家庭−個人〉というヒエラルキーが、現代社会では〈社会−個人〉という直接的な関係に転化する。
(3)その結果、封建時代から近代への移行が「家(ルビ:いえ)」の否定であったように、近代から現代への移行は「家庭(ルビ:ホーム)」の否定とならねばならない。
(4)従って、近代住居は夫婦一組の抽象的な人間を仮定してその抽象的人間の生活に応じて機能単位で構成されてきたが、現代住居は家族の成員ひとりひとりの単位で構成される必要がある。
(5)その個人の単位とは、個室を意味する。
(6)ゆえに、現代住居の一般解は〈Σ個室〉である。この現代住居を個室群住居と呼ぶ。

かなり図式的な思考ではあるが、明快な推論である。
 本書にはこの1966年の「現代住居の問題点 2 家庭(ルビ:ホーム)の消滅」は収められておらず、1968年の「個室群住居とは何か」と1971年の「個室群住居の基礎知識」が個室群住居という言葉を使った初期の論文として再録されているが、それよりも早い時期から、というか黒沢のデビューと同時にこの言葉が登場していたという事実は忘れられるべきではないだろう。
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 黒沢の出発点に位置するこのような思考の道筋を改めて辿っていると、私は思わず「ふーっ」と溜息をつきたい気分になってくる。黒沢は、20代の若さでこのような見取り図を描いてしまったのである。その頃の彼の心情がどうだったかは全くわからないが、しかし私の眼には、「見えてしまった」という困惑に彼がとらわれてもおかしくないと思えるほど、それは完結したシナリオと映る。あるいは、そこから脱すること自体が即座に次の課題となるような鮮やかすぎる解答といってもよい。その証拠に、個室群住居というキーワードのもと、その後彼が書いていく文章の多くは、結局この2編の論文が明らかにした図式の反復なのである。しかしそのことは、彼の結論の単純さや新規のアイディアの欠如を意味するものではなく、むしろひとつの論理体系としての完備性を証明するものであることはいうまでもない。
 ここには、その後の彼の言説にも共通するいくつかの特徴を見いだすことができるだろう。一般解指向、歴史的必然性指向、帰納ではなく演繹好み、住宅平面分析時の眼差しの具体性、社会学好み等々である。しかしこのような特徴とは別に、私には、明晰さが抱えざるを得ない悲劇のようなもの、そしてその背後に見え隠れする甘酸っぱいセンチメンタリズムのようなものも見落としてはいけないように思えるのである。黒沢の論理の中にある、このウェットな部分とは何か。
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 一見したところ個人主義的色彩ばかりが目につく個室群住居というアイディアは、しかし一方で、他者とつながることに対する切ないほどの願望や幻想を隠しもった考え方であるように私には思われる。少なくとも私の熱狂を支えたのは、そういった共同幻想とのさらなる共同幻想だった。
 黒沢は、上記の「現代住居の問題点 2 家庭(ルビ:ホーム)の消滅」の中で、「個人」とは「自らを糊するに足る職業をもち、自分のことは黙って自分で処理し、他人を頼らず黙々とそして堂々と生きる」人間であり、彼らの集合体として「社会そのものが巨大な家族であるかのように構成されていくと思われる」と書いている。
 また、彼は同じ論文の中で、家庭の消滅にともない発生する「子供がいかに養育されるか」という問題にも言及し、女性の社会進出にともない、保育園、託児所、乳児院に子供をあずけたり「鍵っ子」が社会問題化している現実にふれながら、多くの人たちは「子供たちの不幸をなげくだろう」が、「家庭(ルビ:ホーム)というものが消滅すべき必然性をもつ以上」、「こうした児童養育のあり方の必然性とその正統性を認めざるをえないのではないだろうか。そして〈現代〉社会における児童養育の方向を、見定めなければならないと思われるのである」とも述べている。
 ここでは「子供の養育」の問題にしかふれられてないが、老人をはじめとするすべての社会的弱者に必要なさまざまな支援についても、同様の判断が可能だと思ってよいだろう。
 私なりに抽象化していえば、家庭に代表される共同体が個人の集合へと解体されると同時に、諸個人の活動を支える住居以外の施設の整備も進み、それまでの住居を含むさまざまなビルデイング・タイプ相互の境界が溶解したその果てに、新たな社会状況が生まれていくだろうという筋書きである。個人および各共同体のエゴイズムが解消し、その先に人間が相互に支え合うシステムのようなものが浮上すると考える社会観と要約してもよい。
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 唐突かもしれないが、冒頭に名前を挙げた社会学者見田宗介の言葉を引用したい。彼が真木悠介の筆名で未来構想の枠組みを描いた書物、そしてそれはまさに私の青春期の支えでもあった『人間解放の理論のために』(筑摩書房、1971年)という書物の中で、見田は次のような二つの方向を示している。

極限の未来において、一切の暴力や欺瞞による支配と抑圧を含まぬ世界というものが、もしも可能であるならば、それはただつぎの二つの方向においてのみ構想しうる。
 すなわち第一に、このような人間たちの〈関係の背反性〉という現実をまず永遠のものとみとめて、これを最も合理的な仕方で調整するシステムを、「有限者の共存の技術」として追求していく方向。そして第二に、このような諸個人の〈関係の背反性〉という現実の構造そのものを、根底から止揚することを追求する方向。
 第一の道を論理的につきつめてゆくと、相剋する無数のエゴの要求を、いわば超多元連立方程式による最適解として解いていこうとするものである。このような方向における理念的な社会のイメージを、ここでは〈最適社会〉とよぼう。
 これにたいして第二の道は、いわば「エゴイズム」としての人間のあり方そのものの止揚を志すものであり、このような方向における理念的な社会のイメージを、ここでは〈コミューン〉とよぼう。

この分類でいけば、黒沢がめざす社会とは、見田のいう意味においての「コミューン」といってよいのではないだろうか。見田はさらに二つの方向を要約し、「〈最適社会〉は、人間存在の個別性の契機を基軸とする型のユートピアであり、〈コミューン〉は人間存在の共同性の契機を基軸とする型のユートピアであるといえよう」と書いているが、まさに黒沢が、住居以外の建物に対して注ごうとした眼差しからは、後者の言葉が喚起する社会の姿が想像されるのである。
 もちろん黒沢の思考、あるいは私の「青臭い」黒沢解釈を批判することは容易だろう。たとえば、「黒沢のいうような個人はあくまでも理念型であって、そんな立派な志を持った個人など実在しない」とか、「現実の社会は『社会そのものが巨大な家族であるかのように』なんてなってないし、むしろワンルームマンションとして具体化した個室群住居の大群が社会を覆っているにすぎないではないか」とか、「個室群住居の存在を支える住居以外の施設の実現性について、個室群住居の提唱者は何らの責任も持ち得ないじゃないか」といった具合である。
 しかし、論理的な厳密さで見田が挿入したただし書きを借りるなら、黒沢が論じようとしたことは「極限の未来」における「もしも可能であるならば」という前提での方法論なのであって、この現実との関係における可能・不可能といった問題だけではないだろうと私は思うのである。そのことを論理の非現実性と指摘する向きもあるかもしれないが、逆にそれを強靱さと感じる立場もあるということである。
 つまり個室群住居は、単に個室あるいは住居だけを問題にしているのではなく、それらと相互補完的な関係にある他のビルディング・タイプの変化を前提にできるような「極限の未来」において、社会全体の仕組みまでをも逆照射する射程を示そうとした考え方だと思うのである。いいかえれば、黒沢が個室群住居という言葉で設計しようとしたものは、単に個室でも住居でもなく、個室群住居という考え方を可能ならしめる社会そのものなのであり、その一見して不可能かと思われる作業への意志を内包した潔さに、私は魅了されたと思うのである。
 そしてやがて、自分自身の直感がとらえた問題をまさに自分自身にとっての切実な唯一性としてとらえ、それへの解答にいたる回路を自分自身にとってのもうひとつの可能な現実として構成し、そしてその回路のどこかの部分を自分が建築化していくのだ、といった抽象的言辞が私の中ではある種のヒロイズムとともに唱えられていったのだが、それはもはや個室群住居からの影響というには申し訳ないほどの、他愛もない「青春」の産物である。
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 実をいうと、私が個室群住居という考え方に魅入られたもうひとつの理由がある。より正確には、本当の理由というべきかもしれない。それは「わたしの個室・ヒロコの個室」という計画である。黒沢とヒロコさんとの新居である。古い日本家屋を改造して個室を二つつくり、まさに個室群住居生活を実践しようとした計画である。私は、その片方の部屋を写した一枚の白黒写真にイカれてしまったのである。『都市住宅』1971年11月号「個の意識と個室の概念」では小さく、同誌1976年3月号「総特集|カタログ『都市住宅』3」では一頁大に掲載された、あの写真である。
 それは黒沢の部屋である。手前にベッドがひとつ見えて、シンプルなテーブルに椅子がふたつ。窓からはいる淡い光でZライトが滲んでいる。内開きのドアからも光がさしていて、平面図をみるとその先が縁側になっている。日曜大工ででも作ったかのような本箱があって、壁にはカレンダーがぶら下がっている。まったくどうということのない部屋なのだが、「青春」期の私はこれにまいってしまったのである。
 この、単に光の状態だけを表わしたかのような写真に自分が何を感じたのか、もはや正確には思い出せないが、しかし、そこにヒロコさんの影、すなわち黒沢の対幻想の相手の存在を読み取っていたことは確かだろう。廊下の向こうにはもうひとつのドアがあって、そこにヒロコさんの部屋がある。まるで二人の兄弟が勉強部屋をもらったかのようなこの空間で、男女の共同生活が一体どう営まれるのか、当時の私にうまく想像できていたとは思わないが、個室と個室のあいだに漂う境界線の不思議な感触だけは感じ取っていたように思う。個室が個室として閉じるのではなく、他者とつながることへの切ない願望を抱いて佇んでいる。そんな感じである。あるいは、この部屋が私自身の個室であり、ドアの向こうには暮らし始めたばかりのトーキョーの闇が広がっていて、さらにその先のどこかに自分自身の対幻想や共同幻想を夢見ていた、といったおセンチな描写をすべきかもしれない。いずれにしても、この一枚の写真に満ちた人恋し気な気配が、私の脳裏には焼きついてしまったのである。
# by yoshiaki-hanada | 2014-06-09 21:18 | ●花田の日記